ガラス玉演戯

幻法ガラス玉演戯

 易が出てくる有名な小説といえば、ヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演戯』ですが、今まで題名は知っていても読んだことが無かったので読んでみたのですが、それについて思っていることや感想、自分なりの解説などを書いてみます。

土星と海王星の融合

 まず、この小説の全体的な主題は、占星術の用語を借りてしまえば、「土星(世俗秩序・既に完成したもの)と海王星(形がない精神性・不穏なまでの美しさと怖さをもつ芸術性)の融合はできるのか、あるいはもし出来るならどのような形になるのか」ということだと思う。

 この作品の舞台になっている世界では、ドイツ国内に“カスターリエン”という架空の学術都市・芸術都市のようなものがあり、そこには一切の労働から離れる代わりに、一生を学術のためだけに捧げて、物質的な欲求などはほとんど捨てて(もっとも、餓死するほど節減されているわけではなく、食べ物は十分に与えるけれど、贅沢品や嗜好品は余分には与えられない)、さらには世俗的な名誉・権力などからも遠ざかるという生き方をする人々が描かれている。

 このカスターリエンに生きている人は、若い頃に各地の学校から、天分のありそうな子供たちを選び抜いてカスターリエンの予備教育をする場にあつめて、さらにその中から学術的に才能があるものを篩にかけて(逆に云うと、世俗的な成功や名声を好んでいたり、あるいは財貨を稼ぐことに関心が向いているものは、自主的にカスターリエンから離れたり、規則違反によって放逐されたりしていく)、残った者たちはそれぞれの天分に応じて専門の研究機関に属していく……という制度になっています(街全体が一つの大きい大学のようになっていて、その中に文法学だったり天文学だったり、数学だったり、音楽史だったり、あるいは東洋思想だったりの専門があるイメージ)。

 そして、カスターリエンの運営は、予算については国から支給されているけど、カスターリエン内部のことについては“宗団”というカスターリエン人の自治組織によって色々なことが決められています。ここに、土星的な世俗秩序・権力構造から離れた世界の中にも、やはり世俗秩序的なもの(土星的なもの)がある、という構造がみえます。

 さらに、このカスターリエンで理想とされる学問の在り方としては、専門の研究だけに閉じこもるのは、まぁ悪くはないけれど、もっと高い天分をもっているものは、学術の垣根を越えて、多くの学問の奥にある人間の精神の本質に触れるような研究をするべき、とされています。文献に書かれていることだけを弄り回すよりも、その文献に書かれていることから人間の精神や感情の不可思議さ、あるいは言葉にならないけど誰もが心に感じられることに溯るような研究がよい、ということです。

 この話を読んでいて思い出すのが、大学院時代の先生が(中国文学の専門で)「資料にあることだけで資料にないことを証明する」「文献が読めるのは研究者としては当たり前だけど、その先に何を証明したいかがその人の研究の価値になっている(だから、瑣末な資料の弄り回しよりも、本質的に自分が何を知りたいかをいつも考えるべき)」ということをよく云っていたこと(さらには、自分が書いた修士論文について「印象として誰もが感じていることなのに、資料の中に答えが書いていないことについて、とても自由に作品を読んで考えを巡らせていて、私(教授)が一番やりたかったことをやっている」との評価をくれたこと)だったりする。(ちなみに、このときの自分の研究テーマは「六朝末期の賦における典故表現の変化」だったのですが、『ガラス玉演戯』作中に典型的なカスターリエン的研究として例に出てくる「2~3世紀におけるラテン語の文章構造の変化」とよく似ています笑)

 この話が、なぜ土星と海王星の融合なのかというと、文献に残されている記述のように古くて手堅いもの・無味乾燥にみえるもの(土星)の中から、その古く乾びたものの中にあってふわふわと形がない霊機・神機のようなもの(海王星)に結びついていくことに重なるからだと思っていて、いきなり海王星的なものだけに頼る(巫術的な感受)でもなく、文献の中だけでつなぎ合わせて証明できること(土星の平板な有形性)に留まるのでもない、堅実な方法と事実にもとづきながら、形のないことを書いていくというのが、カスターリエンで最も理想とされている学問、というわけです(なので、さきにあげた「2~3世紀におけるラテン語の文章構造の変化」は、その文章構造の変化の果てに人々のどのような感性の変化が表れているかを感じ取るのが研究の目的だし、六朝末期の典故表現がどのように変化したかは、その時代の文章における美意識の変化だったり、読んだときのぼんやりとした印象の変化にかかわっていて、それが芸術としてどのような特徴をもつのかを論じるのが、本当の目的だと思う)。

 そして、作中には、この土星的なものと海王星的なものをさまざまな形で折衷させている人々が出てくるのですが、たとえば、本作の主人公ヨーゼフ・クネヒトは、ヘッセ曰く「もっとも理想的な形」で、秩序と混沌(無秩序)、規則と不穏さ、あるいは安定した社会と茫漠とした感情を融合させている人物、とされています。

 そのクネヒトが尊敬していた“音楽名人(カスターリエン随一の音楽専門家のこと)”は、宗団の秩序の中にきれいに収まりながらも、音楽においては深く穏やかな陶酔を感じさせるような、「音楽は最も安全にハイになれる方法だ」というような、秩序の中に最後の渾沌を、宗団内の音楽にもっているような人物として描かれている感じがあります。

 あるいは、クネヒトに歴史研究の方法を教えたヤコブス神父は、「カスターリエンの研究は文法や思想、文学などには通じているかもしれないが、あまりにも精神と抽象の世界に偏りすぎていて、歴史の中にあった一回性の出来事を整理しすぎてしまっている。実際は、一回ごとの現象の中にこそ、それぞれの人の精神があり、間違いだらけに思える具体の世界にこそ、それぞれの方向性の微妙なずれが、全体として大きくみた場合に、歴史の大きい流れをつくっている」という考え方の人物です。

 この発想は、おそらく晩年の露伴や鷗外の半ば考証随筆的な小説にちかいものを感じたりするのだけど、その時代の精神というものは、抽象的な理論にもとづいて描かれるものではなく、個々の実例の中に(多少の歪みをもちながら)時代の特徴とそれに関わっていた個人の特徴の混ざり合った形で出ている、という視点だと思います(土星海王星の話に当て嵌めると、事実の土星にどこまでも近づきながら、事実を描くだけではなく、その奥にある精神性をなんとか探り出そうとする感じ。たとえば、幸田露伴の『連環記』だと、平安後期の頽靡した風俗の中で、人々のだらだらとした俗気と滞澱のつながりが、却って法縁の微妙にして、玉環の相連なるがごとく繋がっていく不思議について書いていて、それが平安後期特有の仏教の在り方だった、ということを無味乾燥にみえる事実の列挙と瑣末な出来事の羅列によって書いているんだよね、たぶんだけど)。

 もしくは、クネヒトに易を教えた師にあたる老兄は、“注釈の書き写し”という方法を好んでいるのだけど、これってどちらかというと「論文を書かない研究」だと思っていて、実際自分も大学院にいたことがあるから何となく想像ができるのですが、古い文献の書き写しなんて、論文を書くことに追われているとまず出来ないです(笑)。ただ、ここ何年か、論文を書くことを離れて好きなものを時間をかけて読む、ということができるようになって、古い詩を書き写したり、注釈を読みながら書き写すという方法をやってみて気づいたのですが、この方法って書いた人の固有の文脈を体感できるというか、読んでいる文献の中に自分を溶け込ませていくような(あるいは自分を消していくような)方法だと思ったり……。

 一見すると、形(土星)をなぞっているだけの時間にみえて、自分を詩や注釈の作者に同化させて、その人がみていた精神の質感を感じ取るところまでいくと、もはやほとんど巫術的な感覚で他人の精神や感性の中を覗き見られる感じになるという意味では、やはり土星と海王星の融合になっている気がします。

 さらに、テグラリウス(クネヒトの友人。憂鬱で孤独を好み、体制に巻かれることを嫌う。ガラス玉演戯の才能はほとんどクネヒトと互角)は、土星と海王星の資質はもちろん十分もっているが、ややもすると規則(土星)から外れて、新奇・衒燿(天王星)を出だすこともある、という印象です。

 このような形で、『ガラス玉演戯』内で、クネヒトと親しい関係にある人物は、みないずれも土星的なものと海王星的なものをそれぞれ混ぜ合わせていて、その混ざり方の状態が異なっている、という描き分けになります。

五爻と上爻

 さらに占いの言葉で『ガラス玉演戯』を語るのが許されれば、この作品は五爻(世俗的権力)と上爻(観察する隠遁者)の関係を描いている作品でもあると思います。

 易では、六つの爻がそれぞれ世の中の地位に喩えられているのですが、五爻は王侯だとしたら、上爻(五爻のさらに上にある爻)は、もっとも外の竹林に隠れ住む隠君子・深い智恵をもつ観察者のような人に喩えられて、大きく当て嵌めると、国の政府は五爻、その政府から予算は貰っていても、研究内容は国に仕えず、高尚を事とするカスターリエンは上爻です。

 もっとも、カスターリエンは学術の果てにある陶酔的な幻想に酔っているだけの無用なものという批判も政府の中にはあったりはするのですが、その学術は天にすら通じるほどのものがあると思っている人もいて、局外にいる蒙昧な知者なのか、それとも天上の剹流詰屈するようなところにまで登る神仙なのか……というふうになります。

 カスターリエンを上爻をした場合、それに対する世俗権力の側をあらわすように出てくるのがデシニョリ(クネヒトの昔の友人。もともとは政治家の家系の子で、若い時に「ショーペンハウアーが商人修業としてヨーロッパを旅行するように」カスターリエンに来ていたが、のちにみずからも政治家になり、当初はカスターリエンと世俗勢力の融和をめざしていたが、次第にカスターリエン的な文化をみずからの中に残したまま政界に生きることに苦しみを感じるようになって、カスターリエン的な精神性を捨てて、世俗に染まろうとしてむしろ苦しむ)です。

 そして、難しいのは聖域のようなカスターリエンでも宗団の権力があり、ある人物は麾下にある人々の支持が得られなかった故に(その原因は、別段何か悪いことをしたというわけではなく、どちらかというと人々を従える威厳を欠いていたことが理由らしい)、下の者から静かで冷たい悪意(積極的に邪魔をしたり、悪口を云ったりはしないけど、指示を出された以外のことは協力もしないし、好意的な言葉をかけることもない、さらには感謝も助言もしない)を向けられて、カスターリエンを抜け出してさらに山中の深いところにいって、そのまま岩場から飛び降りて自死する、という形で権力の犠牲者が描かれていたりもする。(一方で、老兄のように、もとはカスターリエンでもとりわけ高い天分をもっていながらも、宗団に関わらずに、カスターリエンからも離れて、世俗の中に一人で隠れることを知っている人もいるのですが)

 こんな中、主人公のクネヒトはどのような立場なのかというと、宗団の中心にみずから関わりたいとは思わなくても、海王星的あるいは上爻的な資質によって、土星あるいは五爻(宗団)に貢献していくことになり、その結果、宗団内で高い位を得ることにもなる、という書き方をされています。

 もっとも、この作品の中では、占星術の言葉を借りれば、金星(世俗の快楽)や火星(闘争)などは殆ど描かれず(外の世界にあることだけは、ぼんやりと抽象的に語られるけど)、強いていえばデシニョリの子供として出てくるティトーに、山中の湖で泳ぐことを好んだりする面に、クネヒトは理解しがたい異質なものを感じている、とだけ出てくるのですが……、まぁ、たぶん土星と海王星以外のことも書いていくとさすがに収まりきらないのですが。

 しかし、登り過ぎた鳥が、もう何処にも行けなくなるように、あまりにも人々の自然な心情と乖離したカスターリエンは、正しくて美しいけれど“凶”、というのが、この作品の世界だったりします。

ガラス玉演戯

 というわけでなのですが、そもそも「ガラス玉演戯」とはどういうものかを書いてなかったので、ようやくその話のなりますが、実はヘッセ本人もガラス玉演戯についてはかなり抽象的な事しか書いてないので、自分なりの想像で解説してみます。

 まず、ガラス玉演戯はもともと音楽の理論を教えるために始まったとされていますが、次第に数学や天文学、文法学などの講義をするためにも用いられるようになり、ついには専門の学問を越えて、人間の精神そのものを学術的な記号をガラス玉に象徴させて伝える芸術になった、とされています(すごくざっくりした説明)。

 しいていえば「学術の芸術化したもの」がガラス玉演戯だと思っていいと思います。ガラス玉演戯は、専門の学術をつうじて人間の精神の本質を感じさせるものとして最もカスターリエン的な文化と書かれていますが、固い学術(土星)と茫漠とした芸術(海王星)の融合、学芸の極致というわけです。

 ところで、カスターリエンを学芸都市とした場合、「学」と「芸」の両方に結びつく字は、実は「術」で、この“術”という字は、物事の質感の操作だと思っていて、どろどろに溶け合っているもの(海王星)を一定の枠に嵌める(土星)、という感じです。なので、術の世界(学術でも芸術でも占術でも)はどろどろゆるいものとシステマティックなものが共存していて、作中で「ガラス玉演戯の新しい記号を増やすか否か」の論議が出てくるのは、その質感を一つの用語に当て嵌めて切り分けるべきか、ということを話し合っているのだと勝手に思ってます。(占星術でも易でも、占いの言葉は「世界にそれしか語彙がなかったら、物事をどのように書くか」という読み方になると思う)

 たとえばだけど、本の作者でも、好んで新しい用語をつくりたがる人の話ぶりは奇矯で眩惑的、古くからある語だけで書く人の文章は古雅で落ち着いているし、些末な語彙を細かく分ける人はみずから混乱させがち、新しい一つの語彙に強い熱情を込めたような書きぶりはぐいぐいと人を巻き込むような気勢がある……みたいな印象になるけど、これらはみな全て論理構造がどのような質感をもっているか(あるいはその人の精神や感性がどういう形・質感をもっているか)に依っていて、ガラス玉演戯の作風の違いはおそらくこれを云っている(たぶんだけど、形を変えた文体論だと思います)。

 これがカスターリエンの精華とされる学術と芸術の融合、あるいは学術の芸術化なのですが(芸術も、本質的には作者の精神の質感・感性の形を感じている)、ガラス玉演戯はその精神の形をガラス玉で再現して魅せる芸術ということだと思います。

 ちなみに、ガラス玉演戯に新しい記号を加えるべきか否かの議論を(個人的な想像で)再現すると、現代の美術評論で基本語彙になっている「アポロン的なもの」「ディオニュソス的なもの」(世界の無秩序な軋りの中に生きていることを感じる恐怖と狂騒がディオニュソス的なもの、そこから這上がるときに生み出した秩序がアポロン的なもの)という区分は、まぁおよそ成り立つ区分だろうけれど、それ以降に現れたグスタフ・ルネ・ホッケの「ダイダロス的なもの(人工的にディオニュソス的なものを加工して、さらに複雑奇怪にしていくこと)」は美術評論の用語に入れていいか、もしくは本当にそういう語彙であらわす状況は存在するのか……みたいな話です。

 とりあえず、ガラス玉演戯は「学術(によって表わされる人間の精神)をガラス玉で再現して、そのガラス玉がどのように絡み合うかで人間の精神の不思議さ・玄妙さを感じる芸術」という気がします。

現代の始まり

 ……という話だけでも十分『ガラス玉演戯』は深いのですが、たぶんこの作品はもっと深い問題を書いていて、個人的な考えを云ってしまうと、たぶんこれは「現代の始まり」になっている気がします。

 これは勝手な持論だけど、近代の本質が「究極性への指向」だとしたら、現代の本質は「日常性への妥協」だと思っていて(「日常性への妥協」という言葉が悪ければ「究極性への諦め」「究極性の放棄」かも。いずれにしても、近代の在り方は一つの究極的な答えが得られるものだという考えが基調にあると思う)、きっと同じドイツでもショーペンハウアーが書いたら老兄的な生き方を理想としていたと思います。

 さらに云えば、ニーチェの永劫回帰思想は、究極性をめざして何度でも生まれ変わることを「究極性」とした感じがあります(どことなく近代の臨界点な印象)。どうでもいいけど、ニーチェの思想って、太陽天秤座と冥王星牡羊座の180度によく似ていて、無秩序な生命力の滾りの中からすべての文化と秩序が生まれたという形そのものにみえる笑。

 一方で、作中でクネヒトが書いたとされる論文(の形をとった小説)で「懺悔聴聞師」というのがあるのですが、人々から懺悔を聴くことを長年つづけてきた隠遁者ふたりが、それぞれ自分の在り方に疑問を感じて(人々から懺悔を聞かされても、本質的にみずからの身も人々も何も変わらないのではないかとの疑問)、自分とまったく異なる方法で懺悔を聴くという噂を互いに聞いて会いに行くのだが、一人の懺悔聴聞師がみずからすごく迷っていてこれからどうしていいか分からないということをもう一人の懺悔聴聞師に話すと、もう一人の懺悔聴聞師は相手も迷っているのに、みずからの迷いをぶつけ返しても意味がないと悟って、みずからの迷いを隠したまま一緒にいることにする……という話です。

 これをただの妥協と取るか、嘘の中に這い回っているだけと読むか、あるいは嘘の中にこそ真実があって、愚かな中にこそ人生があると読むのかは微妙だけど、究極的な答えを棄ててでも生きるしかないこと、あるいは究極的な答えが見つからないことを受け入れた現代が始まった気がするのですが……(ヘッセの時代に於いては、むしろその不条理さと気持ち悪さを描いたところが新しかったと思います……)

 そして、この無意味な変化の書が『ガラス玉演戯』だとしたら、天に登り詰めたほどのカスターリエンも永遠にめぐるガラス玉の一滴で、安らかにして危うきを忘れず、治にして乱を忘れず、乾々としてみずから強めて已まずして、それでも病が入り込んで崩れていくところもあり……という、日常性に飲まれていく感じがどこまでも現代的。

日常性への妥協と未済

 近代の本質を“究極性への指向”だとした場合、それがニーチェの永劫回帰とは違った形で限界を迎えていくのが、個人的には芥川龍之介の「歯車」だと思っていて、

 僕は又苦しみに陥るのを恐れ、丁度珈琲の来たのを幸い、「メリメエの書簡集」を読みはじめた。彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のように鋭いアフォリズムを閃かせていた。それ等のアフォリズムは僕の気もちをいつか鉄のように巌畳にし出した。(この影響を受け易いことも僕の弱点の一つだった。)僕は一杯の珈琲を飲み了った後、「何でも来い」と云う気になり、さっさとこのカフェを後ろにして行った。

 僕は往来を歩きながら、いろいろの飾り窓を覗いて行った。或額縁屋の飾り窓はベエトオヴェンの肖像画を掲げていた。それは髪を逆立てた天才そのものらしい肖像画だった。僕はこのベエトオヴェンを滑稽に感ぜずにはいられなかつた。……

 僕は運河に沿いながら、暗い往来を歩いて行った。……運河は波立った水の上に達磨船(運河や河などで荷物を運ぶ仕事をしている者が暮らす平型の家付き舟)を一艘横づけにしていた。その又達磨船は船の底から薄い光を洩らしていた。そこにも何人かの男女の家族は生活しているのに違いなかった。やはり愛し合う為に憎み合ひながら。……僕は……ウイスキイの酔いを感じたまま、前のホテルへ帰ることにした。

 僕は又机に向ひ、「メリメエの書簡集」を読みつづけた。それは又いつの間にか僕に生活力を与えていた。しかし僕は晩年のメリメエの新教徒になっていたことを知ると、俄かに仮面のかげにあるメリメエの顔を感じ出した。彼も亦やはり僕等のように暗(やみ)の中を歩いている一人だった。(これについては、博学と巧思を得意としていたメリメエが、作風に反して内面に悩みをもっていた喩え)

 ……この細緻を極めようとしているのに茫忽として空中分解してしまう感じが、近代の精神的な究極性が、たがいに崩壊させ合って相対化されていくところに近代の終わりを感じるのですが、ヘルマン・ヘッセはそこからさらに「(現代の)永遠の未完成」をみるところまで行っている気がする。(ヘッセは異様に感性が早い)

 その永遠の未完成は、乾為天(最上の天に上り詰めた龍)が火水未済(永遠の未完成、あるいは万事不如意で時期尚早)になっていくこと、あるいは乾為天の果てに火水未済があることなのかもですが。

乱曰:志慢未習、単酒糗脯。数至神前、欲求所願、反得大患。
志は慢(だらけ)て、薄酒や乾びた肉米を供える。しばしば神前に置いて、祈りをささげて、却って怨まれる。

重乱曰:晋平有疾、迎醫秦國。病乃大患、分為両豎。逃匿膏肓、和不能愈。
晋國は平らかにして病あり、名醫を秦國より迎える。病は二つの子に化って、膏肓の間に逃げ込むので、名醫といえども治せない。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています