占例

年筮

 最近「爻卦法で年運を読める」という記事を載せたのですが、5月19日に誕生日なので、今年の年運を読んでいきます。

 読み方としては、最近覚えた爻卦法と、暇なときに読んでいる『東坡易伝』(蘇軾が作った易の注釈)でいきます。

 そもそも、これを易で読んでみたいと思った理由として、今年のソーラーリターン(西洋占星術で、誕生日から一年間の運勢をあらわすホロスコープ)の様子が、ちょっと異様というか、色々と危うい感じがしたので、どのように過ごせばいいのか占ってみたいと思ったからなのですが。

 というわけで、占って出たのは、需之節(爻卦は下から坎坎乾巽震巽)です。

 需は、内卦の乾が向こう(外卦)の坎に入ろうとする様子です。蘇軾はこんな感じの解釈をしています(長いので訳して載せます。たぶん原文読みたい人いないと思うので)。

彖曰:需は、須(待つ)こと。険は前にあっても、(乾は)剛健にして陷らず、その義は困窮せず。……
象曰:雲が天の上にあるのが、需。君子は以て飲食宴楽する。
初九:郊(街の外の野)に待つ。恒(変わらないこと)に用いるによく、咎もない。
九二:沙(川の近くの砂)に待つ。小さく譏られることはあっても、終いには吉。
九三:泥(川の傍の泥)に待つ。(川に入ってしまうと)寇(あだ)の至ることになる。
象曰:みずから川に入って寇(あだ)を致すので、敬慎していれば敗れることはない。
六四:血まみれになって待つ。穴から出てきたりする。
九五:酒食の中に待つ。正しくて吉。
上六:穴に入っている。招かれざる客が三人来るので、敬して終いには吉。(『周易』需より)

乾の進もうとするのは、およそ坎からすると全て楽しくはないもので、それゆえ六四はこれに抗い、傷ついて後に逃げていく;上六は抗えないのを知っているので、敬いて咎を免れる。もっとも、敬いて咎を免れるとは、乾が害を為すことを疑っていて、物事で疑いのないときは、敬いて取り持つようなことはしないのだが、九五については乾がみずからを害さないのを知っているので、さらにみずからが乾を御することができるのを知っているので、それを引き入れて疑わない。

乾の剛とは、畏れるべきもの;坎の険しさは、易からざるもの。乾が坎に向きあうときは、遠ければ咎を受けないけれど、近づけば寇(あだ)を致すことになる(遠ければ……は初九が坎から離れていること、近づけば……は九三が坎に近いことをいう)。坎が乾を迎えるときは、それを敬すれば吉、それに抗えば傷つき(敬するのは上六、抗うのは六四)、二者は兼ねるのが難しい。ただ、広大にして安らかな君子のみ、この二つを兼ね得るので、故に「飲食して宴楽」という。

初九:まだ坎からは遠いので、郊という。下に居ても進むのを忘れないのは、乾の常である。坎から遠くして不惰(弛まず)、近づいても不躁(焦らず)、これを常を失わないという。
九二・九三:少しずつ坎に近づくので「沙」といい、坎に近づくと「泥」という。沙の「譏り有り」、泥の「寇(あだ)を致す」は、どちらも坎の害を為すことをいう。「譏り有り」には、「終いには吉」と告げ、「寇を致す」には、「敬慎して敗れず」と告げるのは、乾が険しさを見てもその進むのを止めないのを吉としている故。
六四:「血の中に待つ」とは、乾に抗って傷ついたこと、「穴から出入する」とは、乾に勝てずに逃げること。
九五:敵(乾)が至っても避けないのは、余り有る者にあらずして出来ないこと。そもそも酒食を用意して待つのは、守りを無くして迎えていることで、六四・上六の二陰では出来ず、九五のみ乾をこのように待ち、乾は必ず心服して九五のために用いられ、これが九五の正にして吉を獲る所以。
上六:乾は既に六四を倒して九五まで来てしまい、その勢いは抗えず、それ故に上六は穴に入って自ら固めている。「招かれざる客」というのは、乾が来ることを願っていないことで、願ってない意があって固く守って待っているのは、安らかになれるのか?その咎を免れるのは、「乾を敬っている」ためなのだが、九五の中を得ているには及ばず、それでも六四の大いに失しているよりはまだ良い。(『東坡易伝』需より)

 これを読むと、需の坎はそれほど悪い(険しい)意味はないような気がするのですが、爻卦もみると、六四・上六は巽(従う)なので艱難があるようで実際はそうでもないこと、九五は震(盛んな雷)なので、楽観的な読み方をすれば酒食は鳴り物もあるみたいな感じもするのですが。

 これが水沢節(沢の上に水があって、ほどよく収まっている様子)になると、蘇軾は

「節」というのは、事の機会をいう。君子は吉凶の秘を知っていて、それが現れるやその機会に合わせるのを「節」という。……節無き者は物事の機会を知らず、或いは早きに失し、或いは暮(晩き)に失する。「澤の上に水が有る:節」というのは、澤(水辺)が水を節していることで、虚(水が少なければ)ここに水を納れ、満ちればそれを流しており、その権は澤にある。初九・九二・六三は、「澤(兌)」にあたり、人を節する者であり、六四・九五・上六は水のことで人に節される者。

といっていて、さらに初~三爻の爻辞に

初九:戸庭に出でず、咎はない。
九二:門庭に出ないと、凶。
六三:節若としていなければ、則ち嗟若(あぁ……と哀鳴する)、咎はないけど。(『周易』節より)

節するのは、初九だとまだ早いとき、六三だとかなり晩いとき、九二はちょうどよい時で、機会を得ている。水が来たばかりのときは、沢は水を滀(ためて)流さないようにするべきで、水が滀まってきたら流していくので、故に初九は「戸庭(屋敷の中の庭)に出さない」のが「咎なし」(水を滀めるべきなのを云う)、九二は「門庭(屋敷の前の庭)に出さない」のが「凶」(水を出していくべき)となっている(でも、九二はほどよく水を出していることもある)。水が来ているのに滀めているのは、時を失っておりそれが極まっていくと、六三になる。
六三:咨嗟(あぁ……と嘆きながら)水を節して滀めているのは、節するより他にないから。九二の節は、まだ水が滀まってないので、節する者は楽しみもあり、節される者は甘じていたけど、六三の節は、既に溢れそうなのに節しているので、節する者は嗟き、節される者は苦しい。もし節が人にとって堪え難いものだったら、人はその溢れてしまうのを咎める者はないのは、六三が巳むを得ずに溢れさせてしまうのを知っているから。嗟(あぁ)というのは、已むを得ずして水が外に溢れてしまうこと。(『東坡易伝』需 初~三爻より)

となっていて、初爻はまだ水がそれほど滀まってないので屋敷の中の庭から水を出さないのが咎なし、二爻になると水が滀まってくるので屋敷の前の庭から少しずつ水を出さないと凶、三爻になると水が溢れそうなのに節しているので、もし節していられないほど滀まると嗟若(哀鳴する様子)としながら水を溢れさせてしまう(でも、見ている人はまぁあれは滀め続けるのも無理だから……と知っていて咎めない)という意味です。

 六四は初九、九五は九二、上六は六三にそれぞれ節せられる水(坎)なので、その爻辞をみていくと

六四:節に安んじる、うまくいく。
九五:節を甘いものとする、吉。このように往くのは尊いこと。
上六:節に苦しむ。正しいと思っていると凶。悔は亡ぶ。(『周易』節より)

六四:六四は九五を支えるように比していて、その関係を重んじているので、安らかに節されている。
九五:滀まっているのにさらに溢れそうになって、さらに節していると、その節は必ず溢れ出してしまう。九二はほどよい時に節しているので、九五はその節を楽しんでおり、故に「節を甘いものとする」。
上六:爻辞「正しいと思っていると凶。悔は亡ぶ」とは、何なのか。「凶」なのは六三、「悔が亡ぶ」のは上六で、節せられる者は坎(水)、節する者は兌(沢)ということに由る。六三は苦しい節を私(上六)に施しており、六三はそれを已むを得ないことだと思っていれば「咎はない(六三の爻辞)」、苦しい節を正しいものだと思っていると「凶」になる。もっとも、上六は抑えられるので悔いをみずから為すことはないけど。(『東坡易伝』需 四~上爻より)

 六四はまだ水が少ないときので安らかに節するけど、九五はそこそこに水を出してもらう(九二は門の前の庭まで水を出してくれる)ので、その節に甘じている(内卦・外卦の中爻は、中:ほどよさを知っていると解釈することが多い)、上六になると、水が溢れそうになるほど滀まっているのに六三が滀め続けるので、遂に溢れてしまい、その節は苦しいもので、この様子を正しいものとすると凶だけど、已むを得ず無理やり抑えて溢れ出すのは、悔いは亡ぶ、というわけですね。

 さらに爻卦を混ぜて読んでみると、六四は巽なので水が少ないときは大人しく従い、九五のときは震々虩々として水が多くなっているけど、このどちらも初九・九二の痩せて険しい坎に節せられるので(同じ水でも、兌は滋潤、坎は蒼勁、兌の水の色は明るくて坎の水は色が暗い、坎はごつごつと深いところに水が滀まっていて、兌はゆるく平らなところに水が滀まっている)、上六になって溢々(なみなみとして)節しているときは、節する方は坤のように静かで落ち着いていて、節せられる方は巽のように穏やかに従いながらもだらだらと溢れているということです。

 なので、色々書いたけど、大きく云うと需の初・二爻は坎なので、険しく入り組んでいるところに水を滀めるようにして抑え込んでいる(需:待っている)けれど、九三に至っては乾なのでいよいよ坎の中に入ろうとする。でも、力はあっても豫々(ぐずぐずとして)冬の川を渉るごとく、猶々(のろのろとして)四方を畏れる如くして泥の中に需てば三爻は坤に変じて、嗟若として溢れ出しても咎なし……ということになる。

 とりあえず、それくらい抑えていても十分すぎる水(エネルギー的なものだと思う)を蔵しているので、これを貞(正しい)と思うと凶だけど、今年はそれでも坎(需の坎)の六四は傷つかず、飲食宴楽も鳴り物たくさん、上六も一応は迎える……というふうになります。

 抑え過ぎるほど抑えても溢れてくる分だけで十分すぎるので、できるだけ抑えて已むを得ずに寓して吉祥止止(とどまり居たる)みたいな年ですね(たぶん異様なほどいい年になると思う)。


 ちなみに、爻卦法で別の解釈をしてみると、需の九三(乾)と六四・上六(巽)の関係としては風天小畜、九三(乾)と九五(震)の関係は雷天大壮になります。

 風天小畜は、蘇軾の解釈だと

乾のようなものは畜(蓄えておく)のが難しいもの。蓄えてくれる人に応じて、乾は用を為してくれるので、乾は巽のために用を為したりはしないけど眷眷(捨てて去るに忍びなく)、ついに小さいことに関わって病を致すのが、「小畜」の卦。故に「密雲は雨をふらさず、我が西郊にあり」という。陽が陰に交われば雨となるのだが、乾は巽のために用を為すほどではないと知っていても、乾の性格として、急いでしまうところがあって、故に進み出でて試してしまう。なので既に「密雲」になっているが、「密雲」になっても「雨をふらさない」のは、乾が用を為すのは軽々しく用いてはならないので、小さいことに用いると乾を損なってしまう。乾もそのことを知っているので、遅疑(のろのろと様子をみて)そのあとに用を為すので、まだ雨をふらせず「西郊」に居る。もっとも、既に雲まで作ってしまっては、雨がふってしまう道にあり、街の西郊に居れば、そのうち来てしまうので、……故に彖伝では「密雲は雨をふらさず、それでもいずれ往く」という。

となっていて、需(のろのろと待っていても)いずれ巻き込まれてしまうので、そもそも乾の性が雲を作るほど急なのが、寇(あだ)を致す元になります。

 さらに、雷天大壮の解釈も

乾(天)は震(雷雲)まで上っていく。上っていく乾は羊のよう、羊を受け止める雷雲は藩(籬)のようで、勢いに任せて九三のように突っ込んでいると上六の籬に引っかかることになり、「小人は壮を用い、君子は罔(ぼんやりとして曲がっている)を用いる」とあるように、籬がないところ(九五)をみて平易なときに往けば吉。

という意味です(かなり色々省略しているけど)。なので、需の九五(震)が乾を招き入れて酒食宴楽しながら用いるまで何もしない、みたいな感があります。

 ついでに之卦の節では、六三は坤(節する側)、上六は巽(節せられる側)なので、その節の様子は風地観です。風地観は上下にあるものがお互いに見合っている様子なので

初六:童が観せる。小人は咎なし、君子としては惜しいけど。
六二:窺わせるように観せる。婚礼を待つ女性のようにすれば利あり。
六三:みずからの生はどうなるか観て、進退する。
六四:国の光を観るように、王の賓となるには佳い。
九五:みずからの生を観せる。君子は咎なし。
上九:人々がその生を観る。君子は咎なし。

というように、内卦(初~三爻)の爻辞はどれもまだ観せるときではないと云っていて(節する)、外卦(四~上爻)の爻辞は観せるときだと云っています(でも節せられる)。その様子はまもなく溢れそうな水のようで、節しても溢れてきたことを「嗟若として、それでも咎はない」と云ってます。

 こんな感じで、爻卦を組み合わせて読んでみても、溢れるまで滀めておく様子はなんとなく通じています。(本音をいうと、この記事は爻卦法で読んでみたくて書いたのですが、何通りもの読み方をして卦の中に含まれている意味を多方面からみていく爻卦法、かなり好みです)

 余談ですが、この記事のアイキャッチ画像は、去年の七月にいったお寺の写真。あちこちに複雑な形で水が流れていて、その小さい流れは本堂の裏にある大きい池からさらさら漏れ出して、幾つもの溝にそって分かれながら、南の門まで流れていくという不思議な構造で、風鈴も白昼夢的だったりした(群馬県川場村の吉祥寺。御朱印の種類や彩りがとても豊富で、一年中さまざまな花が咲いている山界の仙都のような感じです。この動画、左右揺れが本当に惜しい……)。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています