東坡易伝

易と老荘

 別に何か大きい結論のある話ではないけど、『易』『老子』『荘子』の三書は、中国では“三玄(三つの玄妙な書)”と云われていて、この三つは読んだ人の中で自然なかたちに融合していく……みたいな印象があるのですが、その融合のされ方が人によって結構異なる、という記事を易目線で書いてみます。

老荘の違い

 まず、『易』はもともとが占いの書で、読み方が何通りもあるような句も多くて、本来はどういう思想だったか……みたいなのは特定するのがすごく難しいのですが(色々な易の解説書も、実際は中国で出された古い注釈に依っていたり、その幾つかを集成したり……みたいな形で作られていることが多いです)、『老子』『荘子』はそれぞれかなり性格が異なる思想を持っています。

 まず、老荘の間の違いとしてかなりきれいにまとまっているものを引用してみると(引用部分は一部意訳したりがあるけど)

 その第一は、老子の思想の根柢が、「清虚さによって自ら守り、卑弱さによって自ら持す」というように、“世に処し身を保つ”ことにおかれながらも、なお政治への強い関心がもたれ、支配への積極的な意欲が感じられる(六十一章:大国は下流にして……静をもって下となる。故に大国は小国に下りて小国を取り、小国は大国に下りて大国を取る。三十六章:それを縮めようと思えば、必ずそれを伸びさせ、それを弱めたいと思えば、必ずそれを強くさせ、それを廃れさせたいと思えば、必ずそれを栄えさせ、それを奪いたいと思えば、必ずそれを与えておく……魚は淵を出でてはならず、国の利器は人に見せてはならない)のに対して、荘子にはほとんどそれが認められないか、……「われは天下を用いて為すところ無し」という言葉で無造作に否定し去られている。……

 その第二は、両者における「道」の概念の内容の転化が指摘される。老子では「物ありて混成し、天地に先立ちて生ずる。……以て天下の母をなすべし。これに名づけて道という」というように、天地万物の根源としての静的な、または本体論的な実在として考えられていた道が、荘子では「天地に先立ちて生ずるものが有っても、それは物だろうか。物を物として存在させているものは、物ではないだろう(知北遊篇)」といい、「一虚一満、その形にとどまらず、消息盈虚して、終わったとおもえば始まり、動いて変じないものは無く、時によって移らないものは無し(秋水篇)」というように、刻々流転してやまぬ変化そのものが道と考えられている。

 したがって老子では、……太古樸素の道に復帰することが強調されるのに対して、荘子では「物に乗せて心を遊ばせる(人間世篇)」とか、「時に安んじて順に居る(養生主篇)」とか、「送らざるなく、迎えざるなし(大宗師篇)」とかいうように、道とともに往き変化に乗って遊ぶことが強調される。

 ……その第四は、両者における「無為」の概念の内容の転化である。老子では「得難いものを貴ばず」とか、「民に利器多くして国家いよいよ乱れ、人に技巧多くして奇物いよいよ起こり、法令いよいよ明らかにして盗賊多くあり」とかいうように、外を対象として説かれた無為が、荘子では「物に乗せて心を遊ばせる(人間世篇)」とか、「生を忘れる(大宗師篇)」「己を忘れる(天地篇)」とかいうように、内なる心に転ぜられて、無心の意味に発展してゆく。

 したがってまた、これと関連して、「足るを知れば辱められず」とか、「止まるを知れば危うからず」とか、「身の災いを残すことなかれ」とかいうような老子の即自的な保身への関心が、荘子では、「至人は己れ無し(逍遥遊篇)」といい、「事のあるがままに行って、その身を忘れる(人間世篇)」……というような忘生または捨身における高次の全真として説かれている。(『荘子  内篇』福永光司  387~390頁)

みたいになっていて、老子の思想は清虚柔弱による保身処世の智恵、荘子の思想はより積極的に、変化の中を生きていく智恵という違いがあります(もっと雑にいうと、静の老子と動の荘子、地と水の老子に比べて雲と風の荘子というイメージ)。

 もっとも、易の本文はあまりに古怪すぎて原文だけでは読めないので、古い中国で出された注釈にもとづいて読んでいるというのは既に書いたとおりなのですが、その易の注釈の中でも「老子的な注釈」「荘子的な注釈」というのがある気がします。

本宗と衆妙

 というわけで本題なのですが、この記事では老子的な易解釈として王弼(三国魏の人。『易』と『老子』についての注釈を書いた)、荘子的な注釈として蘇軾(文章・詩詞・書法などに通じていた「芸術の全才」。北宋の人)のものをみていきます。

 まず、王弼の注釈は、三国魏の頃に作られたものなのですが、その頃は玄学(易・老子・荘子の三玄に書かれているような玄妙な思想についての学問)が盛んで、王弼のその中心になった一人です。そして、王弼は『老子』にも注釈をつけているくらいなので、その易学も老子色が濃いとされています。

 もう一つ、王弼の注釈の特徴をあげておくと、王弼以前は漢代から始まった象数易(易の陰陽の配置などから、その体系性を探ったり、あるいは易経本文を解釈していく読み方。荀爽・虞翻などが有名。真勢流の交代生卦・運移生卦などと似ている理論もあったりする)が主流だったのですが、象数易はややもすると無規則に象を持ち出したり、無理やりな字句だけの説明を通すこともあったので、王弼が爻の陰陽などについての基本ルールにもとづきつつ、字句の表面にとどまらずに思想的な面も含めて本文を解釈していく注釈をつくりますが、これが義理(思想的な意味)も重んじる「義理易」の始まりになったとされています(義理易とはいっても象を棄てているわけではなく、象+義理なので義理易というのが近いです)。

 ちなみにですが、王弼が出てきた後にも、一応は象数易も残っているのですが、どことなく場当たり的に象をもちだして本文を説明したりする面があった象数易に比べて、王弼注のほうが全体の体系性が簡明で読みやすいということで、王弼が主流になって、唐代になると科挙の正式な易解釈とされています。なので、それ以外の解釈が禁止されたわけではないけど、とりあえず最初は王弼注をみる……という風潮になっていきます。
(宋代の人たちも王弼注に従うにしても否定するにしても一応は知っていたりします。象数易がややもするとかなり奇怪で恣意的な説明になっていたかは『周易集解』で見られたりします。まぁ、全部が違うというわけではないだろうけど)

 一方で、蘇軾のつくった『東坡易伝』は、個人的な感覚ですが、歴代の易解釈の中でもかなり個性的な注釈だと思っています。まず、易では爻の陰陽の配置(応・正・中など)の基本ルールに基づいて爻辞や彖伝などを解釈していくのですが、その基本ルールは大体どの人の解釈でも同じになっていることが多いです(陽爻は奇数の場所にあるのが、その性質に合っている/応があれば正しい相手が助けてくれるetc)。

 ですが、『東坡易伝』では、たとえば離の卦では、“「離=罹(かかる)」として、近くにあるものに附いていく様子で各爻を読むが、火は上のものに燃え移るので、それぞれの爻は上に向かって絡みついていく”だったり、井の卦では“爻の陰陽は、奇数偶数のルールから外れていても場合によっては使い途があったりするけど、井戸は水が穢れているとだめなので、その爻辞は爻の陰陽が正か否かで書かれている”、もしくは噬嗑の卦では“噬嗑とは噛み砕くこと。ここでは陰爻は間に挟まった陽爻を噛み潰そうとして、陽爻は間に挟まった陰爻を噛み潰そうとしている”、革の卦では“それぞれの爻は互いに影響を与えたり、その影響を受けたりしている(陽は影響を与えて相手を革める、陰は影響を受けて革められる)”みたいに、卦全体の意味によって六つの爻がどのように結びつくかが変わる、という解釈になっています。

 なので、爻の配置についての基本ルールは同じでも、噬嗑では噛み潰し合っていたり、萃では一つにまとまろうとしていたり、震では驚かし合っていたり……というふうに、応・比・正・中などのルールがどういう状況の中にあるかは異なる、という読み方になっています。

 この特徴は、『東坡易伝』独特の解釈だと思っていて、のちに載せる例からみても王弼注にはほとんど出てこない気がします。まぁ、剥とか夬とかの爻の形に基づいている卦のときはそれなりに爻の関係性が独特なものになったりするけど、それでも『東坡易伝』ほど多くはない印象です(他にそういう注釈があるのかもしれないけど、今のところ知らないです。ある意味では、病筮独自の卦の連環性をつくりつつあった真勢中州にも似て、その場その場での独自文脈がすごく濃いです)

 このことだけでも、王弼注が簡明な基本ルールだけにもとづきつつ象を解釈していく「大道は泛兮(ぼんやり)として……万物はこれに依って生まれてくる(老子三十四章)」のようなところがあって、『東坡易伝』が「喜怒哀楽、慮嘆変慹の、昼も夜も前にあったものに入れ代わりて……(斉物論篇)」というような雲譎波詭的な陰陽の関係、という感じがあります。

 というわけで、幾つかの爻辞を読みながら、その解釈がそれぞれどういうふうに老子的だったり、荘子的なのかをみていきます。

蠱  初六

 まずはこれからです。


初六:幹父之蠱。有子、考無咎。厲終吉。
象曰:幹父之蠱、意承考也。

初六:父の蠱を処す。子がいれば、父は咎がない。危ういことはあっても、ついには吉。
象曰:父の蠱を処すとき、意は父を承(受けついで)いる。

 この爻辞について、王弼は

 蠱の下卦は巽で、さらに初六は巽の初めにいるので、穏やかな巽の性質によって父以来の旧弊を処するのに適うものとなる。なので、このような子がいれば父にも汚名(咎)は残らない。父以来の旧弊を処するのは、始めは少し危ないこともあるが、ついには吉となる。

みたいに読んでいて、個人的には「初六は巽の初めで、穏やかな巽の性質によって父以来の旧弊を処す」というところが、清虚卑弱による保身っぽさを感じます。

 一方の蘇軾は

 蠱の弊害というのは一日にして生まれてきたものではなく、まだその小さいうちに片付けるとき、子は父の路線を改めることになる。それは初めに危ういことがあっても、ついには吉となるので、「この子がいれば、父には咎(悪いこと)がない」と云っている。もし、この子がいなかったら、父は咎められることになってしまい、孝愛の深いものはその行いは順ってないようにみえて、その心は父の意をうけついでいる

のようになっています。個人的には「孝愛の深いものはその行いは順ってないようで、その心は父の意を継いでいる」というところが、刻々流転してやまぬ変化に乗じて生きていくことを感じたりします。

 この二つの例だけでも、王弼注が慎重さと柔婉さで咎を受けずに物事を処していくような感性で易を読んでいて、蘇軾は飄忽として変転する物事に応じるための術として易をみている気がしてきます。

帰妹  初九

初九:帰妹以娣、跛能履、征吉。
象曰:帰妹以娣、以恒也。跛能履、吉相承也。

初九:“姉妹であわせて嫁ぐ”ときに妹もついていく。跛(足が悪く)ても踏んで立つことができるので、嫁ぎゆくと吉。
象曰:“姉妹であわせて嫁ぐときに妹もついていくとは、恒常のこと。跛(足が悪く)ても踏んで立てるとは、吉を承けること。

 爻辞だけ読むとかなり謎が多いところですが、まずは王弼からみていきます。

 帰妹は、上卦震(長男)と下卦兌(少女)が結婚するという様子で、年齢がかなり離れている故、つり合わない(帰は嫁ぐ、妹は少女)。古くは姉が嫁ぐときに妹も同じ相手にあわせて嫁いでいたが、その妹は幼いといっても廃してしまうわけにはいかず、それは跛(足が悪い人)でも立っていられるようなもの。なので、妹もあわせて嫁ぐのは恒常の道にかなうことで、矮小なもの(跛)でも吉を受けることになる。

 帰妹の卦は、長男に少女(正妻の幼い妹たち)が嫁ぐ様子で、初九はその妹です。幼い妹は足が悪い人でも立っていられるように、半端だからと棄ててしまうものではなく、幼いなりに付き従っているのは恒常の道にも適い、吉を受けることにもなる……という卑弱の処世(老子二十二章:曲なればすなわち全く……故に天下にはこれを争うものも無し)みたいな雰囲気があります。

 一方の蘇軾は

 帰妹の初九に「跛(足が悪く)ても立っていられる」、九二に「眇(目が悪く)ても視える」というのは、帰妹の六三で「一緒に嫁いだ妹たちを低く扱ってしまうと、妹たちがいなくなった故にみずからも嫁ぎ先から返されてしまう」とあわせて、“帰妹の六三は、初九・九二とあわせて嫁いだときに、みずからは足と目が悪くても、初九に足、九二に目のかわりをしてもらっている”ということ。

 なので、初九の爻辞で「姉妹であわせて嫁ぐときに妹(初九)もついていく。六三は跛(足が悪く)ても踏んで立つことができるので、初九も嫁ぎゆくと吉」といっていることになり、恒常的に妹(初九・九二)は姉(六三)の下についていくことになり、六三は足が悪くても立っていられるので“吉を承ける”ことになる。

みたいに書いています。この爻同士の複雑な関係が出てくるところが『東坡易伝』の特徴なのですが、今回の妹たち(初九・九二はどちらも陽爻なので、みずから動ける)が姉(六三は陰爻なので、みずからは動けない)につき従って嫁ぐ(帰妹する)様子は、雷沢帰妹のときだけに成り立つ爻の関係です。

 この複雑な関係がつぎつぎに出てくるのは

 百の骨骸、九の竅(耳目鼻口と下の二竅)、六藏の備わってある中で、私はそのうち誰と親しくしているのか。そのすべてと同じように仲が良いのか、それともそのどれかと親しいのか、そんな中で各々の部位はみな何かの臣なのか、臣だけでは治まらない故に、入れ代わりで君と臣がいるのか、それとも本当の君がいるのか……。真宰(本当の主)がいるようでも、その姿はみえず、その働きはあるのに、その形は見えない。(『荘子』斉物論篇)

のような“流行して已まないこと、奇怪にして複雑に絡み合った物事そのもの(たとえば、妹に支えられる姉など)を道”とする荘子的な雰囲気を帯びています。(老子は静を貴び、荘子は変を貴ぶとすれば、易の見方が卦によって変わる『東坡易伝』はより荘子的な複雑性と多変性があるというか……)。

 というわけで、今度はさらに卦の解釈が大きく異なっている例もみていきます。

困  上六

上六:困于葛藟、于臲卼。曰:動悔、有悔。征吉。
象曰:困于葛藟、未當也。動悔、有悔、吉行也。

王弼
上六:葛の蔓に困じて、臲卼(がたがたしたところ)に困っている。「動けば悔いることになる……」と云った後で、悔いがあるかもしれないと知って動けば吉。
象曰:葛の蔓に困じるとは、困の果て(上爻)に居るので、場所が悪いこと。「動けば悔いがある」と云って、悔いを知るとは、それでも動くと吉なこと。

東坡
上六:葛の蔓に困じて、臲卼(ごつごつと硬いもの)に困している。「動けば悔いがある、悔いがある……」と云っているが、行けば吉。
象曰:葛の蔓に困じているとは、六三と関わっていること。「動けば悔いがある、悔いがある」とは、行けば吉なこと。

 わかりづらいですが、「曰:動悔、有悔。征吉。」のところが全然違う解釈になっています。

 まず、王弼注ですが、困卦の果て(上爻)に至っては“困の極み”にある、としています。葛藟(葛の蔓)とは、困の極みにあって動けないことです。臲卼(がたがたしたところ)とは、すぐ下にある陽爻(五爻)に上六(陰爻)が乗っている故、下の陽爻は堅くてごつごつと痛くて、さらに三爻は陰なので応じて支えてくれる爻もなく、その危うさは険しい崖の岩の上に乗せられたようで……という意味です。

 そんなとき、上六は困の極みから脱するために「もし動けば悔いることがあるだろうけど……」と云った末に、それでも一通り悔いがあるのを知った上で動けば、困じ果てた状態から抜け出せて吉、という感じです。

 この慎重さは「のろのろとして冬の川を渡るようで、びくびくとして四方の敵を恐れるような(老子十五章:豫兮若冬涉川、猶兮若畏四鄰)」という雰囲気を思い出します。

 逆に蘇軾は

 困というのは彖伝で「剛が蔽われる」と云っているように、初六・六三・上六が間に挟まった陽爻を覆い隠すようにしている様子。なので、上六は六三と組んで陽爻を蔽い潰そうとしている。六三は上六を引き留めるようにして陽爻を蔽わせているので、それは葛の蔓に似ている。

 さらに、五爻は陽で、上六(陰)に蔽われることを快く思わない故に、ごつごつと突き上げてくる(臲卼)ので、上六は陽を蔽っている側だけど、実際は六三に引き留められて、九五に突き上げられて……という形で困している

 上六がここから動けないのは、今の状態をそのまま保とうとしている故で、みずからは「動けば悔いがある、悔いがある……」と云っているが、今の苦しみは動かない故のものだということに気づいていない。上爻には上から抑えつけているものがないので、困の卦から出てしまえば吉になる。

という読み方で、「物として然(良し)としない物はなく、物として可としないものはなし(斉物論篇)」のような曠達さと飄逸な感じがあるような解釈です。どうでもいいけど、蘇軾の詞で

  蝶恋花・春景
花褪残紅青杏小。燕子飛時、緑水人家繞。枝上柳綿吹又少。天涯何處無芳草。
牆裡鞦韆牆外道。牆外行人、牆裡佳人笑。笑漸不聞聲漸悄。多情却被無情悩。

花は褪せて紅は残(傷つき)青杏は小さい。燕子(つばめが)飛ぶ時、緑の水は人家を繞る。枝の上には柳の綿も吹かれては又た少くなって、天涯の何処でも芳草(春の草)はあるのだけど。
牆裡(塀の中では)鞦韆(ぶらんこ遊びで)牆の外には道があって、牆の外を行く人よ、牆の裡(内)に佳人笑(きれいな笑い声がして)。笑いは少し聞こえなくなり声は少し悄(萎れていって)、多情は却って無情な人に悩まされるのだけど。

というのがあって、この中の「天涯何処無芳草」という句は、のちに“一つのことに拘らなくても楽しみはあちこちにある”という意味で慣用表現になったりしています(『東坡易伝』って、どこを読んでも蘇軾の詩詞を読んでいるような気分になるのは、この為なんだろうね……)

萃  九五

九五:萃有位、無咎。匪孚、元永貞、悔亡。
象曰:萃有位、志未光也。

王弼
九五:萃(あつめる)ときに位がある。咎はないが、信も得られない。正大にして変わることなければ、悔は亡ぶ。
象曰:萃(あつめる)ときに位はあっても、志は未だに光らない。

東坡
九五:萃(あつめる)ときに位はあり、咎は無い……?信がないものは、始めの如く永く貞正にさせれば、悔は亡ぶ。
象曰:萃(あつめるとき)に位はあっても、志は未だ光らない。

 これもわかりづらいですが、結構読み方が違っています。まずは王弼からいきます。

 萃はあつめること。九五はその中でも最も高い位になっているので、「萃(あつめるとき)に位がある」といっている。でも、萃の九四は、初~三爻にある陰爻三つを従えているので、九五の志は叶わない。

 なので、九五にできることは“自守”して、信が得られない中でも咎無くやり過ごすだけ……。故に正大にして変わらない徳を持っていれば、悔いは亡ぶことになる。

 ……この「清虚を以てみずから守り」感が、“天下の谷となりて、常德は離れず(『老子』二十八章)”、“大国は下流なり、大国は人を併せて養いたいだけで、小国は人に仕えて養われたいと思うだけなので、その両者は各々ほしいものが手に入る故に、大なる者は下にくだる(同六十一章)”のような雰囲気を思い出します。

 これが蘇軾になると、

 萃(あつまる)は、九四・九五だけが陽で、それ以外が陰の卦九四は応じている初六、比になっている六三を引き入れる。一方、九五は応じている六二、比になっている上六を引き入れることになる。なので、萃はまだ天下が一つにまとまりきらないときをあらわしている。

 九五は萃の卦の中で、位が最も高いところではあるが、その位を恃んで九四を無視しても咎はない……と思い込んでいると、みずからの志は耀かない。ここではむしろ、位の高下を忘れて九四を重んじることで、九四も私(九五)のために動いてくれて、もともと私に従っていなかった者たち(初六・六三)は昔の如く九四を信じながらも間接的に私のために動いてくれる

 このようにすれば、私(九五)の悔も亡ぶことにつながる。

のようになっていて、陰爻の受動と陽爻の能動という基本ルールをつかいながら、萃(あつまる)という場面ではどういうふうに相互の関係が変わるかが描かれます。

 ところで、王弼の易解釈の基本的な意味が「自守」だとしたら、蘇軾の易解釈は基本的に「自取」の思想があると思っていて、

 南郭子綦は几(机)に凭れて坐り、天を仰いで噓(息をついていた)が、その姿は嗒焉(虚ろなよう)で妻を失った人にも似ていた。

 弟子の顏成子游はその前に立って「今日の様子は、なんとも形はからりと槁れた木のようで、心はひっそりと静まった灰のようですが、今の様子はいつも机に凭れていたときとずんぶん違いませんか?」と訊いた。

 子綦は「子游よ、なかなか良いことに気づいた。今、わたしは我を失っていたのだが、汝もそれに気づいたのだろうか。さて、お前は人籟(人の音)を聞いたことはあるかもしれないが地籟(地の音)を聞いたことはないだろう。そして、地籟(地の音)を聞いたことはあっても、天籟(天の音)をまだ知らないだろう」と云った。

「天の音、地の音とは何でしょうか。」

「この大塊(大きい地)が噫(おくび)をするとき、それが風となるのだが、この風というのは吹けば必ずや萬竅が怒呺する。そんなとき、翏翏として音がするのを聞いたことがあるだろう。山林の畏隹(ざわざわとゆれて)、大木の百抱えほどの穴々の、鼻に似たもの、口に似たもの、耳に似たもの、枅(ます)に似たもの、圈(盃)に似たもの、臼に似たもの、洼(窪み)に似たもの、汚(沼)に似たものなどが、激しく、謞(鋭く)、叱(荒々しく)、吸い込むように、叫ぶように、譹(泣く)ように、宎(ひそめる)ように、咆えるように鳴くのであるが、先のものがすぅぅと鳴けば、つづくものがぐぅぅと鳴いて、柔かい風は小さく和して、飄(速い)風は大きく和して、厲しい風がみな過ぎてしまうと多くの竅はただ静まっているだけなのだが、その調調刁刁(からからころころ)という音を聞いたことがあるだろうか?」

「地籟は多くの竅が風に鳴ること、人の音は竹の笙などですが、天籟というのは何でしょうか。」

「その鳴る竅はそれぞれ異なっているが、その竅たちがさまざまな音を出すときに、みずからの音を取らせていくようなもの、それが天籟なのだ」(『荘子』斉物論篇)

というときの「みずからの音を取らせていくようなもの(原文:而使其自已也、咸其自取)」という“自取”の感覚が『東坡易伝』全体に流れている気がします。

 ここでは、萃の初六・六三には元のように九四に従わせておくことが”自取“っぽいです。

 ところで、蘇軾の作品に「衆妙堂記」というのがあるのですが、“衆妙“は老子第一章の「玄之又玄、衆妙之門(奥深いものの中の奥深いものは、多くの妙なるものが出てくる門)」という万物の根源的な意味だったらしいけど、蘇軾は「一つになればもはや陋なり(一已陋矣、何妙之有)」と云っていて、「何も気にせずして出来てしまうもの(無挟而径造者也)」が衆妙……というのも、荘子化した老子っぽくていいですよね。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています