創作・エッセイ

華藻聯娟、厭㥷漂撇

 折口信夫『死者の書』14章にこんな話が出てくるのですが、藤原仲麻呂と大伴家持(どんな組み合わせ……笑)が話している場面で、

「お身(家持)も、少し咄(はな)したら、ええではないか。官位(こうぶり)はこうぶり。昔ながらの氏は氏――。なあ、そう思わぬか。紫徴中台の、兵部省のと、位づけるのは、うき世の事だわ。家に居る時だけは、やはり神代以来の氏上づきあいが、ええ。」

 新しい唐の制度の模倣ばかりして、漢土(もろこし)の才が、やまと心に入り替ったと謂われて居る此人(仲麻呂)が、こんな嬉しいことを言う。家持は、感謝したい気がした。理会者・同感者を、思いもうけぬ処に見つけ出した嬉しさだったのである。

「お身(家持)は、宋玉や、王褒の書いた物を大分持って居ると言うが、太宰府へ行った時に、手に入れたのじゃな。あんな若い年で、わせ(早熟)だったのだのう。お身は――。お身の氏では、古麻呂。身の家に近しい者でも奈良麻呂。あれらは漢魏はおろか、今の唐の小説なども、ふり向きもせんから、言う甲斐ない話じゃわ。」

 兵部大輔(家持)は、やっと話のつきほを捉えた。

「お身さま(仲麻呂様)のお話じゃが、わしは、賦の類には飽きました。どうもあれが、この四十面さげてもまだ、涙もろい歌や、詩の出て来る元になって居る――そうつくづく思いますじゃて。ところで近頃は、方(かた)を換えて、張文成(張鷟のこと。唐代の春本『遊仙窟』の作者)を拾い読みすることにしました。この方が、なんぼか――。」

「大きに、其は、身(仲麻呂)も賛成じゃ。じゃが、お身(家持)がその年になっても、まだ二十代の若い心や、瑞々しい顔を持って居るのは、宋玉のおかげじゃぞ。まだなかなか隠れては歩き居る、と人の噂じゃが、嘘じゃなかろう。身が保証する。おれなどは、張文成ばかり古くから読み過ぎて、早く精気の尽きてしもうた心持ちがする。――じゃが全く、文成はええのう。あの仁(じん)に会うて来た者の話では、豬肥(いのこご)えのした、唯の漢土びとじゃったげなが、心はまるで、やまとのものと、一つと思うが、お身なら、諾(うべの)うてくれるだろうの。」

「文成に限る事ではおざらぬが、あちらの物は、読んで居て、知らぬ事ばかり教えられるようで、時々ふっと思い返すと、こんな思わざった考えを、いつの間にか、持っている――そんな空恐しい気さえすることが、ありますて。お身(仲麻呂)さまにも、そんな経験(おぼえ)は、おありでがな。」

「大ありおお有り。毎日毎日、其よ。……」

という会話になっています。

 藤原仲麻呂は、奈良時代を舞台にした作品などではよく悪役的な形で描かれがちですが、養老律令をつくったり、官職の唐風化をすすめたり……というふうに中国風の文化に通じている人で、その仲麻呂が家持(『万葉集』の編者とされる歌人)と、中国の文章について語り合っている……という様子です。

 興味深いのは、この二人が「楚辞や、小説にうき身をやつす(同14章より)」とされている点で、家持は宋玉(戦国時代末期の文章家)や王褒(前漢の文章家)を読んでいた……とされているところです。

 宋玉は、楚辞(戦国時代の楚の抒情詩)の作者で、屈原の後を継いだ人とされています(二人あわせて“屈宋”とも云われる)。屈原がどちらかというと熱っぽくて夢幻的で、それでいて愛国的で金や玉の如き重厚さをもっているのに比べて、宋玉はどちらかというとひらひらと蕭散で憂いを帯びていて優麗、という違いがあります。屈原の作品に「離騒(離は罹、騒は憂いなので、「憂いに罹る」の意)」というのがあるので、楚辞のことを“騒”ということもあります。

 さらに漢代に入ると、楚辞は楚の土着祭祀だったり、土着の植物だったり、楚独特の方言だったりが出てくるのですが、その「楚っぽさ」を抜いて長篇できらびやかな形容詞を多用する様式を借りた美文(賦)が出てきます。ちなみに、騒(楚辞)のことは“騒賦”、漢代の賦は“漢賦”といいます。なので、騒はある意味では賦の一種です。

華藻紛披

 というわけで、仲麻呂と家持なのですが、賦の中でも家持は宋玉や王褒と読んでいる……(と折口信夫は云いたいらしい)って、ふだんはあまり語られないことだと思います。

 宋玉は「神女賦」という作品で、神女の様子について描いているのですが

夫何神女之姣麗兮、含陰陽之渥飾。被華藻之可好兮、若翡翠之奮翼。……眉聯娟以蛾揚兮、朱唇的其若丹。素質幹之醲実兮、志解泰而體閑。既姽婳于幽静兮、……翼放縦而綽寛。動霧縠以徐歩兮、拂墀声之珊珊。……

その神女の姣麗(あでやか)なること、陰陽の渥飾(豊かな飾り)を含みて、華藻(ひらひらする模様)の好いものを装い、翡翠の羽をゆらすようで、……眉は聯娟(ゆるやかにして)細く揚がり、朱い唇は丹砂を塗ったようで、素より質幹(その身)の醲実(ふっくらと豊かで)、その性は解泰(ゆるゆるととろけるようで)體閑(とろりとしている)。既に幽静なうちに姽嫿(作りものの如く収まって)、……きちんと整っているようで放縦(はらはらとして)綽寛(ゆらゆらと広がっていて)、霧の如き縠(衣)を動かしてゆるやかに歩けば、珊珊(さらさら)と墀声(衣の擦れる音のして)……

みたいなかなり艶麗体の美しさを書いていて、これが家持の

春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子(おとめ)

とかは有名ですが、個人的には

春花の うつろふまでに 相見ねば 月日数(よ)みつつ 妹待つらむぞ(妹は妻の意。万葉集3982)

桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに 青柳の 細き眉根を 笑み曲がり 朝影見つつ 娘子らが 手に取り持てる …… 羽触れに散らす 藤波(藤の花)の 花なつかしみ 引き攀じて 袖に扱入(こき)れつ 染まば染むとも(万葉集4192)

あたりの、艶情と植物のまざっている感じが、宋玉の自然物に重ねながら神女を描くところ(翡翠の羽・その身の醲実で……・霧の如き衣)とかを思わせるし、「桃の花 紅色に にほひたる」は「朱い唇は丹砂を塗った」と似ていて、「青柳の 細き眉根を 笑み曲がり」は「眉は聯娟として細く揚がり」に近い気がします(家持以前の万葉集には、そういう描写ってあまり出てこない)。

 そして、家持の歌はそれ以前の人たちに比べて、ずっと色が濃やかで艶やかな印象です。「春花の うつろふまでに 相見ねば」も庭に穠然と溢れるような春の花が浮かんでくるし、「桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに 青柳の ……」も大きい紅と緑の濃艶な組み合わせが、宋玉の「華藻(あでやかな模様)の好きものを装いて、翡翠色の袖を引き……、朱の唇は丹のようで……」を思わせます(張鷟『遊仙窟』の「紅顔に緑黛を雑え……」とかも宋玉から派生して、さらに家持につながっていく感もあるけど)。

 さらに、家持が越中に居たときの歌でも

藤波の 影なす海の 底清み 沈(しず)く石をも 玉とぞ我が見る(万葉集4199)

は、藤の花の紫と、蔭になった海の暗さの混ざり合いが、宋玉「高唐賦(神女賦の姉妹篇。神女が住んでいる高唐の山水を描く)」にある「巨石溺溺之瀺灂兮、……水澹澹而盤紆兮、……炫耀虹蜺、俯視崝嶸、……芳草羅生(巨石の溺々として瀺灂(さらさらと水を被り)、……水は澹々として深く盤紆(巻くようで)、……炫耀(ぎらぎらとして)虹蜺がかかり、下をみれば崝嶸(深く高くて)、……芳草の広く生えて……)」を寄せ集めたような風景です。

 ちなみに、「藤波の 影なす海の……」は何人かで一緒に読んだ歌なのですが、そのときに同席した人たちの

多祜(たこ)の浦の 底さへにほふ 藤波を かざして行かむ 見ぬ人のため
いささかに 思ひて来しを 多祜の浦に 咲ける藤見て 一夜経ぬべし(いささかに:少しだけと。万葉集4200・4201)

をみてみると、家持が「高唐賦」を混ぜて書いた感じは入ってないです(水の色と藤の花の混ざり合いがあまり無いというか、それを)。

目極千里傷春心

 さらに家持の最高傑作として有名なものとして

うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも 一人し思えば

があるのですが、この“春の愁い”という題材って、実は家持以前にはあまり書かれていないものだったりします(家持は万葉末期の歌人で、それ以前の人に比べて感傷的で繊麗な趣きの作品が多くなっている。万葉調が雄渾で古朴とされる中では、家持はけっこう異色な歌人)。

 これをみて思い出すのは、

悲哉秋之為気也。蕭瑟兮草木揺落而變衰。
憭栗兮若遠行、登山臨水兮送将帰。
泬寥兮天高而気清、寂漻兮收潦而水清。(宋玉「九辯」)

悲しいかな秋の気たるや……。蕭瑟兮(さらさらとして)草木は揺落して變衰し、
憭栗(心の寒きこと)遠くに行く如くして、山に登り水に臨めば帰る人を送る心地して
泬寥兮(からんとして)天高くして気は澄んで、寂漻兮(しんとして)潦(濁り水)は沈んで水は清く――

目極千里兮、傷春心。
魂兮帰来、哀江南。(宋玉「招魂」)

千里の遠くまで見遣れば、春の心を傷つけ、
魂よ帰り来たりて、江南を哀しめ――

“悲秋”“春心”なのですが、秋の變衰を悲しんだり、春のうららかさが却って物寂しくすら思える……なんていう感性は、実は宋玉が最初に題材にしていたりします。

 それ以前の『楚辞』では、たとえば屈原の名篇「湘夫人」では

嫋嫋兮秋風、洞庭波兮木葉下。
登白薠兮騁望、与佳期兮夕張。
鳥何萃兮蘋中、罾何為兮木上。
沅有茝兮澧有蘭、思公子兮未敢言。
荒忽兮遠望、観流水兮潺湲。
麋何食兮庭中、蛟何為兮水裔。……
築室兮水中、葺之兮荷蓋。
蓀壁兮紫壇、播芳椒兮成堂。
桂棟兮蘭橑、辛夷楣兮葯房。
罔薜荔兮為帷、擗蕙櫋兮既張。……
合百草兮実庭、建芳馨兮廡門。
九嶷繽兮并迎、霊之来兮如雲。

嫋々たる秋風、洞庭湖の波立って木葉の下れば
白薠の生えている上より騁望して、夕べに佳いときを過ごそうと契る。
なのに飛ぶはずの鳥は蘋の中に集まっていて、罾(魚あみ)はどうして木の上にあるのか――、
沅水には茝があり澧水には蘭があり、(香草の茂るこの辺りで)公子を思いて未だ言わず
荒忽(ぼんやりとして)遠くをみれば、流水の潺湲(さらさらと行く)のをみるのだが、
麋(鹿)はどうして庭の中にまで入ってきて、蛟(みずち)はどうして水の裔(縁)にまで上がっているのか――。……
室を水中に築いて、これに荷の葉を葺けば
蓀の壁に紫貝の壇、芳椒を回して堂をつくり、
桂の棟に蘭の橑(垂木)、辛夷の楣(門の梁)に葯の房(寝房)。
薜荔を編んで帷として、蕙を裂いて櫋(衝立)にして張りめぐらして、……
百草を合わせて庭をみたせば、芳き香を廡門(長廊と門)に立てれば
九嶷山は繽(きらきらと)そろって迎えて、霊は来たりて雲の如し。

みたいになっていて、始めに「嫋々たる秋風、洞庭の波して木葉下り……」のところは秋の風景だけど、そこから先が全然季節と関係ない描写になっていきます。

「茝・蓀・芳椒・桂・蘭・辛夷・葯・薜荔・蕙」などはすべて香草の名で、それらを組んで家室をつくって(お盆の祭壇みたいな雰囲気)霊を迎え入れれば、その霊は雲のように光りながらやって来て……という詩になっているので、ここに出てくる植物はどちらかというと呪物としての効果があって、霊を迎える場を飾るためのもの――というのが屈原の特徴です。

 こういう呪術的・土着宗教的な感性が屈原にあるとしたら、宋玉に至っては秋を悲しんだり、春のぼんやりとした愁いを書いたり……というのが宋玉の特徴です(今はむしろ宋玉的なものの方がふつうになっているので、屈原的な感性は全く馴染みがないですが。抒情詩の祖はどちらかというと宋玉なのかもです)。

 なので、家持の

現身(うつせみ)は 恋を繁みと 春まけて(春を待ちて) 思ひ繁けば 引き攀じて 折りも折らずも 見むごとに 心なぎむ(和む)と 茂山の 谷辺に生ふる 山吹を やどに引き植えて 朝露に にほえる花を 見るごとに 思ひはやまず 恋し繁しも

山吹を やどに植えては 見るごとに 思ひはやまず 恋こそまされ(万葉集4185~4186)

の季節と離別の混ざり合った雰囲気が宋玉に近いというのもわかる気がしてきます。

 というのは、まぁそれなりに簡単に書けることなのですが、王褒って小説の中にそもそも出てくる名なの?……とか思ったりするし、王褒の賦と云えば「洞簫賦」なのですが(洞簫:長短の竹を組み合わせている笙的なもの)、この作品ってあまり知られていない名品みたいな感じなので、わざわざ王褒を出すのか……と不思議に思ったりしています(賦で有名な人には、司馬相如・張衡などがいて、王褒って漢代の賦家でもややマイナーだと思います、作品は好きだけど)。

のろのろくねくね

 そんなわけで、何で王褒なのかを書きたいのですが、その前に一応『万葉集』の時代区分を載せておきます。

第一期:飛鳥時代(雄略天皇・舒明天皇など)
第二期:白鳳時代(天武天皇・柿本人麻呂など)
第三期:奈良時代前半(大伴旅人・山上憶良・山部赤人など)
第四期:奈良時代後半(大伴家持など)

 まず、第一期は呪術歌謡時代とでも云うべき感じの時期です。この時期はまだ和歌の様式が未整理らしくて、ところどころ字余り・字足らずの不規則な歌が多いのですが、『古事記』『日本書紀』に出てくる歌に雰囲気が似ているのも特徴的です。

 なので、『古事記』中巻から雰囲気が感じられる例を載せておきます。これは一応、神武天皇が作った歌ということになっています。

神風の 伊勢の海の 大石には 這ひもとほろふ 細螺(しただみ)の い這ひもとほり 撃ちてしやまむ

「神風の」は伊勢の枕詞、「這ひもとほろふ・い這ひもとほり」はいずれも「這い回っている」のことで、伊勢の海の大きい石にうねうねと小さい貝(細螺)が這い回っているように、敵を囲んで討ち滅ぼそう――という歌です。

 この歌では、“細螺のように密々(じかじか)と這い回って”みたいに、みずからの身を細螺に変えていくみたいな匂いがしてます(この辺、ちょっと怪しい話かもだけど、自然の霊力が籠った物をもてば、その力が自分にも宿る……的な発想です)。

 あと、この歌は対句構造があって

神風の 伊勢の海の 大石には
這ひもとほろふ 細螺(しただみ)の
い這ひもとほり 撃ちてしやまむ

みたいになっているのですが、長歌ではこの対句構造がときおり出てきたりします。もっとも、万葉集には第一期に属する呪術歌謡ってあまり収録されていないのですが、たとえば舒明天皇の

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ
海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は(万葉集2)

などは、国の豊かさを煮炊きの烟火と鴎の多さに重ねていたり……という感じがありそうです。ちなみに「とりよろふ」は取り揃っている、「蜻蛉島」は大和の枕詞です。このたわわな感じが呪術歌謡時代の特徴(あるいは万葉集の雄渾で健康的な美しさ)なのかもですが、万葉集の成立過程を書いたものの中に

 長歌の祖は神々を祭る呪歌に、短歌の祖は日常の民謡にあったと考えられ……、大きくて荘重な長歌の方を、公儀にかかわる、玄人の分野の格式高い言語と見なす風潮は萬葉の時代を覆って消えることがなかった。巻十三はそういう長歌を集める歌巻で、……一定の形態を持つ長歌が目立つ……それは、「土地の提示+景物の叙述……+本旨」という型式で、一例を示せば、次のような歌をいう。

神風の 伊勢の海の
朝なぎに 来寄る深海松(ふかみる。海松は海藻の一種)
夕なぎに 来寄る俣海松(またみる。枝分かれした海松のこと)
深海松の 深めし我れを(思いを深めた私を)
俣海松のまた行き帰り
妻と言はじとかも 思ほせる君(私の想う君は、きっと妻とは云わないのでしょう。万葉集3301)

 これは、まず、「神風の 伊勢の海の」という土地を提示し、その海に朝夕寄ってくる植物「深海松」と「俣海松」とについて述べ、ついで、それを枕詞的用法に転換して承けながら、「深めし我れを/また行き帰り」以下の本旨に持ちこんだもので、内容は単純だが、表現は至ってはなやかであるのを特色とする。……

 この型は、既に記紀歌謡において定着しており……言いかえれば、巻十三は、いわゆる宮廷歌人(柿本人麻呂、山部赤人など)なるものが出現する以前の時代はもちろんのこと、その出現後も、宮廷のいろいろな集まりにおいて、折につけて唱うための歌を集めた台本を基礎に生まれきたった歌巻と考えられる――。(『新潮日本古典集成 萬葉集 四』325~328頁より)

という辺りから、万葉集の巻十三は記紀以来の呪術歌謡から出てきた宮廷儀礼的な長歌を多く収めているらしいのですが、その例をみてみると

みもろの 神なび山ゆ
との曇り 雨は降り来ぬ
天霧らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや(万葉集3268)

「みもろ」は清壇・霊壇の山、「神なび山」は神の籠る山、「との曇り」は一面に曇る、「大口の」は「真神(狼)」の枕詞です。この呪術的・土着信仰的な恋情という組み合わせが、『楚辞』の「湘夫人(屈原の作品)」に似ている感じがしませんか……。

 もう一つ呪術歌謡的な作品をのせてみます。

菅の根の ねもころころに 我が思へる 妹によりては 言の忌みも 無くありこそと
斎瓮(いはひへ)を 斎(いは)ひ掘り据へ
竹玉を 間なく貫き垂れ 天地の 神をぞ我が禱(の)む いたも術無み(万葉集3284)

「菅の根」は「ねもころころに」の枕詞、「ねもころころに」は懇ろの意、その後の四句は「私の想う娘のせいで、云ってはいけないことが口を突いて出ないようにと……」のことで、「斎瓮(いはひへ)」は神酒を入れる甕、竹玉は竹でつくる祭具(詳細不明)、「いたも術無み」は「どうにもこうにも術が無いので――」という感じです。

 この「斎瓮」「竹玉」みたいな呪具が出てくるところが呪術歌謡らしいところで、これが「蘭」「薜荔」などにすれば屈原『楚辞』の世界観になって――みたいな感がありそうです。この二篇の歌の成立時期が古いかはわからないけど、基づいている様式が古いというのは何となく伝わってきます。

 折口信夫は『死者の書』第10章で「多くの語り詞(かたりごと)を、絶えては考え継ぐ如く、語り進んでは途切れ勝ちに、呪々(のろのろ)しく、くねくねしく、独り語りする語部」と云っていますが、この質感って、或る意味で記紀歌謡のぎこちないようで呪術的な感性、くどいようで断続曲回するような対句構造とよく似ている気がするようなのですが、この“のろのろ、くねくね”としている古い長歌が、万葉集第一期の頃に近い作風ということになるのかもです。

宮廷詩人の同化

 というわけで万葉集第二期なのですが、この時期を象徴する歌人はやはり柿本人麻呂です。柿本人麻呂は持統天皇・文武天皇の頃に活躍した宮廷詩人で、その長歌は壮大な宮廷讃美の感情に満ちている感があります。たとえば、近江にあった大津宮(天智天皇の故宮)を通ったときに詠んだ歌では

玉だすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを …… 石走る 近江の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮の 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立ち 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮所(おおみやどころ) 見れば悲しも(万葉集29)

「玉だすき」は畝傍山の枕詞、「栂の木の」は「継ぎ継ぎに」の類音で枕詞、「大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども」は対句、「春草の 茂く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる」は荒廃した故宮の様子です。有名な「近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古へ思ほゆ」も同じ風景・同じ感情を描いています。

 ところで、この人麻呂の歌の特徴として、宮廷詩人として“国家とどっぷり同化している”ということがありそうです。みずからの属する国の悲しみ(故都の荒廃)はみずからの悲しみ……のように描いているところが敦朴な万葉集の感性ですが、それが国以外にも

我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを(万葉集108、石川郎女)

みたいな歌も、どっぷりと自然に同化したような感性があって、大らかで渾厚な感じがします。

 そして、これに似ているものを中国で探すと漢代の賦になるのですが、特に宮廷の儀礼などを讃える為に書かれた作品にそういう雰囲気のものが多いです、たとえば、宮廷で天地の神を祭る様子を描いた揚雄「甘泉賦」の末尾では、

乱曰:崇崇圜丘、隆隠天兮。登降峛崺、単埢垣兮。増宮㠁差、駢嵯峨兮。岭巆嶙峋、洞無厓兮。上天之縡、杳旭卉兮。聖皇穆穆、信厥対兮。徠祇郊禋、神所依兮。徘徊招揺、霊迉迡兮。光輝眩耀、降厥福兮。子子孫孫、長無極兮。

乱(終曲)に曰く「崇々たる圓丘、隆くして天を隠す。登降して峛崺(曲折する光の取り巻いて)、単へに埢垣(大きく渦を成す)。神宮の㠁差(きらぎらしく高い屋根)を高くして、駢(並び立ちて)嵯峨(鋭くとがり)、岭巆(りらりらと)嶙峋(切り立ち聳えて)、深きこと厓りなく、上天の事は、杳くして旭の卉(僅かに生まれたようで)、聖皇の穆々粛敬にして、その信に天地も応えて、神祇も郊禋(祭壇)に来りて、神は依り、徘徊招揺して、霊の迉迡(止まれば)、光輝眩耀して、その福を降し、子子孫孫にして、長く極まらず――。

のように、国の祭儀の豊麗さと同化するような雰囲気で喜ぶ歌をつくっている宮廷詩人らしさが出ています。これが日本語になると「高々の 天のみもろの たたなはる 光の繁く たぎつ光の きらぎらに 神殿つくる 殿の間は 削り落ちたり 宮の間は 峰を隔てり 宮ごとに 雪を擁きて 山ごとに 花をかざして 下つ瀬は 小暗く深み 天のことは ……」みたいになるのかもです笑。

 さらに、この雰囲気は漢代の文章にはけっこう多く出てきていて、賦以外にもたとえば「西嶽華山廟碑(西の霊山だった華山の祭祀のことを書いた碑文)では

巌巌西嶽、峻極穹蒼。奄有河朔、遂荒華陽。触石興雲、雨我農桑。資糧品物、亦相瑤光。崇冠二州、古曰雍梁。馮于豳岐、文武克昌。天子展義、巡狩省方。玉帛之贄、禮與岱亢。六樂之變、舞以致康。在漢中葉、建設宇堂。山嶽之守、是秩是望。侯惟安國、兼命斯章。尊修霊基、肅共壇場。明德惟馨、神歆其芳。遏禳凶札、揫斂吉祥。歲其有年、民説無疆。

巌々たる西嶽、峻(鋭きこと)穹蒼を極める。河朔(黄河の北)を含みこみ、遠く華陽(蜀黔)にも及ぶ。石に触れては雲を起し、私たちの農桑に雨を降らす品物(多くのもの)を資糧(育てあげて)、さらに瑤光を流し、崇く二州に冠して、古くは雍梁と云われていたところ。陝西の豳岐の山々に依り、文王武王は其処より昌えて、天子は義を広めて、巡狩して地方を見る。玉帛の贄(供え)は、岱山と並ぶほどの礼にして、六つの楽の変じては、舞いて康楽を致し、漢の中葉に至りて、宇堂を建設す。山嶽の守(見回り)では、その山の大きさに応じて祀り、侯は國を安んずることを惟い、命をこの典章に兼ねており、霊基を尊修して、肅んで壇場に供するので、明徳は馨り高く、神歆はそれ芳美にして。凶札(悪いもの)を遏禳(祓い除け)、吉祥を揫斂(おさめる)。歲は豊年にして、民の歓びも無疆(限りなし)

 この作品も、華山の霊妙さと人々の暮らしがどっぷりと重なっていて、その二つの豊美にして華盛な様子(宮廷詩人の作品はいずれにしても「たわわで豊か」という美意識があって、これが漢賦の気息渾厚、万葉集の素朴雄渾な作風になっている)を描いています。

 もっと云えば、自然や国家とどっぷり同化できることが素樸(手が加えられていない木のよう)で雄渾・渾厚(どろりと大きく溶け合った水のよう)な、それでいて瑣末な技巧に流れない古朴さ……みたいな印象になっている気がします(宮廷詩人として特に有名な人の作品は、素朴で渾厚なだけでなく、巨麗で嫺雅な感じがある。力強いのだけど、棘々してないというか、きらびやかで気品があるみたいな)

大陸的風雅

 そんなわけで万葉集第三期なのですが、山部赤人は中央の宮廷、大伴旅人と山上憶良は筑紫の太宰府で活躍しているので、かなり作風が違ったりします。山部赤人については、人麻呂の作風をさらに色彩豊かで明麗な感じにしたという雰囲気だと思っていて、紀伊国に行ったときに詠んだ作品で

やすみしし 我ご大君の 常宮(とこみや)と 仕へまつれる 雑賀野ゆ そがひ(後ろ)に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山(万葉集917)

みたいな感じで、「やすみしし」は大君の枕詞、「雑賀野」は紀伊国の地名、そこから後ろをみると海が広がっていて、「風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ」、神代よりこのように美しい紀伊の島と山……ということで、人麻呂よりも風景描写が増えつつ、宮廷風の長歌の様式(土地の提示+景物の叙述……+本旨)は残しています。きらきらとした風景が多くなって、明るくて綺麗な雰囲気になりつつ、ぼったりと熱っぽい感じはなくなって繊艶な美しさが加わっているみたいな印象です。

 そして、どちらかというと万葉集の中でも異質な魅力を感じさせるのは大伴旅人と山上憶良です。とりあえず、この二人の特徴としてはかなり中国趣味が入っているというか、万葉集の中に漢文の作品も残している、というところがとても独特です(今回の記事では、家持とのつながりから旅人を紹介します。一応書いておくと、旅人は家持の父です)。

 大伴旅人で有名なのは「酒を讃える歌 十三首」です。

賢しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔ひ泣きするし まさりたるらし(万葉集341)
この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫にも鳥にも 我はなりなむ(万葉集348)

 二つめの歌なんて、『荘子』大宗師篇の「善吾生者、乃所以善吾死也……浸假而化予之左臂以為鶏、予因以求時夜、浸假而化予之右臂以為弾、予因以求鴞炙(善く私の生を生きるものは、善く私の死を死んでいくものにして……天地が私の左臂を化して鶏とするなら、それに任せて朝に鳴かせ、天地が私の右臂を弾とするなら、それに任せて鳥を射ち落とそう)」みたいな雰囲気すら入っている気がします。

 これだけ読んでも、大伴旅人がそれ以前の和歌とは全く異質の抒情をもっていることは感じられます。形式は和歌だけど、その内容はむしろ漢文に近いというか

生年不満百、常懐千歳憂。
昼短苦夜長、何不秉燭游。
為楽当及時、何能待来兹。
愚者愛惜費、但為後世嗤。
仙人王子喬、難可与等期。(古詩十九首 其十五)

生きている年は百に満たず、常に千歳の憂いを抱く。
昼は短く夜の長きに苦しみ、どうして燭を秉って游ばないのか
楽しむのはこの時にやってしまうべきで、どうして来年まで待ってられようか。
愚者は金を惜しんで、ただ後世の嗤い者になるだけで、
仙人王子喬は、私と会ってくれることなどないのだから。

みたいな情調とかなり似ています。さらに云えば、旅人の歌には呪術性もなければ、そこから派生した国の豊麗さを喜ぶみたいな雰囲気もない(長歌ではそういうものも少し作っているけど、旅人の本色ではないと思う)です。これが旅人のいわゆる「大陸的風雅」なのですが、旅人の魅力は漢文がかなりの名文家というところにもあると思います。旅人が対馬の山にあった木の蘖から作った琴を送ったときの書状で

此琴夢化娘子曰
「余託根遥嶋之崇巒、
 晞幹九陽之休光
 長帯烟霞、逍遥山川之阿、
 遠望風波、出入雁木之間、
 唯恐百年之後、空朽溝壑、
 偶遭良匠、斮為小琴、不顧質麁音少、恒希君子左琴。」

……僕報詩詠曰
「事とはぬ 木にはありとも うるはしき 君が手馴れの 琴にあるべし」(万葉集810)

この琴は夢で一女子に化して
「私は遠い島の崇巒に根を寄せて、幹を天地の厓ての光に晞(さら)して、長い間 烟霞を帯びて、山川の阿(くま)を漂いつづけ、遠く風波を望んで、いつ用いられるのかも知らずに生きておりました。ただ、百年の後に空しく谷壑に朽ちていくだけなのは惜しく思っていたところたまたま良匠に遇い、斮(切)って小琴となったのですから、私の質は麁く音は少くても、常に君子の近くに置いてもらいたいのです」

私(旅人)はその女子に答えて
「物言わぬ木ではあっても、ある方の手馴れの琴になるでしょう」

 ……この趣味性の高さ、もはや『聊斎志異』とかのエロチック幻談を先取りしていくような感性です。ちなみに、「長帯烟霞、逍遥山川之阿;遠望風波、出入雁木之間」のような二句ずつで対句にしていく様式は初唐(618~711年)あたりに流行していた文体です。ちなみに旅人は長歌はあまり作っていなくて、どちらかというと長篇の文章は漢文で書いて、その終わりに和歌を載せる、という形を好んでいたらしいです。

 もう一つ、すごく旅人らしい(と勝手に思っている)ものを――。

……曙嶺移雲、松掛羅而傾蓋、夕岫結霧、鳥封縠而迷林。庭舞新蝶、空帰故雁。
於是蓋天坐地、促膝飛觴、忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足、若非翰苑、何以攄情、詩紀落梅之篇、古今夫何異矣

曙の嶺に雲は移り、松は羅を掛けて華蓋を傾けたようにぼやけ、夕べの岫に霧が滀まって、鳥は縠(薄い布)に閉じ込められて林に迷うようなとき、庭には新しい蝶が舞って、空には古い雁が帰っていくのだが、こんなときには天に蓋われて地に坐し、互いに杯觴をまわし合えば、一室のうちに言を忘れて、心を煙霞の外に遊ばせて、淡然として抜けたようで、快然として自ら得るものもあるようで、もし文章に依らなかったら、この想いも伝えられないのだから、漢土の詩にも落梅の篇があり、古今 想うことは同じなのだろう。

春されば まづ咲くやどの 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ
世の中は 恋繁しえや かくしあらば 梅の花にも ならましものを
人ごとに 折りかざしつつ 遊べども いやめづらしき 梅の花かも
霞立つ 長き春日に かざせども いやなつかしき 梅の花かも
我がやどに 盛りに咲ける 梅の花 散るべくなりぬ 見む人もがも
梅の花 夢に語らく みやびたる 花と我れ思ふ 酒に浮かべこそ
(万葉集815、818、819、828、846、851、852)

 最後の一首は「梅の花が夢で語る“私は雅な花なのですから……”」という意味です(作者は旅人らしい。それ以外の和歌は宴席に来ていた人たちが一首ずつ詠んだもの)。

「曙嶺移雲、松掛羅而傾蓋、夕岫結霧、鳥封縠而迷林。」は初唐風の隔句対で、本場中国からみてもなかなか質の高い駢文(対句を多用した文章)です。そして、この蕩然とした雰囲気、どこまでも王羲之「蘭亭序」に似ている

 ……此地有崇山峻嶺、茂林脩竹、又有清流激湍、映帯左右。引以為流觴曲水、列坐其次。雖無絲竹管弦之盛、一觴一詠、亦足以暢敘幽情。……夫人之相與、俯仰一世、或取諸懐抱、悟言一室之内、或因寄所託、放浪形骸之外。……每攬昔人興感之由、若合一契、未嘗不臨文嗟悼、不能喩之於懐。固知一死生為虚誕、齊彭殤為妄作。後之視今、亦猶今之視昔。悲夫。故列敘時人。録其所述、雖世殊事異、所以興懐、其致一也。後之覧者、亦将有感於斯文。

……此の地には崇山峻嶺、茂林脩竹のあって、また清流激湍あり、左右に照り映えている。その水を引いて盃を泛べる曲水として、みな列坐して並べば、絲竹管弦の楽はなくても、一觴一詠で、幽情を述べるには十分だろう。……さて、人が共にいて、一世を俯仰すれば、或る人は思いを深めて、一室の内に悟るものがあるだろうし、或る人は思いを寄せるものがあって、形骸を離れても遊ぶだろうし、……そうしていつも古き人の感興の跡をみていると、みずからの思いと一つに重なることがあり、文に臨んでは嗟悼(泣けて来ないものはなく)、それが何故かもわからない。固より死生を一つとするなどは虚誕だと知っていて、神仙彭祖と殤夭する子を同じくするなどは妄と知っているのだが、後の人が今を見るとき、きっと今の人が昔を見るようなのだろう、悲しいものだ。なので、今日の人を記し、その詩を録しておくことは、たとえ世が変わり物事が変わっても、その思うことは、きっと一つなのだろう。後の覧る者は、またきっとこの文に感じるものがあるのだろう。

 ……ちょっとだけ道家的・神仙的なのに、それよりもずっと抒情的――。その後に、宴にいた人が詩を作って詠み合うところもよく似ています。こういう趣向が入ってきて、万葉集ってすごく豊かになった感じあります(それ以前の宮廷詩人や呪術的歌謡とは全く異なる、もっと蓊鬱とした哀感というか、少し享楽的で無常的な感じ)。

 万葉集第一期が呪術歌謡時代(中国でいうと戦国期の楚の屈原のような、土着祭祀的な抒情性というか、現代ではあまり再現できない感性)、万葉集第二期が宮廷詩人の渾雅で古朴な同化性の時代(中国でいうと、漢代の賦家の宮廷を讃える文章などが近い質感)、万葉集第三期は中央では第二期の宮廷詩人風の雰囲気がさらに洗練されていきながら、唐の文化が入ってくる大宰府では漢文由来の感性が入ってきて、それまでの万葉集らしさを離れた作風も出てきている……という流れです。

 ちなみに、折口信夫は『死者の書』で「(家持は)十を出たばかりの幼さで、母は死に、父は疾んで居る太宰府へ降って、夙くから、海の彼方の作り物語りや、唐詩(もろこしうた)のおかしさを知り初めたのが、病みつきになったのだ。死んだ父(旅人)も、そうした物は、或は、おれよりも嗜(す)きだったかも知れぬほどだ(第10章)」と書いています。

頼蒙聖化,變無窮兮

 というわけで、やっと王褒と家持です(いきなり書いても良かったのかもしれないけど、家持がそれ以前の万葉歌人と比べてどのように異質なのかを書いたり、王褒が他の賦家とどのように違うのかを書く為には、一応あった方がいい気がしたので、かなり長くなったけど、とりあえず王褒と家持です)。

 王褒は「洞簫賦」という作品で有名で、宋玉や王褒を読んでいるゆえに「四十面さげてもまだ、涙もろい歌や、詩の出て来る元になって居る(『死者の書』第14章より)」というらしいのですが、この“涙もろい”っていうところが家持の特徴だとすれば、こんな作品は今まで無かったかもです。

大君の 任けのまにまに ますらをの 心振り起し あしひきの 山坂越えて 天離る 鄙に下り来 息だにも いまだ休めず 年月も いくらもあらぬに
現せ身の 世の人なれば うち靡き 床に臥い伏し 痛けくし 日に異に増さる
たらちねの 母の命の 大船の ゆくらゆくらに 下恋に いつかも来むと 待たすらむ 心寂しく
はしきよし 妻の命も 明けくれば 門に寄り立ち 衣手を 折り返しつつ 夕されば 床打ち払ひ ぬばたまの 黒髪敷きて いつしかと 嘆かすらむぞ
……恋ふるにし 心は燃えぬ たまきはる 命惜しけど 為むすべの たどきを知らに かくしてや 荒し男すらに 嘆き伏せらむ(万葉集3962)

 どこがそれまでの長歌と異質かというと、「大君より拝命をうけて、私(家持)は険しい山を越えて、遠い鄙国(越中)にやってきたのですが、幾らもせぬうちに病にかかり、床に臥して苦しみが日に日に増して、母は大船のゆらゆらとゆれるような想いで私の帰りを待っているだろうに――、妻は明けては門に出で立ち、夕方には一人で寝て待っているだろうし……、このように私も恋いていると心が燃えるようで、この命が削れていくのが惜しいけれど、為す術を知らない私は、荒き心をもっているはずなのに泣いているのです」という意味で、神々を祭る呪歌に祖をもつ宮廷のためのコトホギの様式だった長歌で、こういう内容を描くところが今までに無いです。

 万葉集の歌風は「ますらをぶり」とされますが(賀茂真淵の用語)、家持の歌には「ますらをの 心振り起し」「荒し男すらに」みたいな語がよく出てきて、いままでの国や自然とどこまでも一つになれた宮廷詩人たちにはない脆さ・崩れそうな繊細さを無理して保っている感じが入っているというか、涙もろい歌になっています。

大君の 任けのまにまに しなざかる 越を治めに 出でて来し ますら我れすら 世間(世の中)の 常しなければ うち靡き 床に臥い伏し 痛けくの 日に異に増せば 悲しけく……
道の遠けば 間使も 遣るよしもなみ 思ほしき 言も通はず たまきはる 命惜しけど せむすべの たどきを知らに 隠り居て 思ひ嘆かひ 慰むる 心はなしに
春花の 咲ける盛りに 思ふどち 手折りかざさず 春の野の 茂み飛び潜く 鴬の 声だに聞かず
娘子らが 春菜摘ますと 紅の 赤裳の裾の 春雨に にほひひづちて 通ふらむ 時の盛りを いたづらに 過ぐし遣りつれ 偲はせる 君が心を うるはしみ この夜すがらに 寐も寝ずに 今日もしめらに 恋ひつつぞ居る(万葉集3969)

 これも同じく越中で病に臥せっているときのものなのですが、「大君の命をうけて越中にまで来たのですが、“益す荒我れすら”病に臥して、道が遠ければ都に使いを遣ることもできずに、思っていることも云えず、命も惜しいがどうしようもなく、嘆く心を慰める術もないのに、春の花の咲ける盛りに、思いが通ったもの同士で花を折って翳し合うこともなく、春の野の鶯の声も聞かず、娘子らが春の菜を摘むときに紅の裳裾を 春雨に濡らして歩くところも見られずに、ただただ過ごしているのですが、そんなときに思いをかけてくれたあなたの心を喜んで、それでも寝られずに、今日もあなたを絶え間なく恋いつつ居るのです……」という内容です。

「娘子らが 春菜摘ますと……」の濃烈な紅と穠縟で湿った翠の混ざり合いはすでに書いたとおりだけど、その色彩感覚が「ますら我れすら 悲しけく」と合わさっています

 ところで、この歌の内容って、宮廷詩人の長歌というより、むしろ防人歌(北九州の守りに送られた人たちの歌)に近いものがあって、たとえば

ひな曇り碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも(万葉集4407)
障(さ)へなへぬ命にあれば愛し妹が手枕離れあやに悲しも(万葉集4432)

のような歌をみていると、「日の曇っている碓氷の坂を越えただけでも妻が恋しくて忘れられない」「遮ることのできない命なので、愛しい人と離れてしまって何とも悲しい」……という感じが、むしろ家持に似ているというか、宮廷と同化していない(むしろ周縁的ですらある)気がします。

 これだけでも家持が“涙もろい歌”というのはわかりますが、さらに王褒の賦をみていきます。「洞簫賦」は結構長い作品(漢賦の中ではこれでも中篇くらいなんだけど……笑)で、最初に洞簫(笙的なもの)になる竹が生えている場を描いて、さらにその竹に施される加工を描き、さらいその洞簫の音がどんな感じか、それを聞いた人がどんな気持ちになるか、最後に全体の反歌のようなもの(乱)、という構成になっています。

原夫簫干之所生兮、于江南之丘墟。洞條暢而罕節兮、標敷紛以扶疏。徒観其旁山側兮、則嶇嶔巋崎、倚巇迤㠧、誠可悲乎其不安也。彌望儻莽、聯延曠蕩、又足楽乎其敞閑也。托身軀于后土兮、経萬載而不遷。吸至精之滋熙兮、稟蒼色之潤堅。感陰陽之變化兮、附性命乎皇天。翔風蕭蕭而徑其末兮、回江流川而溉其山。揚素波而揮連珠兮、聲礚礚而澍淵。……
於是般匠施巧、夔妃准法。帯以象牙、掍其會合。鎪鏤離灑、絳脣錯雜。鄰菌繚糾、羅鱗捷獵。膠緻理比、挹抐㩎㩶。……
若乃徐聴其曲度兮、廉察其賦歌。啾咇㘉而将吟兮、行鍖銋以龢囉。風鴻洞而不絶兮、優嬈嬈以婆娑。翩綿連以牢落兮、漂乍棄而為他。要復遮其蹊徑兮、與謳謠乎相龢。故聴其巨音、則周流汜濫、并包吐含、若慈父之畜子也。其妙聲、則清静厭㥷、順敘卑达、若孝子之事父也。科條譬類、誠応義理、澎濞慷慨、一何壮士。優柔温潤、又似君子。故其武聲、則若雷霆輘輷、佚豫以沸㥜。其仁聲、則若颽風紛披、容與而施恵。或雑遝以聚斂兮、或拔摋以奮棄。悲愴怳以惻惐兮、時恬淡以綏肆。被淋灑其靡靡兮、時橫潰以陽遂。哀悁悁之可懐兮、良醰醰而有味。
故貪饕者聴之而廉隅兮、狼戾者聞之而不懟。剛毅彊虣反仁恩兮、嘽唌逸豫戒其失。……吹参差而入道德兮、故永御而可貴。……
乱曰:状若捷武、超騰踰曳、迅漂巧兮。又似流波、泡溲汎𣶏、趨巇道兮。哮呷呟喚、躋躓連絶、淈殄沌兮。攪搜㶅捎、逍遥踊躍、若壊頹兮。優游流離、躊躇稽詣、亦足耽兮。頹唐遂往、長辞遠逝、漂不還兮。頼蒙聖化、従容中道、楽不淫兮。條暢洞達、中節操兮。終詩卒曲、尚餘音兮。吟気遺響、聯綿漂撇、生微風兮。連延駱驛、變無窮兮。

さてその洞簫の竹の生えているところは、江南の丘壑にして、その洞は條暢(すっきりと通って)節は少なく、標(高く)敷紛(枝の披がって)豊かに茂っている。その傍らの山側をみれば、則ち嶇嶔巋崎(ざくざくきりきり)として、倚巇迤㠧(ぐねぐねぎらぎら)と鋭くて、誠にその危うげなところを悲しむべきで、さて遠く儻莽(もやもやとした山)を望みやれば、聯延曠蕩(うねうねもこもこ)として、その敞閑(ひっそりと静かなこと)を楽しむべき地にして、そんな中で身を后土(地神)に託して、萬年を経てその身を遷さず、至精の滋熙(澄んだ雫)を吸って、潤堅(つやつやと緊まった)蒼色を稟けて、陰陽の變化に感応して、その性を皇天より附されていれば、回る風は蕭蕭(さらさらとして)その末(枝)をゆらし、回江流川はその山を溉(潤していて)、素波(白い瀾)を揚げては連なる珠を散らし、その声は礚礚(ざらざらとして)淵に澍(注いでいく)……

さて、その竹に公輸・匠石などの工匠は竹を削り、夔・妃などの楽官は音を准(定めるのだが)、象牙を帯びさせ、會合(合わさるところ)に掍(繋ぎ合わせ)、鎪鏤離灑(ぎしぎしじかじかを螺鈿蒔絵を鎪り込み)、絳脣錯雜(吹き口に紅い色を混ぜて)、鄰菌繚糾(きちんと並んで絡まり合っているようで)、羅鱗捷獵(隙き間なく噛み合っていて)、膠緻理比(固く繋がり合って)、挹抐㩎㩶(指を捻ったり抑えたり掴んだり包んだりするのに嵌っている)。……

そのような洞簫の曲を聴いて、そこに重ねる歌を思えば、啾咇㘉(ひそひそさらさら)と小さく歌い始めて、ややあって鍖銋(じりじりざらざら)として龢囉(わらわらぼあぼあ)として、風が鴻洞(ぼぅぼぅ)と鳴って絶えないと思えば、優嬈嬈(ゆるやかににょろにょろとして)婆娑(だらだら散っていくようで)、翩綿連(ふるりと翻って回っていると思えば)牢落(がらんと物寂しく空いていて)、漂いつつ棄るようになって時折外れたような音を出し、外れたところを戻ろうとしてその蹊徑(みち)を塞げば、謳謠(歌)と合わせてまた鳴り出だすのですから、故にその巨音を聴けば、則ち周流して汜濫する水の、并包して吐き出しては呑み込み、慈父の子を育てるようで、その妙声を聴けば、則ち清静にして厭㥷(重く沈んでいて)、順敘して卑く延び、孝子の父に事えるようで、諸々の曲目は譬類(それぞれ似るもの有りて)、誠に義理に応じており、澎濞(ごうごうと溢れて)慷慨し、ひとえに壮士の如く、優柔にして温潤なれば、又た君子に似ており、故にその武声は、則ち雷霆の輘輷(蹴り落とす如く)、雄邁佚豫にして沸㥜(茫忽としてとめどなく)、その仁声は、則ち颽風(南風)の紛披(ふわふわとして)、ゆったりとして恵を施すかのようで、或いは雑遝して聚斂し、或いは拔摋(貫き拔けて)奮棄(通り棄てていくようで)、悲しく愴怳(そろそろと近づいてきては)以て惻惐(ぞくぞくと脅かせ)、時に恬淡として綏肆(落ち着き滀まっている)。被(ふわりと広がっては)淋灑(しりしりと浸み込んで)其れ靡靡として、時に橫潰して陽遂(どうどうと流れ去っていく)。哀しく悁悁(くねくねとして)心に這入り込むようで、良く醰醰(濃重)にして味わい深い――。

故に貪饕せる者はこれを聴いて廉隅(慎ましやかになり)兮、狼戾(淒み猛っている)者はこれを聞いて不懟(憎まず)、剛毅彊虣 (荒々しく亂れている者)は仁恩に反り、嘽唌逸豫(ずるずるでらでらしている者)はその失を戒め、……参差たる洞簫を吹いてその音は道德に入り、故に永らく愛して貴ぶべきもので。……

乱に曰く:その状(姿)は捷き武(捷技師)の如く、超騰(ひょんと飛んで)踰曳(するすると抜け出し)、迅くして剽巧なり。又た流るる波に似て、泡溲汎𣶏(ざらざらはらはらとして)、巇道(狭き壑間に流れていく)。哮呷呟喚(ぼうぼうほうほう)と云いながら、躋躓(上り躓き)連絶して、淈殄沌(淀み滀まってぐにゅぐにゅとして)、攪搜㶅捎(ざくざくざらざらがらがらとして)、逍遥踊躍すれば、ふらふらと壊頹(くずれていくようで)、優游として流離、躊躇して稽詣(のろのろ歩き)、人の心を耽らすようで、頹唐(ぐったりと倦れ頽れて)遂に往き、長く辞して遠く逝き、漂(ほわほわとして)ついに還らず。聖君の化を蒙り、従容として道に違わず、楽みて淫せず。その姿はすっとして洞達(洞の通り)、礼節にもかなう音色ゆえに、詩の終え曲の済んで、さらに餘音の溺々として、吟気遺響の聯綿漂撇(ゆらゆらとして漂い消えて)、やわらかな風を生じて、連延駱驛、變無窮なり。

 …………なんて自由な文章(笑)。王褒って、今までがっつり訳したことなかったけど、改めて訳してみると、字を熟語にするときもかなり変な組み合わせになっていて、その無理やりな捩じれと歪みと折れと曲がりで書いているみたいな感じになっていて、さっきまで水に喩えていた(澎濞慷慨)はずなのに、いつの間にか雷になって、雷が車(輘輷)、車が人(佚豫以沸㥜)……みたいにつながって、さらに水の縁語で山壑(巇道)・堤(横潰)、水を掻き混ぜる手(攪搜㶅捎)――とか、こんな文章が一回でも書けたら死んでもいいってくらいに憧れる笑。

 とかいう余談は置いておいて、この作品は漢賦の中でも隠れた名品だと思っていて、六朝期の文芸評論書『文心雕龍』銓賦篇では「変を声貌に窮める」と評されているけど、変幻自在な音の様子を、あるいは音(じりじりざらざら・わらわらぼあぼあ・ゆるやかににょろにょろとして・ぐにゅぐにゅとして)、あるいは貌(雷霆の蹴り落とす如く・落ち着き滀まっている・ひょんと飛んで・するすると抜け出し……)の中に多彩に描いていく、さらには“貪饕せる者・狼戾な者・ずるずるでらでら・軽業師”などの妖しげなものまで含みこんでいることが魅力的という感じです。

 そして、この洞簫になる竹は、僻遠な山の中に育って、別に国の祭儀の中心にいるわけでも、格の高い霊山でもないけれど、「聖君の化を蒙り(原文:頼蒙聖化)」混茫泡溲たる中に含まれている……という雑多さ・卑小さが、いままでの漢賦の雄偉にして荘麗な感じとは異なって、むしろ魅力的です(ただ卑小で雑多なだけでなく、“聖君の化を蒙り、道徳に入りて道に違わず”というところが、“歓楽して淫せず、陰陽の變化を感じて、性命を皇天より附せられる”ということで、雑多なのに求心力もあるという意味で大事だったり――)。

 というわけで家持なのですが、「大君の 任けのまにまに しなざかる 越を治めに」来ているあたりはまだ“聖君の化”を離れないけど、「たらちねの 母の命の 大船の ゆくらゆくらに 下恋に……」あたりでちょっと離れてきて、「娘子らが 春菜摘ますと 紅の 赤裳の裾の 春雨に にほひひづちて 通ふらむ 時の盛りを……」まで来ると、もはや「洞簫の音を聴けば、かの貪餮なる者も――、かの狼戾なる者も――。その音は捷業師のひょんと飛んで、するりと抜け出し……」くらいまで外れているかもしれないです。

 万葉集がどっしりとした歌いぶりと評されるのって、たぶんだけど、感情の性質がどっしりしている(人麻呂や赤人などは宮廷とどっぷり同化している)故だと思うのですが、それと並んで目の前の風景を描いて揺らがないところも、そういう印象につながっているのかもです。

 一方で、家持(万葉末期)まで来ると、もはや渺々茫々として目の前の風景が少し歪んだり、ぼやけたりするような、「変を極める」作風になってきて、人麻呂や赤人の中心性に比べて家持の部分性という違いがあるのかもです。

 ちなみに、どうでもいいけど、旅人が好んだ王義之や竹林の七賢(讃酒歌 其三)は、家持が好んだ(と折口信夫は書いている)宋玉や王褒より時代が後なのですが、中国で一通り出揃った様々な作風の中から、とりわけ好みに合うものをそれぞれが選んで取り入れていった日本ならではの不思議な流れだと思ったりしています。

「聯娟」の娟は長いものがぬるりゆるりとしていて綺麗なこと、「厭㥷」は“えんえい”と読んで、低く深く沈んでいること、「漂撇」は“ひょうへつ”という音で、ふらりと軽く拂い漂うような感じです。「華藻」は華やかな藻飾です。

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています