おすすめ記事

地仙天仙

 江戸時代の文人 広瀬淡窓の『淡窓詩話』下に

李白は天仙なり、東坡は地仙なり。天仙は一挙すれば杳として見るべからず。地仙は則ち種々の伎倆あり、人間に布く。

とあって、同じく『淡窓詩話』上に

漢魏の詩は、皆篇法の妙のみにして字句を摘(つみ)て論ず可からず。但し其篇法と云うもの自然に出づ。人力を以て造作するに非ず。六朝以来、初めて佳句あり、是に於て句法篇法の説あり(篇法:全体の構成、句法:それぞれの句の妙)。畢竟、一篇の妙処と云うものは論じ難きものなり。今強て其一二を挙げるに、陶淵明が「東蘺の下に菊を採る、悠然として南山を見る」の二句を古今佳句と称すれども、実は此十字のみにては何の妙もなし。前に「廬を結ぶに人境に在りて、車馬の喧なし。君はどうしてそのように出来るのかと云われれば、心は遠くして地も自ずから偏だから」と四句問答を設けて、身 塵中に在りて、心 塵外に遊ぶことを叙ぶ。是れ虚叙なり。「菊を採る……」以下の六句、一時の景を写し、以て前の言を実にす。是れ実叙なり。若し「菊を採る」の二句を初に置て、後半虚叙を用ゆることなれば、誰も能くすることなり。唯だ虚を以て起し、実を以て結び、「菊を採る……」の二句中間に在りて転換する處、甚だ妙なり。

とあるのですが、陶淵明以上に、古来佳句が多いとされるのは蘇軾で、「春宵一刻値千金」「廬山の真面目を知らず」などは日本でも知られていて、中国では「余音嫋嫋(余韻がいつまでもつづく様子)」「如怨怨慕、如泣如訴(音がとても悲しく物寂しい様子)」「蒼海一粟(大きい天地の中に小さく漂っているようなこと)」「取之不尽、用之不竭(用いても尽きず、取っても涸れず)」などは「前赤壁賦」、「大江東去(時が川の流れのようにゆったりと遠く流れていくこと)」「雄姿英發(風姿が威武にして勇壮な美しさがある様子)」などは「念奴嬌・赤壁懐古」、「一蓑煙雨(あるがまま、なすがまま)」は「定風波・三月七日……」、「天涯何処無芳草(どんなところにも楽しみはある)」は「蝶恋花・春景」だったりと、色々な四字熟語・慣用表現の出典になっています。

 ちなみに、「天涯何処無芳草」はもともとは「どこを見ても春の心をざわつかせる芳草がある様子」だったのですが、後に一つのことに拘らなくても楽しみはあちこちにあることになっています。

  蝶恋花・春景
花褪残紅青杏小。燕子飛時、緑水人家繞。枝上柳綿吹又少。天涯何處無芳草。
牆裡鞦韆牆外道。牆外行人、牆裡佳人笑。笑漸不聞聲漸悄。多情却被無情悩。

花は褪せて紅は残(傷つき)青杏は小さい。燕子(つばめが)飛ぶ時、緑の水は人家を繞る。枝の上には柳の綿も吹かれては又た少くなって、天涯の何処でも芳草(春の草)はあるのだけど。
牆裡(塀の中では)鞦韆(ぶらんこ遊びで)牆の外には道があって、牆の外を行く人よ、牆の裡(内)に佳人笑(きれいな笑い声がして)。笑いは少し聞こえなくなり声は少し悄(萎れていって)、多情は却って無情な人に悩まされるのだけど。

 塡詞(詞ともいう。唐の終わりから宋にかけて流行した曲付きの歌詞)の中の句が、慣用表現化するって、かなり珍しいことだと思っていて、蘇軾と並んで塡詞の大家とされている周邦彦・姜夔などの詞句が慣用表現化する例って、ほとんどないと思っているのですが、蘇軾の詞については、宋・陳師道『後山詩話』に

退之以文為詩、子瞻以詩為詩、如教坊雷大使之舞、雖極天下之工、要非本色。

韓愈は文によって詩を作り、蘇軾は詩によって詩を作っており、教坊(宮中の雅楽処)の雷公舞のようなもので、天下の工を極めているとは云っても、本色とは云えない。

とあったり、清・王国維『人間詩話』刪稿に

詞之為體、要眇宜修。能言詩之所不能言、而不能尽言詩之所能言。詩之景闊、詞之言長。

詞の文体は、要眇宜修(ゆらゆらとしていて飾られているのが美しい)。詩の云えないことを云って、それでいて詩の云い尽くしてしまうことを云い尽くせない。詩の風景は闊(大きく広がっていて)、詞の言葉は長くつづいている。

のようにあって、詞はいつまでもあちこち歩き回りながら、いつまで経っても完成しないような美しさがあり、詩は完成した本質を書いていくような違いがあるとしています。

 さらに、清の陳廷焯『白雨斎詞話』巻一に

詩詞一理、然亦有不尽同者。詩之高境、亦在沈鬱、然或以古朴勝、或以冲淡勝、 或以鉅麗勝、或以雄蒼勝。納沈鬱于四者之中、固是化境、即不尽沈鬱、如五七言大篇、暢所欲言者、亦別有可観。若詞則舎沈鬱之外、更無以為詞。

美成詞極其感慨、而無処不鬱、……「六醜・薔薇謝後作」云「為問花何在」上文有「悵客裡光陰虚擲」之句、此処点醒題旨、既突兀又綿密、妙只五字束住。下文反覆纏綿、更不糾纏一筆、却満紙是羈愁抑鬱、且有許多不敢説処、言中有物、呑吐尽致。大抵美成詞一篇皆有一篇之旨、尋得其旨、不難迎刃而解。否則病其繁碎重複、何足以知清真也。

  六醜・薔薇謝後作
正単衣試酒、悵客裡、光陰虚擲。願春暫留、春帰如過翼、一去无迹。為問花何在、夜来風雨、葬楚宮傾国。釵鈿堕処遺香澤。乱点桃蹊、軽翻柳陌。多情為誰追惜?但蜂媒蝶使、時叩窗槅。
東園岑寂、漸蒙籠暗碧。静繞珍叢底、成嘆息。長条故惹行客、似牽衣待話、別情無極。残英小、強簪巾幘。終不似一朶、釵頭顫裊、向人欹側。漂流処、莫趁潮汐。恐断紅、尚有相思字、何由見得。

詞至東坡、一洗綺羅香澤之態、寄慨無端、別有天地。「水調歌頭」「卜算子・雁」「賀新凉」「水龍吟」諸篇、尤為絶構。

詩詞の理は一つでも、すべてが同じというわけではない。詩の高境は、沈鬱というときもあるし、或いは古朴を以て勝るもの、冲淡を以て勝るもの、 鉅麗(大きくてきらぎらしい雰囲気)を以て勝るもの、雄蒼(重々しく古めかしい雰囲気)を以て勝るものなどもある。沈鬱をその四つの中に入れてみると、もとより沈鬱も一つの美しい境地ではあるけれど、だからと云ってすべてが沈鬱というわけでもなく、五言・七言の大篇では、云いたいものを思うがままに述べ尽して、さらに見るべき美しさがある。詞に於いては沈鬱を離れてしまうと、それ以外に詞を為す魅力はなくなってしまう。

周邦彦の詞はその感慨を極めていて、それでいて沈鬱でないところはなく、……「六醜・薔薇の散ったあと」という作品では「花はどこにあるのかと問えば」の上には「客として過ごすうちに光陰は虚ろに擲(過ぎていく)のを悵(かなしんで)」の句があって、これは一篇の旨をみせていて、突兀として急なようでもあり、また綿密な作り込みもあって、その妙はただ「家はどこに……」の五字に込められている。下文では反覆纏綿しながら、さらに一筆では意が纏まらず、却って紙の中には羈旅の愁いが抑鬱されていて、それでいて多くの敢えて云わないでいるところもあって、言の中にある物は、思いを呑み込んだり吐き出しそうになって趣きを帯びている。大抵、周邦彦の詞は一篇ごとにそれぞれ一篇の旨をもっていて、その旨を知り得れば、その他の句もするすると読めるようになっていて、それが分からないと繁復して碎(こまごまと)重なっているようで、周邦彦の魅力はわからない。

  六醜・薔薇謝後作(薔薇の散ったあと)
単衣を正して酒を少し飲んでみれば、客として過ごすうちに、光陰の虚(さらさら)過ぎていくのを悵(かなしむ)。春は暫し留まってくれるのを願うに、春の帰ること過ぎていく翼(鳥)の如く、一去して迹なし。花はどこにあるのかと問えば、夜来の風雨は、楚宮の傾国たちを葬って、釵と羅鈿の堕ちる処には香澤も遺っているのだけど。はらはらと桃蹊の散っては、軽(ふわふわと)柳陌に翻り、多情は誰のために惜しんでいるのかと思えば、蜂媒と蝶の使いの、時おり窗槅(まど)を叩くのだけど。

東園は岑寂として、漸く蒙籠(ぼんやりとして)暗い碧。静かに珍叢(花の)底をめぐれば、溜め息をするだけで、長い枝は行く客をわざと惹くようで、衣を絡めて話されるのを待っているようだけど、別情極らず。残った英(はなびら)の小さいのを、強(無理して)巾幘(かざしてみれば)、終に一朶の華の、釵頭に顫裊(ひらひらとして)、人に向かって欹側(傾いている)のにも似ず。漂流(流れていった)処には、潮汐(ゆらゆらゆれる水)を追う勿れ。恐らくは断れた紅い花は、まだ相思の字があって、見るのも辛いだろうから。

詞は蘇軾に至って、綺羅香澤の態を洗い流して、思いを寄せること無端(奔放自在にして)、別天地あり。「水調歌頭」「卜算子・雁」「賀新凉」「水龍吟」などの諸篇は、もっとも絶構(並ぶもの無き作)と云える。

などとあって、

東坡詞寓意高遠、運筆空霊、措語忠厚、其獨至処、美成・白石亦不能到。昔人謂東坡詞非正声、此特拘于音調言之、而不究本原之所在。眼光如豆、不足与之辨也。

蘇軾の詞は寓意高遠にして、筆の運びは空霊(みえない霊妙さがあって)、語の措き方は忠厚(おだやかな思いに溢れ)、その獨到のところは、周邦彦・姜夔なども辿りつけないほどのもの。昔の人は蘇軾の詞は正声ではないと云っていたが、それは音調について云っており、それでいて本質を知らない評でもある。眼光は豆の如く小さく、詞をともに語るものではない。

とも書いています。これをみてみると、詞はいつまでも完成しないような書き方で、詩では云い切ってしまうことを云い切らずに書いていて、それでいて詩では書ききれない低徊して反覆するようなものを書いている、その例として周邦彦などは最もそれらしい作者で、客居するうちに今歳もまた春が過ぎていく様子を描くのに、薔薇が散ったあとの庭を徘徊(うろつく)ことを書いて、それでいて客居の寂しさを花を惜しむ思いに重ねていたり、花の枝が思いを話すことを求めているようで、それでいて春を惜しもうとすると花ははらはらと散ってしまい、もはや御溝に流れていった花を見るのも心を傷めるほどなのだが……のように茫漠として、一篇の旨が知りづらいようになっている、という感じです。

 この周邦彦の評などはかなり当たっていると思うのですが、蘇軾はそんな詞の世界では異色で、詩のように云い切ってしまう書きぶりで詞を書いている、それは本来の詞の姿ではない……と陳師道『後山詩話』では云っていますが、それは陳廷焯によると音調に拘われたもので、本質をみていけば蘇軾の詞は、詞の名手とされる周邦彦・姜夔なども及ばないほどの寓意の深さと筆の運びの見えない不思議さを帯びていて、艶麗の趣きに傾きがちだった詞の中の別天地のような感じがある、としています。

 というわけで蘇軾の詞を一つみてみるのですが、とりあえずこれでいきます。

  水調歌頭・明月幾時有
丙辰中秋、歓飲達旦、大醉、作此篇、兼懐子由。
明月幾時有。把酒問青天。不知天上宮闕、今夕是何年。我欲乗風帰去、又恐瓊楼玉宇、高処不勝寒。起舞弄清影、何似在人間。
転朱閣、低綺戸、照無眠。不応有恨、何事長向別時圓?人有悲歓離合、月有陰晴圓缺、此事古難全。但願人長久、千里共嬋娟。

  水調歌頭・明月幾時有
丙辰の年の中秋、楽しみて酒を飲み朝に到り、大いに醉いて、この篇を作り、重ねて子由(弟の蘇轍)を思う。
明月はいつから有るのか。酒を把って青天に問う。天上の宮闕は、今夕はいつの年なるかを知らず。私は風に乗って帰っていきたいと願うけれど、また瓊楼玉宇は、高処にして寒きに堪えぬのを恐れ、舞っては清影を弄び、人の世にある心地もせず。
朱閣を転じて、綺戸に低くなり、照らして眠れず。明月は人を恨むわけではないのに、どうしていつでも別れの時に円く明るいのか。人には悲歓離合があって、月にも陰晴圓缺があり、この事は古くより全きは難いこと。ただ人の長久にして、千里に嬋娟たる月を共にするのを願うのだが。

 この明朗にして振りほどくような趣きが蘇軾らしいのですが、この詞も「悲歓離合」は慣用表現になっていて、「但願人長久、千里共嬋娟」は中秋節(旧暦八月十五日。今の十五夜)の定型挨拶になっていたりと、一つ一つの語がかなり一つの意味を云い切るような趣きがあって、この濶然とした雰囲気はさきにあげた周邦彦とはけっこう異なります(周邦彦は一語あるいは一句を取り出してみるとぼんやりしていたり風景だけだったりと、慣用表現化するのが難しい気がする……たぶんですが)。

 ちなみに、ついでなので姜夔も読んでみると、雰囲気はかなり冷艶な感じが周邦彦とは異なりますが、やはり慣用表現化が難しいのはわかる気がします。

  虞美人
摩挲紫蓋峰頭石、下瞰蒼厓立。
玉盤揺動半厓花、花樹扶疏一半白雲遮。
盈盈相望無由摘、惆悵帰来屐。
而今仙迹杳難尋、那日青楼曾見似花人。

  虞美人
摩挲(もそもそと草の絡んでいる)紫蓋峰の上の石、下には蒼厓の立っているのを見る。
玉盤の色は半厓の花に揺れ動いて、花樹は扶疏(ふわふわとして)一半に白雲の遮る。
盈盈として相い望んで摘むこともなく、帰っていく屐を惆悵(かなしむ)。
今の仙迹も杳として尋ね難く、あの日は青楼に花に似た人を見たのだが。

 この痩せて露に湿った梅の花のような感じが姜夔だとしたら、蒙々とした春の盛りに碧が溢れているような感じが周邦彦という違いがあって、それに比べて蘇軾は兀々たる石の大きく突き出た上に生えている花に長く垂れた藤が絡み……というような大ぶりな魅力がある気がするのですが、この違いを上手く喩えているのがこれだと思います。

  隠秀第四十
夫心術之動遠矣、文情之變深矣。源奧而派生、根盛而穎峻、是以文之英蕤、有秀有隠。隠也者、文外之重旨者也;秀也者、篇中之獨抜者也。隠以複意為工、秀以卓絶為巧、斯乃舊章之懿績、才情之嘉會也。
夫隠之為體、義主文外、秘響傍通、伏采潜發、譬爻象之變互體、川瀆之韞珠玉也。故互體變爻、而化成四象;珠玉潜水、而瀾表方圓。(缺文)
「凉飈動秋草、辺馬有帰心」、気寒而事傷、此覉旅之怨曲也。凡文集勝篇、不盈十一;篇章秀句、裁可百二、並思合而自逢、非研慮之所求也。或有晦塞為深、雖奧非隠、雕削取巧、雖美非秀矣。故自然會妙、譬卉木之耀英華、潤色取美、譬繒帛之染朱緑。朱緑染繒、深而繁鮮;英華曜樹,浅而煒燁、秀句所以照文苑、蓋以此也。賛曰:
深文隠蔚、餘味曲包。辞生互體、有似變爻。
言之秀矣、萬慮一交。動心驚耳、逸響笙匏。(『文心雕龍』隠秀第四十より)

  隠秀第四十
心術が動くのは遠くして、文情の變も深いもの。源は奧にあって派生して、根が盛んにして穎(先にあるもの)も峻(高大にして)、その故に文の英蕤(花)には、秀なるものと隠なるものがある。隠というのは、文外の重旨(何度もあらわれる意味)のこと、秀というのは、篇中に獨り目を引くもののこと。隠は幾重にも重ねられた意によって作り込みの深いものとなり、秀は卓絶した言葉で巧(一際妙なもの)となり、これは旧章の懿績(美しい積み重ね)にして、才情の嘉會(偏に巡り合ったもの)。

隠の文体というのは、意味は文の外に大きく在り、秘された響きは傍らに通じ、伏せられた彩りは潜かに發して、譬えていうなら易の爻象が互体の意味を変えたり、川瀆の中に珠が韞(隠されている)ようなもの。故に互体が爻を変ずれば、化は四象を成したり、珠玉が水に沈んでいると、瀾は方圓の光を表すようなもの。(缺文)

「凉飈は秋草を動かし、北辺の馬は帰心あり」、この句は気象は寒々しく事は悲傷していて、これは覉旅の怨曲。およそ文集の中で勝篇(いい作品)は、十分の一くらいのもので、一篇の作品の秀句は、だいたい百あるうちの二句くらいで、どれも思いが邂逅しておのずから逢ったようなもので、研慮して求められるものでもない。或いは晦塞(あえて意味を隠すようにして)深くみせても、奧(晦渋)なだけで隠れた意味が溢れ出すような趣きはなく、雕削して巧みに見せた句も、美しくても秀(自然に目を引くもの)ではない。故に自然に妙を得たときは、譬えば木々の英華を耀かせるようなもので、色を潤(塗り重ねて)美しくしていても、譬えば繒帛(織物)を朱や緑に染めたようなもので、朱緑の染めものは、深くて繁鮮(色鮮やか)かもしれないが、華が樹の上で耀くのは,浅い色でも煒燁(きらきらしていて)、自然の秀句が文苑で耀いているのは、きっとこの故。賛に曰く

深文の隠蔚として、餘味はすべて渾然と含まれていて、辞は互体を生むように、さらに変爻もあるのに似ている。
言の秀なるものは、萬慮の一交したところにあって、心を動かし耳を驚かし、笙匏の曲の逸響(耳に残る響き)。

 この文中に出てくる「四象」は、いろいろ云われているけど詳しくは不明……という感じです。たぶん、変爻があると互体の意味が様々に変わっていく様子は、隠された意味が幾重にも易の解釈を彩って、文外の趣きが周りを飾るように傍通している様子で、それは川底にある珠が瀾に合わせてさまざまに光を変える様子にも似ている……という意味です。

 さきの例でみてみると、周邦彦「六醜・薔薇謝後作」では「客裡に今歳も過ぎていくこと」が川底の珠、花を惜しんだり、薔薇の咲き残った苑叢の下を歩いたり、春の鳥が飛んでいくのをみたり……というのはすべて「方圓の瀾」という感じです(さらに陳廷焯の用語で云うと、「一篇の旨」は川底の珠、「反覆纏綿」は互体が変爻などを帯びながら様々な象意を重ねて、卦を彩っていくことです)。

 一方で、詞は多くは「沈鬱」な作風がいいとされるので、低徊して纏綿する隠約な雰囲気にするのがいいけど、蘇軾は一語であえて云い切ってしまうような句を含んでいて、それはとても印象に残るので(ちなみに一篇の旨とは関係ないことも多い)、詞の中ではかなり珍しく「秀」を含んでいる詞人ということになりそうです。もっとも、この「秀」というところまで辿り着いてしまう意の高遠さが蘇軾独特のところで、

人知東坡古詩古文、卓絶百代。不知東坡之詞、尤出詩文之右。蓋仿九品論字之例、東坡詩文縦列上品、亦不過為上之中下。(七言古為東坡擅長、然于清絶之中雑以浅俗語、沈鬱処亦未能尽致。古文才气縦横而不免霸気、総不及詞之超逸而忠厚也。)若詞則幾為上之上矣。(『白雨斎詞話』巻七)

人はみな蘇軾の古詩や古文が百代に卓絶しているのを知っているが、蘇軾の詞がさらに詩や文の上にあることを知らない。九品で字を論じる例にならってみれば、蘇軾の詩文は上品に入ることをほしいままにするだろうけど、それでも上の中か下くらいに留まる。(七言古詩は蘇軾が最も得意にしているが、その清絶の中にも浅俗な語が混ざっていたり、沈鬱のところも趣きを尽し切らないところがある。古文も才气縦横にして霸気が入ることを免れず、総じて詞の超逸にして柔らかいものを帯びているところに及ばない。)詞についてはほとんど上の上になる。

とも云って、ある意味では最も褒めています。

 ちなみに、ちょっと興味深いのが、隠の作者と秀の作者(あるいは慣用表現化しない作者と慣用表現化する作者)というのがいるらしくて、秀の作者には王勃・司馬相如・枚乗などがいて、王勃は初唐四傑(初唐の四人の美文家)の一人、司馬相如は漢賦四大家(漢代の賦の名手。他には揚雄・班固・張衡がいる)、枚乗は初期の賦の大家(強いて並べるなら楚の宋玉と並称されるかも)なのですが、それぞれ同時期の作者と比べてみても慣用表現化した句はかなり多いです。例えば

王勃「滕王閣序」:物華天寶(珍奇な産物が豊かなこと)、地霊人傑(人才と産物がともに豊かな土地のこと)、騰蛟起鳳(蛟龍が躍り鳳凰が起舞するように、それぞれの人が文才を咲かせること。後には多くの才が聚まること)、紫電清霜(もとはそれぞれ宝剣の名。転じて武備の精良なこと)、飛閣流丹(高い楼閣に丹塗の艶やかなこと)、虹銷雨霽(天がさっと霽れること)、天高地迴(天地の如くとても高遠なこと)、萍水一逢(水の上の浮萍の如く漂ってやまない中に一たび出会ったこと)盛筵難再(楽しい聚まりはなかなか得られないこと)、物換星移(時がながれること)

司馬相如「子虚賦」:化為烏有(「子虚賦」の烏有先生から、嘘になること)、汹涌澎湃(水がごぼごぼと流れてすごいこと)

枚乗「上書諫呉王」:危如累卵(積み上げた卵のごとく危ないこと)、間不容髪(髪一本も入らないほど狭いこと)、穏如泰山(泰山の如くどっしりとして安らかなこと)、易如反掌(手のひらを返すごとく容易いこと)

などがあって、揚雄は「甘泉賦」の「雲譎波詭(雲や波のごとく変幻して定まらないこと)」などは一応あるけど、一読して印象に残る表現が多い作者というのは何となく感じます。

 もっとも、印象に残る表現がある作者は、ある意味では文章が不均一で大きくうねるような雰囲気になって、(高い立意のために一部が特に目立つようになるので。隠の作者は全体的に落ち着いた朦朧美になるのですが)それは蘇軾の『東坡易伝』を読んでいても感じることがあります。

『東坡易伝』では、彖伝にほとんど注釈をつけずに爻辞の関係性で説明している卦(同人・萃・困など)があって、大象伝には注釈をつけないことも多いです。一方、『周易正義』では爻の関係性以外の読み方もいろいろと載せてあるので、比べてみると『東坡易伝』は全体を爻の関係性で読んでいる印象を受けます(さらに云えば、同人では同人劇、萃では萃劇のように見えたり、或いは損だと下を削って上を益する様子と解説して、それぞれどのような損があるかは爻辞で解説したりみたいな感じで、卦全体の意味によって爻どうしがどのように関わるのかも解釈を変えています)。

 例として、天火同人は心を同じくするものたちが野で互いに求められずして聚まる様子なのですが、その爻辞の中で

九三:伏戎於莽、升其高陵、三歲不興。
九四:乗其墉、弗克攻、吉。
六二之欲、同乎五也。歴三與四而後至、故三與四皆欲得之。四近於五、五乗其墉、其勢至迫而不可動、是以雖有争二之心、而未有起戎之迹、故猶可知困而不攻、反而獲吉也。若三之於五也、稍遠而肆焉。五在其陵、而不在其墉、是以伏戎於莽而伺之、既已起戎矣、雖欲反、則可得乎?欲興不能、欲帰不可、至於三歲、行将安入?故曰「三歲不興、安行也。」

九三:戎(武器)を叢に隠している。その高陵に乗っているので、三歲にして興さず。
九四:その墉(塀)に乗っているので、攻めて勝てない、吉。

六二が欲しているのは、九五とひとつになることなのだが、九三と九四を経てのちに九五にたどり着くので、九三と九四はどちらも六二を得ようとする。九四は九五の近くにいるので、九五はその墉(塀)に乗って守り、九四の勢いはとても逼っているけれども九五を動かせず、なので六二を争う心があっても、九四はまだ兵を起こした迹がなく、故に勝てないのを知って攻め込まないので、むしろ吉を獲る。九三だと九五からそれなりに離れていて好き放題にできるけど、九五はその陵の上に居て、墉(塀)には乗っていないので、九三は武器を草叢に隠して様子をうかがっており、既に武器を出だしていて、帰ろうと思ってもやめられず、九五を攻めることも叶わず、帰ることもできず、そんなことをして三年が過ぎており、どこに行くこともできない。故に小象伝に「三歲にして興らず、どこにも行けない」と云う。

のように云っていて、同人の六二はどことなく衰乱の世の梟雄みたいな雰囲気、九五は傾きかけた王家で、九三・九四は地方の奸臣や軍閥で、それぞれ六二(急に勃興した勢力)を引き入れようとしていて、それによって王家を窺うつもりで……みたいになっていて、さらにその脇には初九・上九もそれぞれ仲間を集めていて、初九はまだ小さい勢力だけど仲間を集めているうちに六二が既に大きくなってしまった雰囲気、上九は目立たないところにいる朝廷の老臣みたいな雰囲気があったりと、爻の性格を感じるような注釈になっています(爻の位によってどのような役割になるかも大成卦によって解釈を変えていて、さらに多術多変です。なので、損の術としての爻の解釈・同人の術としての爻の解釈・萃の術としての爻の解釈……みたいになっています)

 この“それぞれが異なる性格を持つ”という感覚が、蘇軾の文学の本質だと思っていて、それを感じさせる作品を『東坡志林』(蘇軾の短い雑文集)からひとつ。

  記承天寺夜遊
元豊六年十月十二日夜、解衣欲睡、月色入戸、欣然起行。念無與楽者、遂至承天寺尋張懐民。懐民亦未寝、相與歩於中庭。庭下如積水空明、水中藻荇交横、蓋竹柏影也。何夜無月、何処無竹柏、但少閑人如吾両人耳。(『東坡志林』巻一)

元豊六年の十月十二日夜、衣を解いて寝ようとして、月の光が戸から入ってきて、思わずうれしくなって外に出た。一緒に楽しむ人がいないことを思い、承天寺にいって張懐民を尋ねた。張懐民も眠っていないときだったので、ふたりで寺の中庭を歩いた。庭の下には溜まった水がすっきりと明るく、水中には藻や荇(水草)が交わり横わっているようで、きっと竹柏の影だったのかもしれない。月の出ていない夜もなく、竹柏のないところもないのに、私たちのような閑な人がいないだけなのだろうが。

 これが大きくなると『東坡文鈔』(蘇軾のより公的な文章を集めた文集)のこれになると思っていて

  石鐘山記
『水経』云「彭蠡之口、有石鐘山焉。」酈元以為下臨深潭、微風鼓浪、水石相搏、聲如洪鐘。是説也、人常疑之。今以鐘磬置水中、雖大風浪、不能鳴也、而況石乎?至唐李渤始訪其遺踪、得雙石於潭上、扣而聆之、南聲函胡、北音清越、桴止響騰、餘韻徐歇。自以為得之矣。然是説也、余尤疑之。石之鏗然有聲者、所在皆是也、而此獨以鐘名、何哉?

元豊七年六月丁丑、余自斉安舟行、適臨汝、而長子邁将赴饒之德興尉、送之至湖口、因得観所謂石鐘者。寺僧使小童持斧、於乱石間、擇其一二扣之、硿硿焉。余固笑而不信也。至暮夜、月明、獨與邁乗小舟、至絶壁下。大石側立千尺、如猛獣奇鬼、森然欲搏人;而山上棲鶻、聞人聲亦驚起、磔磔雲霄間;又有若老人欬且笑於山谷中者、或曰「此鸛鶴也。」余方心動欲還、而大聲發於水上、噌吰如鐘鼓不絶、舟人大恐。徐而察之、則山下皆石穴罅、不知其浅深、微波入焉、涵澹澎湃而為此也。舟回至両山間、将入港口、有大石當中流、可坐百人、空中而多竅、與風水相呑吐、有窾坎鏜鞳之聲、與向之噌吰者相応、如楽作焉。因笑謂邁曰「汝識之乎?噌吰者、周景王之無射也;窾坎鏜鞳者、魏荘子之歌鐘也;古之人不余欺也。」

事不目見耳聞、而臆断其有無、可乎?酈元之所見聞、殆與余同、而言之不詳。士大夫終不肯以小舟夜泊絶壁之下、故莫能知;而漁工水師、雖知而不能言、此世所以不傳也。而陋者乃以斧斤考撃而求之、自以為得其実。余是以記之、蓋嘆酈元之簡、而笑李渤之陋也。(『東坡文鈔』巻二十五)

『水経』では「彭蠡(翻陽湖)の口には、石鐘山という山がある」とあって、酈道元は「下は深い潭(淵)に臨んでいて、微風が浪を起こすと、水石は相搏(ぶつかりあって)、聲は洪鐘(大きい鐘)のようになる」としている。この説を、人は常に疑っている。今試しに鐘磬(かね)を水の中に置いてみれば、大風の浪が起こっても、鐘が鳴ることはないのに、石が鳴るなどあり得ないということで、唐に至って李渤が始めてその地を訪れて、その潭の上にふたつの石があり、扣いて聞いてみると、南の声は函胡(籠ったようで)、北の音は清越(すっきりとしていて)、石を扣く桴(槌)を止めても音は騰(広がっていって)、餘韻は徐々に止んでいった。みずから石鐘山の由来を知ったと思ったらしいが、この説について、私は深く疑っており、石を扣いて鏗然(かんかん)として音がするのは、どんな石でもするのに、なぜここだけ“鐘”のをつけたのかがわからない。

元豊七年の六月丁丑の日、私は斉安から舟に乗って、臨汝に向かっていたが、長子の蘇邁が饒州の德興府の尉として赴くのを、翻陽湖の口まで送っており、そのついでに石鐘山を観ることになった。寺の僧は童に斧を持たせ、乱石の間にて、その一二を選んで扣かせると、硿硿(こんこん)という音がした。私はもとより笑ってそれを信じなかった。夜になって、月も明るく、私は蘇邁と一緒に小舟に乗って、絶壁の下に行ってみた。大石は側で千尺ほどに切り立っていて、猛獣や奇鬼のような姿になって、森然(ものものしく)人に襲いかかってきそうなほどで、山上には鶻(はやぶさ)が棲み、人の声を聞くと驚いて飛び立ち、磔磔(きぃきぃと)雲霄の間に鳴いており、さらに老人が咳をしたり笑ったりするような声が山谷の間に聞こえて、或る人が「これが鸛鶴(こうのとり)だ」と云っていた。私は思わずぞわぞわとして帰ろうと思ったが、そんなとき大きい声が水の上から聞こえてきて、噌吰(こーんこーん)と鐘鼓が絶えないようだったので、舟人も大いに恐れていた。落ち着いてみてみると、山の下にはあちこちに罅(割けたような)石穴があり、その深さも知れないほどだったが、微波が入っていくと、涵澹澎湃(ほろほろころころ)として音がするらしかった。舟をめぐらして両山の間に至り、港の口に入ろうとすると、大きい石が流れの真ん中にあり、その上には百人ほどが座れる広さがあったが、その真ん中は穴があいていて竅(凹み)も多く、風や水の呑吐(流れ込んだり出て行ったりするのに)合わせて、窾坎鏜鞳(からころどうどう)という声がして、さきの噌吰(こーんこーん)という音と合わせて、楽を為しているようだった。笑って蘇邁にいって「お前はこれを知っていたか。さきの噌吰(こーん)という音は、周景王が鋳た一つの大鐘で、今の窾坎鏜鞳(からころどうどう)という音は、魏荘子の編鐘なのだ。古の人は私を欺かなかった。」

物事は目で見たり耳で聞いたりせず、その有無を臆断するわけにはいかず、酈道元の見聞きしたものは、殆んど私と同じで、書き方が詳しくないだけだった。士大夫たちは終に小舟で夜に絶壁の下に泊まったりはしないので知ることもなく、漁夫や舟人は知っていても言うことができず、これが世に伝わらない理由である。それでいて陋なのは斧で扣いてそれで知ったと思っているもので、私はその故にこれを記して、酈道元の簡を嘆き、李渤の陋を笑う。

 こんな感じで、蘇軾はそれぞれの人が知っている真理を重んじていて、『東坡志林』の中にはけっこう妖しい方術的な話が出てくるのですが、

  論雨井水
時雨降、多置器広庭中、所得甘滑不可名、以潑茶煮薬、皆美而有益、正爾食之不輟、可以長生。其次井泉甘冷者、皆良薬也。乾以九二化坤之六二為坎、故天一為水。吾聞之道士、人能服井花水、其熱與石硫黃鐘乳等、非其人而服之、亦能發背脳為疽、蓋嘗観之。又分至日取井水、儲之有方、後七日輒生物如雲母状、道士謂「水中金」、可養鍊為丹、此固常見之者。此至浅近、世獨不能為、況所謂玄者乎?

  導引語
導引家云「心不離田、手不離宅。」此語極有理。又云「真人之心、如珠在淵;衆人之心、如泡在水。」此善譬喩者。

  記養黄中
元符三年、歲次庚辰;正月朔、戊辰;是日辰時,則丙辰也。三辰一戊、四土會焉、而加丙與庚:丙、土母、而庚其子也。土之富、未有過於斯時也。吾當以斯時肇養黄中之気、過此又欲以時取薤薑蜜作粥以啖。吾終日黙坐、以守黄中、非謫居海外、安得此慶耶?東坡居士記。(『東坡志林』巻一より)

  誦金剛経帖
蔣仲甫聞之孫景修言:近歲有人鑿山取銀礦至深処、聞有人誦経声。發之、得一人、云「吾亦取礦者、以窟壊不能出、居此不知幾年。平生誦『金剛経』自随、每有飢渴之念、即若有人自腋下以餅餌遺之。」殆此経變現也。道家言「守一」、若飢、一與之糧;若渴、一與之漿。此人於経中、豈所謂得一者乎?(『東坡志林』巻二)

  記女仙
予頃在都下、有伝太白詩者、其略曰「朝披夢澤雲。」又云「笠釣清茫茫。」此非世人語也、蓋有見太白在肆中而得此詩者。神仙之道、真不可以意度。紹聖元年九月、過広州、訪崇道大師何德順。有神僊降於其室、自言女僊也。賦詩立成、有超逸絶塵語。或以其託於箕帚、如世所謂紫姑神者疑之。然味其言、非紫姑所能至。人有入獄鬼群鳥獣者託於箕帚、豈足怪哉。崇道好事喜客、多與賢士大夫為游、其必有以致之也哉?(『東坡志林』巻三)

  雨井の水について
良い雨が降ったとき、多くの器を広い庭に置いておくと、その雨水は甘く滑らかなこと名づけ得ないほどで、茶を淹れたり薬を煮たりすれば、皆な美味にして益もあり、ずっとそれをつづければ、長生を得るとされる。それに次ぐものとして井泉の甘やかで冷たいものは、皆な良薬とされている。乾卦の中爻で坤の中爻を化すれば坎になり、これが天一(北極紫宮の神、太陰の神、南を司る神などとされる)が水を生むこと。
私は道士から「井花水(朝早く汲んだ井戸の水)を飲んでいる人は、熱があるときに硫黄・鐘乳などを与えれられるが、そうでない人は硫黄鍾乳などを飲ませると、發背(腫物ができて)脳にも疽(毒の滞り)ができてしまう」と聞いたが、きっとかつてそれを見たのだろう。
また春分や冬至などの日に井戸の水を取って来て、ある方法で蓄えると、七日のちには雲母状のものが出ており、道士はこれを「水中金」と呼んでいて、鍊丹に用いるとしているが、これはもとより常に出てくるもので、このように浅近なものでさえ、人々はできないのに、深くて難しいものなどまるで及ばないのだろう。

  導引の語
導引家(道教のヨガみたいなものをする人)が云う「心は田を離れず、手は宅を離れず。」この語は極めて理があるもので、さらに云う「真人の心は、珠が淵にあるようで、衆人の心は、泡が水にあるよう。」これもいい譬喩になっている。

  黄中を養う記
元符三年は庚辰の年、正月元日は戊辰の日、この日の辰の時は丙辰。三つの辰に一つの戊で、四つの土が會しており、さらに丙と庚が加わっている。丙は土の母、庚はその子。土の富むことは、この時を超えることもなく、私はこの時に黄中の気を養おうと思っていて、このときを過ごすのに薤薑(ニラと生姜)の蜜入りの粥を作って食べようと思っていた。終日を黙って坐って過ごし、黄中を守っていたが、海南に謫居する身でなければ、この楽しみは得られない。東坡居士記す。

  金剛経を誦する人のこと
蔣仲甫はこの話を孫景修から聞いたのだが、最近ある人が山を掘って銀鉱を取ろうとして深いところまで掘り進めていくと、人が経を誦しているような声が聞こえてきた。なので掘ってみると、人が一人でてきて、その人が云う「私も銀鉱を取りにきて、穴が壊れて出られなくなってしまい、ここで何年も過ごしていたのだが、平生『金剛経』を誦して手放さなかったので、飢渴しそうになるたびに、いつも腋の下から餅餌(餃子)を差し入れてくれる人がいるようだった。」これはきっと『金剛経』が変じて現れたものなのだろう。道教では「守一」という法があり、飢えたときには“一”が食べ物をくれて、喉が渇くと“一”が漿(汁物)をくれるという。この人は経の中から、“一”を得ているものなのだろう。

  記女仙
私が都(汴京)にいた頃、李白の詩を伝えているものがいて、その詩句に「朝に夢澤の雲を披き」或いは「笠釣は清茫茫」などと云う句があった。これは世の人のつくれる語ではなく、思うに李白が酒肆の中でこの詩を得たのを見たのだろう。神仙の道は、本当に意によって測れるものではなく、紹聖元年九月、広州を過ぎたときに、崇道大師何德順を尋ねた。そのとき扶鸞(自動筆記)をやっており、神僊がその部屋に下っていて、みずから女仙と云っていた。賦詩はさらさらと書き上げられ、その中には超逸絶塵の語もあった。箕帚(自動筆記は砂の上に箒で字を書くので、その箒)を動かしているものを、或る人はいわゆる「紫姑神(道教の女神)」だと云っている。しかしその言をみてみると、紫姑の云いそうなことではないものもあり、人によっては獄鬼や鳥獣などが箕帚に乗り憑ったというものもいて、それも怪しむに足りないものがある。崇道大師は好事にして客を好み、賢士大夫とよく遊びで扶鸞をしているが、必ず神仙を降ろせるわけでもないのだろう。

 ……妖しくて魅力的すぎる。まず、「井花水(朝早く汲んだ井戸水)」なんて云う語を初めて見たのですが、蘇軾の持っている俗っぽいようで本当かもしれなくて、妖しくて民間的な雰囲気がすごく出ています。

 導引は、道教版のヨガだと思ってもらえれば近いのですが、「田」は丹田(内丹を練るところ)、「宅」は心のことだと思います。二つめの語は『荘子』大宗師篇の「真人之息以踵、衆人之息以喉(真人の息は踵でして、衆人の息は喉でする)」からの派生だと思うけど、荘子のほうは深い落ち着きを離れない感じで、導引家の語はわずかにゆれることはあっても、その本質を失わない様子みたいな感じがあるかもです。

「黄中の気を養うの記」に至っては、俗信的にして自然を感じているようでもあり(五行説では、十干十二支にも五行の配分があって、戊・辰は土で、五行相生だと火―土―金の順で生まれてくるので、丙は火なので土を生み、庚は金なので土に育てられ、土の盛んな元日はこれを除いてないという意)、『金剛経』を誦する人の話のどことない荒唐無稽さや、扶鸞(自動筆記)の話もどこまでも楽しいです。

 ところで、この扶鸞の話に出てくる詩なのですが、一応作者は李白とされていて、全文がこんな感じです。

  上清宝鼎詩  其一
朝披夢澤雲、笠釣清茫茫。
尋絲得双鯉、中有三元章。
篆字若丹蛇、逸勢如飛翔。
帰来問天老、奥義不可量。
金刀割青素、霊文爛煌煌。
咽服十二環、奄見仙人房。
暮跨紫鱗去、海気侵肌凉。
龍子善変化、化作梅花妝。
贈我累累珠、靡靡明月光。
勧我穿絳縷、繋作裙間襠。
挹子以携去、談笑聞遺香。

朝に夢澤の雲を披けば、笠は釣して清茫茫たる中にいる。
絲を尋ねれば双つの鯉がいて、その中には三元の章がある。
篆字は丹の蛇の如く、逸る勢いは飛ぶ如くして
帰り来たりて天老に問えば、奥義は量るべからず。
金刀は青い素(絹絲)を割き、霊文は爛として煌煌たり。
咽には十二の環を服し、忽ち仙人の房を見る。
夕に紫鱗に跨って行けば、海気は肌を侵して凉しく
龍子は善く変化し、化しては梅花の妝となる。
私に累累たる珠を贈るに、靡靡たる明月の光なり。
私に絳い縷(糸)を縫うように勧め、繋して裙間の襠(重ね布)とさせる。
その子を挹(連れて)ともに去れば、談笑して遺香を聞かせるのみ。

 ……何これ?!という詩です。

「夢澤」は雲夢澤(洞庭湖)のこと、その中に笠をかぶって釣りをする人がいる。その人が垂らす絲の先には二匹の鯉がいて、その腹の中には「三元(天地水の三元)」の経典が入っている(道教の経典です)。その書はうねうねとうねる篆字で書かれていて、赤い蛇が天に飛びそうな勢いでうねっている。帰って来て天老(黄帝の臣)にその書について問うてみれば、その義は測り知れないほどで、金の刀は青い白糸を割き(青い料紙を金泥の字が割くように書かれている?)、霊文は爛爛として煌煌たり。その経典にあるように喉に十二の環を服せば(そういう行法?)、忽ちにして仙人の房中に入り、夕べに紫の鱗の龍に乗っていけば、海の気は肌に入るように冷たく、乗っていた龍の子は変化して梅花の妝の女子になって、私にいくつもの珠を贈れば、その珠は明月の輝きで、絳い糸を縫い付けるように勧めてきたので、それを袴の重ね布にすれば、その女仙とともに去っていき、笑って話す声は遺香のように漂うのだけど、という詩だと思います(途中よくわからないところがある)。

 ちなみに「上清」は、道教でいう三清境(玉清、上清、太清)の一つで、「宝鼎」は丹薬を烹る鼎のことです。この超逸的な雰囲気が李白だと思ってもらえると近いですが、ついでなので李白の詩をあと二つくらい載せておきます。

  月下獨酌四首  其一
花間一壺酒、獨酌無相親。
挙杯邀明月、対影成三人。
月既不解飲、影徒随我身。
暫伴月将影、行楽須及春。
我歌月裴回、我舞影零乱。
醒時同交歓、醉後各分散。
永結無情游、相期邈雲漢。

  玉真仙人詞
玉真之仙人、時往太華峰。
清晨鳴天鼓、飇歘騰双龍。
弄電不綴手、行雲本無踪。
幾時入少室、王母応相逢。

  月下獨酌四首  其一
花間に一壺の酒、獨酌して親しむ人もいない。
杯を挙げて明月を邀(迎えれば)、影と対して三人になる。
月は既に飲むことを解せず、影はただ私に従うだけ。
暫らく月を伴い影を連れて、行楽して春に及ぶべく
私が歌えば月は裴回し、私が舞えば影は零乱たり。
醒めた時には同じく交歓して、醉った後には各々分れ帰っていく。
永く無情の游を結んで、邈たる雲漢(天河)に会うのを待つ。

  玉真仙人詞
玉真の仙人は、時に太華の峰に往く。
清晨にして天鼓を鳴らし、飇歘(びょうびょう)とした風は双龍を騰(立たせ)
電を弄びて手は止まらず、行雲はもとより踪無く、
何時になったら少室山に入りて、王母に逢えるものか。

「上清宝鼎詩」ほどにはあれではないけど、さきに挙げた有名な「月下独酌」では月を迎えて裴回零乱(ひらひら舞ってはらはら散っていくような雰囲気)、「玉真仙人詞」では玉真公主が華山の峰の上で天鼓を鳴らして龍を飛び騰たせ、雷をあちこちに飛ばしているけれど、私はいつになったら霊山に帰って西王母に会えるのか……というように、「李白は天仙なり、天仙は一挙すれば杳として見るべからず」な雰囲気があります(蘇軾の水調歌頭・明月幾時有「瓊楼玉宇は、高処にして寒きに堪えず」とは結構異なります)。

 というわけで、「東坡は地仙なり。地仙は則ち種々の伎倆あり、人間に布く」なのですが、その種々の伎倆をみていきます。

  和子由踏青
東風陌上驚微塵、遊人初楽歲華新。
人閑正好路傍飲、麦短未怕遊車輪。
城中居人厭城郭、喧闐曉出空四鄰。
歌鼓驚山草木動、箪瓢散野烏鳶馴。
何人聚衆称道人、遮道賣符色怒嗔。
宜蚕使汝繭如甕、宜畜使汝羊如麇。
路人未必信此語、強為買服禳新春。
道人得銭径沽酒、醉倒自謂吾符神。

東風の陌上(田の道の上)に微塵を驚かし、遊ぶ人は初めて歲華の新たなのを楽しむ。
人は閑(ゆったりとして)ちょうど路傍で飲んでいるとき、麦は短かく車が通るのも不怕(おそれない)。
城中に居る人は城郭に厭き、喧闐として騒いで朝より出でてどの家もしんとしていて、
歌鼓は山を驚かし草木を動かし、箪瓢は野に散らかって烏鳶も馴れている。
ある人が衆を聚めて道人と称し、道を遮って符を売り目は怒嗔(らんらん)としているが
「あなたの蚕は繭は甕の如く大きく、あなたの羊は麇(鹿)の如くまるまる育つ」という声を
路の人はあまり信じていないけど、それでも買って服して新春の禳(祓い)にすれば、
道人は銭を得て路上に酒を沽(買い)、醉倒してみずから「私の符は神なのだ」と云っている。

 ……俗の大俗というか、雅の大雅(?)というか、この嘘っぽいような、それでいてもしかすると本当に神符には効験があるのかも知れない雰囲気(もしかすると酔い倒れて遊んでいる神仙かもしれない)です。ちなみに「踏青」は清明(旧暦の二月後半~三月初め辺り)の野遊びの行事です。

  記朝斗
紹聖二年五月望日、敬造真一法酒成、請羅浮道士鄧守安拝奠北斗真君。将奠、雨作、已而清風粛然、雲気解駁、月星皆見、魁標皆爽。徹奠、陰雨如初。謹拝首稽首而記其事。

紹聖二年五月の望日、敬みて真一法によって酒を造り、羅浮山の道士鄧守安に請うて北斗真君を拝奠してもらう。奠しようとしたときに、雨が降ってきて、已んだと思うと清風が粛然(さっと起こり)、雲気は解駁(はらはらと散っていって)、月星も皆な見えて、魁標(北斗の先)も皆なきらきらと見えていた。奠が終わると、陰雨はまた初めのごとく降ってきた。謹みて拝首稽首してこの事を記す。

「真一法」はたぶん独特の方法で酒を造ること(おそらく道教的・丹道的な意味を込めていると思う)、「朝斗」は「北斗七星に朝する」の意で、北斗七星を祀ることです(『東坡志林』の道教用語って初めてみるものが多い……)。「奠」は供え物を祭壇に置くこと(おそらく真一法で作った酒を供える)、「魁標」は「標:先、梢」なので北斗七星のさきの意(だと思う。あるいは木々の梢?)、「拝首稽首」は礼の一種です。

 別にどうという不思議なことが起こるわけではないけれど、それでも奠をするときだけ霽れたという不思議さ、さらにはそれにまつわる様々な道教の儀礼が一つの伎倆(術)だと思ったりしています。

  記筮卦
戊寅十月五日、以久不得子由書、憂不去心、以『周易』筮之。遇渙之三爻、初六変中孚、其繇曰「用拯馬壮、吉。」中孚之九二変為益、其繇曰「鳴鶴在陰、其子和之。我有好爵、吾与爾靡之。」益之六三変為家人、其繇曰「益之、用凶事、无咎。有孚中行、告公用圭。」家人之繇曰「家人利女貞。」象曰「風自火出、家人。君子以言有物、而行有恒也。」吾考此卦極精細、口以授過、又書而蔵之。

戊寅の十月五日、久しく弟の蘇轍から手紙がないので、憂いは心を去らず、『周易』でその故を占ってみた。

渙の三爻が変じていたので、渙初六が変ずると中孚になって、その辞に「馬の壮に拯(すくわれるを)以て、吉」とある。
中孚の九二が変ずると益になり、その辞に「鳴いている鶴は陰に居て、その子たちもこれに和す。“私には良い酒器があり、私と君で飲みましょう”と誘われる」とある。

益の六三が変ずると家人になり、その辞に「益してあげるのは、凶事に用いるからで、咎はない。信があって道に従い、公に告げて圭(玉器)を用いるようなもの」、家人の卦辞に「家の中のことをするのに良い」、象伝に「風と火は支え合っているのが家人。君子は実を持った言をして、行いも恒あり」という。私はこの卦の意味を考えてみて極めて精細なので、口で人に話し、さらに書いて残しておいた。

 これは過去記事でも書いたのですが、『東坡易伝』で読んでみると、たぶん蘇轍は困っている人に馬を借してあげたら(馬を貸す……は比喩で、助けてあげたことの意)、別に返礼を期待して助けたわけではないけど、相手からいい酒器があるので少しご馳走させてくださいと言われて、それについていったらその人はお金はないけれども気持ちを裏切らない人だったので、公から圭を儀礼の間だけ貸し与えるように助けてあげる気になって、それでさらにご馳走にあずかって……ということになって、何か大きいことをしているわけではないけど、楽しく過ごしているということです。

 この占い方はふつうの易の占い方とは異なっているけど、蘇轍の身の周りのことをうまく伝えている、という意味で、一種の変則的な筮法を使っている(しかも、その占いの結果がもはや殆ど蘇軾の文章みたいになっている)感じがあります。

  記真君籤
沖妙先生季君思聡所製観妙法象、居士以憂患之餘、稽首洗心、帰命真寂、自惟塵縁深重、恐此志未遂、敢以籤卜、得呉真君第三籤、云「平生常無患、見善其何楽。執心既堅固、見善勤修学。」敬再拝受教、書『荘子』養生一篇、致自厲之意、不敢廢墜、真聖験之。紹聖元年八月二十一日、東坡居士南遷過虔、與王嵓翁同謁祥符宮、拝九天使者堂下、観之妙象、実同此言。

沖妙先生 季思聡の作った観妙法象で、私(蘇軾)は憂患のあまりに、稽首して洗心し、真寂に帰命して、みずから塵縁の深さを思い、その志の遂げられないのを恐れて、籤卜をしてみると、はたして呉真君の第三番を得た。その詩に曰く「平生 常に患い無く、善を見ればそれは楽しいもの。執心して既に堅固、善をみて修学に勤める。」

敬みて再拝して教えを受け、『荘子』養生主篇を書き写し、みずから励む意を示し、不敢廢墜(怠ることもなくすれば)、真聖はこれに験あって、紹聖元年の八月二十一日、東坡居士は南遷して流罪の身となって、王嵓翁とともに祥符宮に詣でて、九天使者の堂下で拝してのち、観妙法象を引いてみると、同じ詩が出たのだった。

 ……これは道教版のおみくじの話です。季思聡という人が作った「観妙法象」というおみくじで、昔 蘇軾は呉真君の第三籤(たぶん呉真君の他にも、王真君だったり張真君だったりもあって、それぞれの担う効験や福徳によって第五番くらいまでの詩があって……という作りだと思います。引いてみたい)を得て、その生を全うする思いを込めて『荘子』養生主篇を写し、海南島に流刑の身になってもまた同じ詩に守られて生を全うした……ということなのですが、俗っぽい中に真理があるのかもしれない、あるいはあちこちに不思議なものがあるのかもしれない、という感情が蘇軾の作品の魅力だと思ったりしてます。

  讀道藏
嗟余亦何幸、偶此琳宮居。
宮中復何有、戢戢千函書。
盛以丹錦囊、冒以青霞裾。
王喬掌関籥、蚩尤守其盧。
乗閑竊掀撹、涉猟豈暇徐。
至人悟一言、道集由中虚。
心閑反自照、皎皎如芙蕖。
千歲厭世去、此言乃籧篨。
人皆忽其身、治之用土苴。
何暇及天下、幽憂吾未除。

ああ私は何とも幸せなことで、偶々この琳宮に寄ることができた。
宮中には何があるのかと云えば、戢戢(高く積まれた)千函の書。
包むに丹錦の囊を以てして、重ねるに青霞の裾を以てして、
王子喬は関籥(扉の鑰)を掌り、蚩尤はその盧を守る。
閑に乗じて竊(ひそかに)掀撹(あちこちを読んでみると)、涉猟して暇徐(休むこと)もなく
至人は一言にして悟らしめ、道の集まるのは中虚に由っており、
心は閑にして翻ってみずからを照らしてみるに、皎皎として芙蓉の如く
千歲にして世を厭うて去れば、私の言も籧篨(不具のぼろ蓆)なのだが、
人は皆なその身を忽せにして、身を治めること土苴(くず草)のようなので
天下のことなどにも及ばずして、幽憂は私から未だ去らず。

「道蔵」は道教の経典を集成したもので、中国では書を箱(函)に入れて蔵しておくので、さらにその箱を丹錦や青霞の色をした金襴緞子の袋にさらに収めていて、王子喬は伝説上の飛仙なので、きっと道蔵を蔵している部屋の関籥(閂飾り)に彫りつけられていて、蚩尤(昔、黄帝と戦った神の名で、霧を出だして八つの腕と八つの脚を持つ)はたぶん道蔵の部屋の欄間あたりにぐねぐねと巻きつくように雕られていて、その周りの雲霧模様とあわせて一つの装飾になっているのが部屋を守っているようにみえる……という意味だと思っていたりする(この渾沌感が道教の雰囲気です)。

 たぶんですが、李白だったら道蔵を読んで、「千歳にして世を厭うて去る」のだろうけど、蘇軾は道蔵の妙を知らずにいることを嘆き、さらに人々の気づかないところにこんなに妙なものがあるという不思議さを感じている気がする(訳してみて驚いたのですが、蘇軾の文章って、初めてみるような道教用語がかなり出てきて訳に困ることが多い。訳もあっているか微妙なものも結構ある……)。

  妒佳月
狂雲妒佳月、怒飛千里黒。
佳月了不嗔、曾何污潔白。
爰有謫仙人、舉酒為三客。
今夕偶不見、汍瀾念風伯。
毋煩風伯来、彼也易滅没。
支頤少待之、寒空浄無跡。
粲粲黄金盤、獨照一天碧。
玉縄慘無輝、玉露洗秋色。
浩瀚玻璃琖、和光入胸臆。
使我能永延、約君為莫逆。

狂雲は佳月を妒み、怒飛して千里は黒い。
佳月は明るくして不嗔(瞋らず)、清らかで白いのは汚されたこともなく
ここに放謫された仙がいて、杯を挙げて三人の客となる。
今夕は偶々見えずして、汍瀾(はらはらと泣いて)風伯を思う。
風伯の来るのを煩わせるまでもなく、風伯も易滅没(走っていき易く)
頤(あご)を支えてしばらく待てば、寒空は浄らかにして跡もなし。
粲粲たる黄金の盤、獨り一天の碧を照らす。
玉縄(天の川)は慘(くすんで)輝きもなく、玉露は秋色を洗う。
浩瀚たる玻璃の盞、柔かい光はわたしの胸に入る。
私を永く生きさせたなら、また君と会いたいものだ。

 李白は下界に落とされた神仙の如くして、その酔うときは花間にあっても天の瓊宮に遊ぶような雰囲気があって、蘇軾は下界にて種々の術を身につけて、行く先々でその術を用いていく神仙のような感じで読むとすごく違いがあって、それぞれ魅力的です。風伯・狂雲・佳月なども李白だったらもっと近くに来るけど、蘇軾はあえて一人で人間に居る神仙みたいな印象だったりします。

  天石硯銘  併序
軾年十二時、于所居紗縠行宅隙地中、与群児鑿地為戯。得異石、如魚、膚温瑩、作浅碧色。表裏皆細銀星、扣之鏗然。試以為硯、甚發墨、顧無貯水処。先君曰「是天硯也、有硯之德、而不足於形耳。」因以賜軾、曰「是文字之祥也。」軾寳而用之、且為銘曰:
一受其戒、而不可更。或主於德、或全於形。均是二者、顧予安取。仰唇俯足、世固多有。

私が十二歳のとき、紗縠行(蘇軾の郷里の通りの名)の家の間で、まわりの子供たちと地面を掘って遊んでいた。そのとき変わった石が出てきて、魚のような形で、その肌は温かく瑩(つややかで)、浅碧色をしていた。表裏はみな細かい銀の星のようで、扣くと鏗然(こんこんという音がした)。試しに硯にしてみると、墨がとてもきれいに擦れて、ただ水を貯めるところが無かった。先君(父の蘇洵)が「これは天の硯だ、硯の德はあっても、形が足りないだけなのだ」と云って、それを私に与えて「これは文字の祥(文章がうまくなる吉祥)だ」と云ったので、私はそれを宝として用い、さらに銘をつくって

一たび戒を受ければ、更えることはできず。或いは德を主にして、或いは形を全うする。この二者を均しくするに、私はどちらを取るのか。仰唇俯足(あれを見たりこれを見たりと)、落ち着かない人も多い。

 もはや蘇軾らしさの極みのような作品で、個人的に蘇軾のこういう感性を育てた原体験って、この眉山(四川省の街)の頃にあって、さらに云うならこの感覚だと思ったりしています。

  衆妙堂記
眉山道士張易簡教小学常百人、予幼時亦與焉。居天慶観北極院、予蓋従之三年。謫居海南、一日夢至其處、見張道士如平昔汛治庭宇、若有所待者曰「老先生且至。」其徒有誦老子者曰「玄之又玄、衆妙之門。」予曰「妙一而已、容有衆乎?」道士笑曰「一已陋矣、何妙之有。若審妙也、雖衆可也。」因指灑水薙草者曰「是各一妙也。」予復視之、則二人者、手若風雨而步中規矩、蓋煥然霧除、霍然雲消。予驚嘆曰「妙蓋至此乎!庖丁之理解、郢人之鼻斲、信矣。二人者釋技而上。」曰「子未睹真妙、庖郢非其人也、是技與道相半、習與空相會、非無挟而径造者也、子亦見夫蜩與鶏乎?夫蜩登木而號、不知止也;夫鶏俯首而啄、不知仰也。其固也如此、然至蛻與伏也、則無視無聴、無饑無渴、黙化於荒忽之中、候伺於毫髮之間、雖聖知不及也。是豈技與習之助乎?」二人者出、道士曰「少安、須老先生至而問焉。」二人者顧曰「老先生未必知也、子往見蜩與鶏而問之、可以養生、可以長年。」

広州道士崇道大師何德順作堂、榜曰衆妙、以書来海南、求文以記之。予不暇作也、獨書夢中語以示之。戊寅三月十五日。

眉山の道士 張易簡は小学(簡単な読み書き)を常に百人ほどに教えていて、私も小さいときにそこで習っていた。天慶観の北極院に居て、私はきっと三年ほど居たのだろう。

近頃 海南島に謫居して、ある日の夢でそこに行ったのだが、そのときも張道士は昔のように庭に水をまいていて、どうやら待っている人がいるらしくて「老先生が来る」と云っていた。そのそばで小さい子が『老子』を読みながら「玄のまた玄、衆妙の門。」と云っていた。私は「妙は一つだけだろうに、衆(多く)あるなどあり得ないだろう」と云った。

道士は笑って「一になれば陋なり、妙などなくなるだろう。妙を知っていけば、多くてもいいのだ」と云う。そして、水をまいたり草を刈っている者をさして「あれもまた一つの妙なり」という。私もみてみると、その二人は、手は風雨の如くして足は規矩を離れず、それをみていると煥然として霧が晴れ、霍然として雲が消えていくような気がした。私は驚いて「妙はこんなものにまでなっていたのか。庖丁の牛を解するを知り、郢人の鼻先の泥を斲(削ぐ)曲芸も、本当にあったことなのだろう。二人は技を捨てて上に行ったものたちなのだ」といった。

道士は「それはまだ真の妙をみていない。庖丁や郢人はそれほどの人でもなく、技と道がまだ半ばしている者、習ったことと空(ぼんやりしていて出来ること)の混ざり合っている者というところで、何も気にせずして出来てしまうものではない。蜩(ひぐらし)と鶏をみたことがあれば、あの蜩は木に登って鳴いていて、止めることを知らず、あの鶏も俯いて餌をさがし、上をみることを知らず、それはもとより生まれついてのことなのに、それでも蛻(蝉が脱け変わったり)伏(鶏が卵を温めたりは)、何も見ず何も聞かず、饑えることも渴くこともなく、静に荒忽の中に化していくように、髮一つの間に何かを窺うようなもので、聖知と云えども知り得ない。それは技や習いなどでどうこうするものでもない。」という。

水をまいていた二人が出て行くと、道士は「しばし待たれよ、老先生が来てから聞いてみるとよい」と云うと、出て行った二人がふり向いて「老先生も知らないかもしれない、蜩と鶏に聞けば、生を養って長年できよう」といっていた。

広州の道士 何德順崇道大師は堂を作り、その匾嶽に「衆妙」と書いて、そのことを書いた手紙を海南島に送ってきて、その堂に飾る文を求めてきた。私はそれを作る暇がなかったので、とりあえず夢中のことを書いて送った。戊寅三月十五日。

  夢中作祭春牛文
元豊六年十二月二十七日、天欲明、夢数吏人持紙一幅、其上題云:請祭春牛文。予取筆疾書其上、云「三陽既至、庶草将興、爰出土牛、以戒農事。衣被丹青之好、本出泥塗;成毀須臾之間、誰為喜愠?」吏微笑曰「此両句復当有怒者。」旁一吏云「不妨、此是喚醒他。」

  夢中作靴銘
軾倅武林日、夢神宗召入禁中、宮女囲侍、一紅衣女童捧紅靴一只、命軾銘之。覚而記其一聯云「寒女之絲、銖積寸累;天歩所臨、雲蒸雷起。」既畢進御、上極嘆其敏、使宮女送出。睇眎裙帯間有六言詩一首、云「百畳漪漪風皺、六珠縰縰雲軽。植立含風広殿、微聞環佩揺聲。」

  夢の中で春牛を祭る文を作る
元豊六年の十二月二十七日、夜が明けようとする頃、夢で数人の官員が紙をもってきて、その上には「春牛を祭る文」との依頼があった。私は筆を取ってさらさらとその上に書いて「三陽の既に至りて、多くの草はまさに興(生えるとき)、ここに土牛を出だして、農事の戒とする。衣は丹青の好きものを着て、本は泥塗(つち)より出づ、成毀は須臾の間にして、誰が喜び愠んだりするのか。」一人の官員は小さく笑いながら「衣は……の二句は土牛を怒らせるのではないか」と云うと、そばにいた官員が「いや、それでいい、きっとこの土牛もそれで目醒めるだろう。」

  夢の中で靴銘を作る
蘇軾が武林(杭州)の倅(副官)となっていた頃、夢で神宗が禁中に私を召し入れ、そこでは宮女が囲むように居て、一人の紅衣の童女が紅い靴をもってきて、神宗は私にそこに銘を書くように命じた。そこで目が覚めて覚えていた一聯に「寒女の絲は、銖積寸累(少しずつ紡がれて織られていって)、天歩の来臨するに、雲蒸雷起す。」既に宮女の舞も終わり、神宗はその敏なることを褒めて、紅靴の宮女を蘇軾の妻とした。裙帯の間を睇眎(ちらりと見ると)六言の詩があって、そこには「百疊(百重の)漪漪(ゆらゆらとした)風の皺(波)、六珠(ひらひらとする)縰縰(多くの)雲のように軽く、植立(すっと立って)風を広殿に含めば、微かに環佩の揺れる聲を聞く。」

 春牛は、土牛を立春の日に鞭で叩いて農事に励むことを勧める行事です。三陽は、十二消長卦(易の陰陽の消長を十二ヶ月に譬える)で、十一月は復、十二月は臨、一月は泰で、この三ヶ月をまとめて「三陽」というらしいです(初めて知った)。立春は二月の後半あたりにあります。天歩は神宗皇帝の来ることです。蜉蝣を天地に寄せて、渺たる滄海の一粟のようで、吾が生の須臾なるを哀しんで、長江の無窮なるを羨み、飛仙をたばさみて遨遊し、眀月を抱えて長終すれば、驟々得がたきを知って、遺響を悲風に託す。

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています