本文(屯之訟)
泥滓汚辱、棄捐溝瀆。所共笑哭、終不顕録。
注釈
坎為泥滓、為汚辱、為溝瀆、為衆、伏震為笑哭。坎為隠伏、故不顕録。(水雷屯から天水訟へ)
坎は泥滓(迭象)、汚辱(出典不明)、溝瀆(説卦伝)、衆(出典不明)。訟の互体の裏卦震は笑哭(出典不明)。坎は隠伏(説卦伝)なので「顕録せられず」。
本文(頤之師)
泥滓汚辱、棄捐溝瀆。衆所笑哭、終不顕録。
注釈
坤土坎水故曰泥、曰汚、坎為溝瀆、為衆。震為笑哭、坤賤坎隠、故曰終不顕録。
坤は土・坎は水なので泥・汚、坎は溝瀆(説卦伝)、衆(出典不明)。震は笑哭(出典不明)、坤は賤しい(純陰)・坎は隠れる(説卦伝)なので、「終に顕録せられず」という。(山雷頤から地水師へ)
本文(萃之履)
泥滓汚辱、棄捐溝瀆。為衆所笑、終不顕録。
注釈
通謙。坤水坎水、故曰泥滓汚辱。坤死、故曰棄捐。互坎故曰溝瀆。坎衆、震笑、艮為顕、在下故不顕。(沢地萃から天沢履へ)
萃から謙になるときに通じる。履の裏卦坤は水(迭象)・坎は水なので「泥滓汚辱」。坤は死(陰)、棄捐(出典不明)。履の裏卦の互体坎は溝瀆(説卦伝)。坎は衆(出典不明)、震は笑う(卦辞)、履の裏卦の艮は顕(迭象の貴?)、下に在るので「不顕」。
日本語訳
泥滓の汚辱して、溝瀆に棄捐する。笑哭を共にするところは、終に顕録せられず。
解説
泥滓は溝に溜まっている泥のことで、顕録は顕らかに録されて貴位にあることです。なんとなく雰囲気はわかりやすい詩かもです。とりあえず、卦の意味をみてみると、屯は艱難・訟は違うなので、艱難を共にしたものを溝(どぶ)に落としている、という意味でしょうか。残り二つの組合せも
頤:天地は萬物を養い、聖人は賢を養い、さらに萬民に及ぼす
師:そうして天下を毒(使役して)民はそれに従う
萃:萃、聚也(澤が地の上に集まっているような)
履:上天下澤を、履という。君子はその天と沢が分かれるように上下を辨じて、民志を安んじる
というように、どちらも穏やかに並んでいた状態からやや厳しく秩序に収められる様子で、そのときに締め出されたり、切り落とされるものが居ることです。
余談
このブログでよくアイキャッチ画像に出てくる八大山人(明末清初の書家・画家)の号は、「笑之」あるいは「哭之」を崩して重ねて「八大山人」としているとも云われていて、哭くに哭けなくて笑うに笑えない感情の鬱屈して枯れたような感じをあらわしている(らしいです。)
(八大山人は明の皇家出身なので、明が滅んで清になると僧になったり道士になったりして身を隠すように生きていて、その絵はそんな自分への悲哀とも嘲笑ともつかない思いが入っているという意味です)