創作・エッセイ

幻法ガラス玉演戯  二

 ヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演戯』では、ガラス玉演戯(もともとは音楽や数学の理論を、ガラス玉に象徴させて動かしていくことで、ふつうは煩雑な記述をするべきものを直観的に理解できるようにしたもの。後に学術的な概念をガラス玉に象徴させることで、人間の精神がどのような体系性や連環性をもっているのか、それぞれの思索の体系はどのような形で絡み合っているのかを感じ取って楽しむための芸術)が生まれる前の時代は「フェユトン時代(文芸娯楽欄時代)」とされています。

 この「文芸娯楽欄時代」とは、すべての文化が軽薄化して消費のためのものになって、軽い娯しみのための非本質的な雑文化した時代(その場限りの享楽性だけを追い求めた文化になって、それぞれの奥にある文脈は細切れにされて、文化の切り売り化がおこった時代)とされています。

 そして、文化ですら末節的な部分を切り売りして利益を得るためのものにされていたので、すべての面で世界は利益をめぐって争う戦乱の時代でもあったとされます。

 それを経て生まれてきたのが、ガラス玉演戯(学術を芸術として楽しむこと、あるいは末節的で非文脈化した文化をもう一度連環的で互いに往還し合う精神の形として感じられるようにしたもの)で、その頃ガラス玉演戯は人々に本当に好まれて感動を与えるものだったと書いています(逆にフェユトン的文化人は、一気にその立場を失っていったとしている)

 ただ、そのガラス玉演戯も時代が経つにつれて、高尚を重んじて、その世に関わらないものになり(隠遁者の精神遊戯化して)、人々に本当に感動を与えられるものではなくなり、限られた人々だけの技になってしまうのではないか、という時代が来ているのが『ガラス玉演戯』での舞台になっている時代です。

 このガラス玉演戯が行われているのはカスターリエン(学術と芸術にかかわるものだけが住んでいる都市)なのですが、このカスターリエン人の生き方というのはショーペンハウアーの理想にかなり近いのではないかと思っていて、ショーペンハウアーは「人間は現世への物質的・感覚的な欲望をもつと、それを手に入れようとして様々な障碍にぶつかり、苦しみが生まれる。なので、物質的・感覚的な楽しみよりも精神的な楽しみとして学術や芸術への感度が深いほど生きている間の楽しみが増える」という思想をもっています。

 ヘルマン・ヘッセが『ガラス玉演戯』でおもに書きたいところは、ガラス玉演戯的な文化が少し下り坂に入ってきたときにどのような生き方をするべきか、どのように世界との関わり方を選んでいくかという問題なので、ガラス玉演戯が生まれた時期のことはあまり細かく書かれていないのですが、その頃の世界では文化すら消費・利益のためになっていたような人間の在り方を変えるためにガラス玉演戯は生まれたのではないか、と思うのです。

 なぜ人間の在り方を変えるためだったのかというと、物質的・感覚的な欲望だったり利益だったりをもとめて争うという原因として、この世にある豊かな楽しみ(ショーペンハウアーのいう学術・芸術などによって感じられる精神的な楽しみ)を感受する能力が足りない故の欠乏感があるならば、専門的な学者などでなくてもガラス玉で直観的にみんなが楽しめることで、どんな人でも精神的な楽しみが得られるようにするためのものがガラス玉演戯ということになります。

 ショーペンハウアーの思想は、どちらかというと物質否定に重みがあるわけではなく、精神的な感受能力が足りないことによる不足感を批判しているのではないかと思うのですが(『読書について』の中で「エトルリアの美しい壺のフォルム」という言葉があるように、物質の中にある精神性を感じ取ることは肯定的)、古伊万里や清朝官窯、本阿弥光悦などをみていると、あれが精神性をもたない贅沢品などという評価はできないと思うのです。

 ただし、所有することによってのみ、その物質を享受できないことはやはり不十分というべきで、それゆえに物質の中にある精神を楽しむ方法として生み出されたのが“ガラス玉演戯”というわけです(この辺りの描写はほとんどないので何とも云えないけど)。

 ガラス玉演戯とは、概念(精神的なもの)を人々にみえるようにガラス玉で示すことで、精神を物質化して感受できて(ガラス玉の美しさを楽しみつつ)、誰もがショーペンハウアーの云う「精神的な楽しみとしての学術と芸術」を享受できるようにしたものなのではないかと……。

 これからの世界で人間が幸福になる為には、物質だけでは駄目なのはもちろんだけど、物質を否定して精神だけを重んじる(物質をすべて非精神的なものとする)のでもなくて、精神をすべての物質の中に感じられる感性をもつことなのではないか、人間の活動を物質だけに縛られていた世界(フェユトン時代)から、物質の中にも精神が宿っていてそれを楽しめる時代にしていくことなのではないかと思うのです(ガラス玉演戯はそんな思いで始まったのだと思う)

 それは強いていうなら、精神的な幻妄に遊ぶこと(海王星)と現実世界のあり方・仕組み(土星)がどのように絡み合うべきか、という問題にもつながっていくのではないか、文化・芸術(海王星)と現実の実体(土星)が支え合うことが人間の幸福につながるというのが“ガラス玉演戯”の目的なのではないかと思ったりするのです……。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています