創作・エッセイ

『左伝』の占い師たち

『春秋左氏伝』にはかなり不思議な易の占例が多くでてきて、その中には今からみるとどのように読んでいるのか分かりづらいものも含まれている気がするので、そのことについての記事です。『左伝』の占いには「古易活法」という読み方があるとされていて、

外卦が変わるときは外卦の本之卦を、内卦が変わるときは内卦の本之卦をそれぞれ解釈の中心に置く

とされているのですが(これだけだと小成卦に注目する読み方の一種と云えるかも)、実際の『左伝』の占例ではそれ以外の読み方も混ざっていて、ある意味それぞれの個性を感じるような気がするので、それを書いていきます。

 まず、初めに基本的な古易活法で占った例をみてみると

 今迄の住居がだんだん不便をかんじるようになったので、どこか良い処に遷りたいと探していた松林富子さんのところへ、周旋屋が手頃の話を持込んで来たので、「そこへ移った方がよいかどうか」一筮した松林さんは、

元卦:山沢損
之卦:雷天大壮

 右の卦を得て、「値に於て多少高いとは思うが、今損(元卦)をしても、新居(之卦)に移れば、土台がしっかり(兌変じて乾となる)してよくなる」と判断して移転したそうです。繋辞伝に「棟を上にし、宇を下にし風雨を待つ、蓋し諸(これ)を大壮に取る」という辞があるのを用いたのは云うまでもありません。
 その後、従来の狭い家から広い暢々とした明るい家になったせいか、子供さん達も非常に喜んでいるとのことです。(紀藤元之介『易学尚占  活断自在』245頁)

などがあって、(『左伝』のときは変爻が一つの例が多いのですが、紀藤先生は同書の中で小成卦がどのように変わるかを重んじる解釈を載せていて、ここでも兌:湿地が乾:乾くのように読んでいます)、繋辞伝を解釈に入れるのは結構珍しい気がするけど、「古易活法」的な読み方がどういうものかは何となくわかります。

 というわけで、『左伝』の占い師たちの混沌とした読み方をみていきます(この記事で書いたほど複雑でない占例も『左伝』にはありますが)。

卜徒父

 まずは、僖公十五年にでてきた秦の占い師 卜徒父です。

晋饑、秦輸之粟、秦饑、晋閉之糴。故秦伯伐晋、卜徒父筮之、吉。涉河、侯車敗、詰之、対曰「乃大吉也。三敗、必獲晋君。」其卦遇蠱、曰「千乗三去、三去之餘、獲其雄狐。夫狐蠱、必其君也。蠱之貞、風也;其悔、山也、歲云秋矣、我落其実、而取其材、所以克也、実落材亡、不敗何待。」(『左伝』僖公十五年)

 晋で饑饉があったとき、秦は食べ物を送っていたが、秦で饑饉があったとき、晋は食べ物を閉ざして送らなかった(その前にも秦穆公は、晋の恵公のために兵を送ったりしているのに、その返礼がいつまでも無いなどのことがあった)。なので秦の穆公は晋を攻めることになり、卜徒父にそのことを占わせると吉だった。

 河を渡り、晋公の車が壊れたので、卜徒父にそれはどういうことかと聞くと、卜徒父は「それはどうやら大吉です。三たび壊れる頃には、必ず晋君を獲るでしょう」と云い、その卦は蠱だったので、
「千乗の車(晋)が三たび下がり、三たび去れば、その雄狐(大狐)を獲るでしょう。その狐の蠱とは、必ず晋公のことでしょう。蠱の貞(内卦)は風、悔(外卦)は山ですが、季節はいま秋ですから、秦(内卦:風)はその実を落とし、その山の木を伐るので、秦が勝つことになり、実が落ちて木が亡ぶと、敗れないなどは有り得ずでしょう。」

 これはちょっと系図がないとわかりづらい話なのですが、秦の穆公は晋の恵公の即位を援けるために兵を送ったり、饑饉があったときは食べ物を送ったりしていたのに、晋はその返礼をしなかったり、秦の饑饉を助けなかったりしたので、秦が攻め込んで……という流れで、その秦穆公に従っていたのが卜徒父です。

 まず、いきなり古易活法から外れるのですが、山風蠱の内卦(こちら側、秦)は風、外卦(向こう側、晋)は山になる……と読んでいるのがみえます(ここまではふつうの易でも出てくる占い方。ちなみに内卦を貞・外卦を悔というのは、外卦は後から重なるように出てくるので末期に至って悔いがあることに譬えたものらしいです)。

 もっとも、卜徒父の独特なのは、「今の季節は秋。秋は風が山の木々を散していく季節」という読み方をしているところです(これについては、卜徒父は「卜」とつくので亀卜には通じていたけど、易はあまり知らなかったので、その他の雑占を混ぜて読んでいるという説もあったりする。まぁ、あまり気にしないでいきます)。

 この季節を重ねる読み方は、さきにあげた紀藤先生の本で

水雷屯:苦労多くとも試練に堪えれば、仕甲斐ある時とし、春この卦を得れば三カ月隠忍すれば吉とし(春雷は、坎の三爻を抜けて外に出る?)、夏得れば障げ特に激しいとし(夏は雷が強い季節なのに、それを抑えるものがある?)、秋これを得れば他の助力があるとし(衰えに向かう季節に新たに涌いてくるものがある?)、冬これを得れば前途光明とし(今はまだ冬だけど、いずれ雷の如き力を蓄えて出ようとする?)、土用にこれを得れば中途挫折の惧れがある(土が多くて雷は外に出られない?)と見る。(紀藤元之介『易学尚占  活断自在』117~118頁)

水地比:春得れば他の人のために骨身を削ることが多いとし(地上の沼の水は、春の草に吸われる?)、夏得れば人の協力を得てうまく辷り出せるとし(既に育った草が多い?)、秋得れば消極的に処する方がよいとし(九五が五陰の望みを担って指揮するけど、すべて任されがちなので遅滞する卦なので、秋の草は生機がなく率いて大きいことをするのは良くない?)、冬得れば阻害を受ける(雪が降って水は凍り草は枯れる?)、土用に得れば思う事積極的に進めてよいとする(水を支える地は豊かなので、大いに動くとき?)。(同書152頁)

みたいにあるのも通じている気がするので、季節と卦の相性を読むのもありだと思います。

史蘇

 つづいては、同じく『左伝』僖公十五年に出てくる史蘇の占例です。

初、晋献公筮嫁伯姬於秦、遇帰妹之睽、史蘇占之、曰「不吉。其繇曰:士刲羊、亦無衁也;女承筐、亦無貺也。西鄰責言、不可償也。帰妹之睽、猶無相也、震之離、亦離之震、為雷為火、為嬴敗姬、車説其輹、火焚其旗、不利行師、敗于宗丘。帰妹睽孤、寇張之弧、姪其従姑、六年其逋、逃帰其國、而棄其家。明年、其死於高梁之虚。」(『左伝』僖公十五年)

 初め、晋の献公が穆姬を秦に嫁がせるべきか占って、帰妹之睽に遇った。史蘇はそれを占って、
「不吉です。爻辞にも「士が羊を刲(割けば)、衁(血)が出てこず。女が筐(竹かご)を持っていても、貺(賜るもの)がない」とあります。西の鄰はきっと責めて、答えることもできないでしょう。帰妹の睽に之くときは、助けてくれるものがなく、震が離になれば、離も震になって、雷になったり火になったりで、嬴氏(秦)は姬氏(晋)を敗るでしょう。もし争えば、車は輹が抜け、火は旗を焚き、兵を出すのに利はなくて、宗邑の近くの丘で敗れるでしょう。帰妹すれば睽孤(背きて孤りになって)、寇(あだなすもの)はこちらに弧(弓)を張り、姪(甥)が姑(秦に嫁いだ穆姫)に従っても、六年で逃げてきて、晋に逃げ帰り、家を棄てることになるでしょう。あと、明年、高梁のあたりで死ぬらしいです。」

 ……一気に謎なのですが、とりあえず帰妹の上六だけが変わると睽になるので、その爻辞をみてみると

上六:女承筐、无実;士刲羊、无血。无攸利。
女が筐(竹かご)を持っていても、中身はない。士が羊を刲(刺しても)、血が出てこない。利はない。

のようになっているので、贄にする羊を刺しても血が出てこなかったり、供え物を入れる籠に中身がなかったり……という不吉さみたいです。上六は帰妹のもっとも外れに居て、上から何かを貰えるわけではないので、かごの中身は空、帰妹の六三とも応じていないので、刺しても血が“応じない”みたいになってます。

 それを少し形を変えると『左伝』の文のようになるのですが、この様子を婚儀は不吉な雰囲気になることの喩えとして使っています。「西の隣が責めてくる、答えられない」は秦が西にあって責めてくる様子なので、特に易とは関係ないけど、婚儀が不吉なので責められるというつながり、「助けてくれるものがない」とは睽(背く)からの派生です。

「震が離になれば、離も震になる」はちょっと不思議な解釈で、さきにあげた古易活法では雷沢帰妹から火沢睽だと、「震が離になる」はあるけど、その震がさらに離になるとは読んでないので、史蘇はたぶん変爻があって変わるときは本格之卦ふたつの小成卦が混ざるように出てくると読んでいた感があります。なので、もし背いた後に秦と争えば、車は車輪が毀れ(震は動くもの・車)、火は旗を焚き、援けてくれるものがないこちらは敗れる、です。

 さらに、史蘇は之卦の爻辞も読みに入れていて、睽の上九は

上九:睽孤、見豕負塗、載鬼一車、先張之弧、後説之弧、匪寇婚媾、往遇雨則吉。
睽(背いて)孤りでいる。豚が泥まみれになっていたり、鬼をどっさり積んだ車を見る。先にはこちらに弓を張り、後にはその弓を緩める。婚儀を寇するわけではなく、雨に遇えばいいことがある。

のようになっています。睽は背くことですが、上九は特に背き合うときの極みに居て、豚が泥まみれになっていたり、鬼を満載した車を見るように思いがけない目にあって、人はわたしに弓を向けてきたりするけど、それは私と人の気持ちが背き合っているときだから。そのときが終れば弓を緩めてくれるので、わたしの婚儀を邪魔しようというのではなく、雨に遭うような災難を一度経れば吉になる……という意味らしいです。

 史蘇はそれを縮めて「寇なすものは気持ちが背き合っているときにこちらに弓を張り……」という形で使っています(それが済んだ後のことは入れていない)。最後のほうにある「姪(甥)が姑(秦に嫁いだ穆姫)に従えば……」という部分は、さらにその争いの後におそらく晋の公家の子を秦に置くことになる話で、上にのせた系図だと太子圉(のちの晋懐公)が秦に置かれて抜け出す話がそれにあたるのですが、これは易の象意で占ったものではないので置いておきます。

 史蘇の占い方は、爻辞を本之卦どちらも読んだり、変爻があるときは本之卦両方の小成卦が絡んできたり(しかも本之卦の爻辞に重なるように解釈に入れている)するのが独特で、強いていうなら本之卦全体の意味の中に、無理やり色々なものを捻って重ねて詰め込むような感じがあります。

周史

 つぎは荘公二十二年に出てくる周史(周の史官)の占例です。

陳厲公、蔡出也、故蔡人殺五父而立之、生敬仲、其少也、周史有以周易見陳侯者、陳侯使筮之、遇観之否、曰「是謂観國之光、利用賓于王。此其代陳有國乎?不在此、其在異國、非此其身、在其子孫、光遠而自他有耀者也。坤、土也;巽、風也;乾、天也。風為天於土上、山也、有山之材、而照之以天光、於是乎居土上、故曰観國之光、利用賓于王。庭実旅百、奉之以玉帛、天地之美具焉、故曰利用賓于王。猶有観焉、故曰其在後乎。風行而著於土、故曰其在異國乎。若在異國、必姜姓也。姜、大嶽之後也、山嶽則配天、物莫能両大、陳衰、此其昌乎。」及陳之初亡也、陳桓子始大於斉、其後亡也、成子得政。(『左伝』荘公二十二年)

 陳の厲公は、蔡侯の娘を母としていて、蔡の人は陳佗を殺して厲公を立てた。厲公は敬仲を生み、その若いときに、周の史官で周易に通じていたものが陳の厲公に謁えたので、厲公は敬仲のことを占わせて、風地観が天地否になった。周史はいう

「これは『国の光を観る、王の賓となるのに良い』卦です。きっと陳に代わって国を有することになるでしょう。それはここではなく、きっと異国。この子の身ではなく、その子孫に於てです。光は遠くから来て耀くもの。坤は土、巽は風、乾は天ですが、風は土の上で天になります。山(観の互体艮。変爻の四爻は艮の主爻でもある)があるので、山の木(互体艮の上にある巽)もあり、その木に天の光(乾)が照らせば、その木は土の上に居て、故に「国の光を観る、王の賓となるのに良い」です。庭(互体艮は門庭)を盈たす貢ぎ物は百もあって、奉じるに玉(乾)や帛(坤)を以てしますが、天地の美は全てそこに在るほど、なので「王の賓となるのに良い(ほどの富がある)」です。それをこの子は観ているとすれば、それは「後の世のこと」になるでしょう。風は行きては土に落ち着くので、故に「異国にてのこと」です。さてどの異国かと云いますと、必ず姜姓の国でしょう。姜は、大嶽(山を祀る官)の後裔で、山嶽は天に並ぶほど高く、物はそれと並んで大きいものはないので、陳が衰えれば、その子の家は盛んになるでしょう。」

 果して、陳が一度亡んだとき、陳桓子(敬仲の子孫)は斉で大きくなり始め、さらに二度目に亡んだとき、その子孫の成子は宰相になった。

 ……とりあえず、小成卦を多用する読み方なのはわかります。ただ、結構いろいろなものが混在しているので少しずつみていきます。

 まず、互体艮が多く出てくるのが特徴なのですが、変爻は四爻で、艮の主爻(その小成卦の特徴となる爻。乾坤は真ん中、震巽は下、坎離は真ん中、艮兌は上です)になっています。また、四爻は五爻(王)に次ぐ位なので、「国(周)の光を観る」ような諸侯になる……です。

 そして、最も特徴的な小成卦の組み合わせなのですが、まず巽を風、乾を天、坤を地、艮を山とする読み方だと(古易活法も含めてます)、地の上を風が吹いていって、天まで上る様子です。さらにその間には互体艮の山があります。そして、巽は木でもあるので、艮の上にある巽は山の上にある木でもあって、それが天の光(乾)を受けて育っているようにもみえます。乾は王の意味もあるので、王の光を受ける四爻(諸侯)という読み方もできます(これは何となくぼんやりしている)。

 さらに、艮を門としたとき、艮には閉ざして囲うものという意味もありますから(坎も近いけど、どちらかというと坎は水が溜まっていてごつごつ痩せている感じがある)門庭みたいになって、それが乾・坤を兼ねるようにある様子から、乾(玉)と坤(帛)が艮の中にあると読めば、貢ぎ物がたくさん庭に置かれているようにもみえます(小成卦を二通りの読み方をしている)。それくらいの富があるので「王の賓となるのによい」が再度絡んできます(こういう使い方をするか……と驚くけど)。

 風が異国にて土の上に落ち着く……は、初めの小成卦の意味に戻っていて、さらに「観るというのは、他の人がそうしているのを観る」と「艮は山で、山に関する異国は、山を祀る官の後裔にあたる姜姓の国」は一種の字謎みたいな読み方です。

 姜姓云々については『左伝』特有の予言的な読み方だから置いておくけど、小成卦を色々な意味で取って重ねていったり(大象伝的な古易活法をさらに複雑化しているような雰囲気です)、変爻が主爻になっていればそれを重く読んだりしているのが独特だったりします。

卜楚丘

 というわけで、もっとも謎に満ちている卜楚丘なのですが、占例はこんな感じ(既に何回か載せているけど)。

初、穆子之生也、荘叔以周易筮之、遇明夷之謙、以示卜楚丘、曰「是将行、而帰為子祀、以讒人入、其名曰牛、卒以餒死。明夷、日也。日之数十、故有十時、亦當十位、自王已下、其二為公、其三為卿、日上其中、食日為二、旦日為三、明夷之謙、明而未融、其當旦乎、故曰為子祀。日之謙當鳥、故曰明夷于飛。明之未融、故曰垂其翼象。日之動、故曰君子于行。當三在旦、故曰三日不食。離、火也、艮、山也。離為火、火焚山、山敗、於人為言、敗言為讒、故曰有攸往、主人有言、言必讒也。純離為牛、世乱讒勝、勝将適離、故曰其名曰牛。謙不足、飛不翔、垂不峻、翼不広、故曰其為子後乎、吾子亜卿也、抑少不終。(『左伝』昭公五年)

 初め、叔孫穆子が生まれたとき、荘叔は周易でその子の一生を占って、地火明夷から地山謙になった。それを卜楚丘に示すと、卜楚丘は云う

「これは出て行くことがあって、そのあと帰ってきてあなたの後を嗣ぐのですが、讒人を引き入れることがあって、名を牛と云うでしょう。あと、終いには餓死します。

明夷は太陽なのですが、一日は十に分かれていて、故に十の時があります。それを十の位にあてますと、王より以下、二つめを公、三つめを卿と云いまして、日が真ん中に上るときもあり、食べるときを二つめ、朝の日を三つめとして、明夷が謙に之くのですから、明るいけど未だ融(明るく)ない、それはきっと旦(朝)でしょう、なので「あなたの家を嗣ぐ」としてます(それほど悪いことにはならない意)。

日は鳥でもありますから、故に「明が痍(きずついて)飛んでいく」と云います。明がまだ融(明らか)でない、なのでその翼を垂れる象があります。日は動きますから、「君子は旅行く」です。三つめの日は旦ですから、故に「三日(朝)はまだ食べていない」です。

離は火、艮は山ですが、離の火が山を焚けば、山は敗れ、人には言があるとすれば、敗れている言は讒言、なので「往くところがあれば、主人は言あり」と爻辞に云って、それは必ず讒言です。純離は卦辞から「牛」の意があり、世が乱れれば讒が勝ち、讒が勝てば離(火)に傾きますから、故にその名を牛と云います。謙は足りず、飛んでも翔(のびやか)ならず、垂れる翼は不峻(力無く)、翼は不広(大きからず)、故に「あなたの後を嗣いで、卿に次ぐことになりますが、あぁでも終わり方がよくないでしょう」と云うのです。」

 まず、明夷は明るいものが痍(やぶれている)なので、それほど明るくない様子、謙は抑えられている様子なので、この子の一生はそれほど明るいものではない(めちゃくちゃ暗いわけではないけど……)としています。これが全体の基調になります。このときは初爻変なので爻辞はこんな感じです。

初九:明夷于飛、垂其翼。君子于行、三日不食。有攸往、主人有言。
明は夷(やぶれて)飛んでいく、その翼を垂れる。君子は于行(旅する)、三日食ぜず。往くところがあれば、主人には言がある。

 卜楚丘の占例の独特さは、この爻辞の読み方だったりします(小成卦を使ったり、習俗から連想したりする)。

 この「一日を十にわけると、日の高さによって三番目に高いのが朝……」というのは、どういう意味か不明というのが近いらしくて、当時の習俗みたいなものらしいです。とりあえず、朝(爻辞の「三日」)は明るいけどそれほど明るくないので明夷之謙に近い雰囲気です。

 離は日(太陽)でもあり鳥(説卦伝:雉)でもあり、爻辞の「明夷于飛」は日(鳥)は敗れながら飛んでいく……みたいになります。鳥はそれほど明々と飛べないので「翼を垂れて飛ぶ」になります。

 明夷の日(鳥)は飛んでいくので、そんな感じで「君子は旅する」、「三日(朝)」はまだ何も食べていないので、「三日不食」。(この辺はけっこう妖しい解釈かも)

 最後の「主人有言」については、古易活法を使って、離(火)と艮(山)が並んでいると、火は山を燃やすので、艮(説卦伝に「言を艮に成す」とある)は敗られることになって、言(艮)が傷ついているのは讒言のような言、ちなみに離為火の卦辞に「牝牛」とあるので艮を敗るもの(言を敗るもの)の離は「牛」という名かもしれません、らしいです(これは予言的だけど)。

 というわけで、全体をまとめると「謙は足りず、飛んでも翔(のびやか)ならず、垂れる翼は不峻(力無く)、翼は不広(大きからず)、故にあなたの後を嗣いで、卿に次ぐことになっても、終わり方がよくない」です。

 全体的に色々わかりづらいけど、六十四卦の意味で大体の解釈を出して、そこに当時の習俗による連想や、小成卦を組み合せた解釈を入れているらしいです。「名は牛……」については字謎的な読み方です。

『左伝』の占い師たち

 というわけで、それぞれの占い方をひと通りみてきたのですが、この四人が同じ卦を占ったらどうなるのか、というのを再現してみます。せっかくなので、2023年の誕生日から一年間の運勢を占ってもらいます。出てきた卦と爻辞はこんな感じ。

本卦:水天需
之卦:水沢節

需  九三:需于泥、致寇至。
泥の中で待っている、寇の至るを致す。

節  六三:不節若、則嗟若、无咎。
不節若(節していないと)、嗟若(嗟くことになる)。咎なし。

卜徒父
五月に筮して得ているので、今の五月は旧暦で夏の初めの恢怠たるとき、陽いよいよ熾んにして炎熱裡に雨を求める象。ほどよいときに雨が降る様子。(季節読み)

史蘇
雩(あまごい)をして雨降り過ぎる象なり。節若たらざれば則ち嗟若として、泥に需っていると寇雨を致す。咎无しと雖も溺々たり。(本之卦の爻辞を入れる、古易活法の小成卦を混ぜるようにして爻辞を飾る)

卜楚丘
雨を需つと、ほどよく雨降りて、水は沼沢に満ちる様子。雨を需つときは楽を奏して祭壇に牲を陳べて神を饗なすべきもの。壇を立てるのは危ういところ(水の近く)なので、水怪水魅多くして、上帝にも通じ易く、誤れば則ち寇を致す。(六十四卦の意味と習俗や風景による連想、連想による爻辞解釈)

周史
巫舞繽々なり。雩祭に巫多くして、華裳繽紛(離)、衍聲縵々(兌)として、その祭りの副巫になって吉(三爻は互体離・兌の主爻ではないので)。その舞陰麗にして溺々たり。(大象伝的な読み方で、互体や変爻も含めて感じる)

 ……どれも当たっている気がいる(ソーラーリターンと重なる面がある)。卜楚丘については、初めて読んだとき、いい加減なことばかり云っているみたいに思っていたけど、改めて読んでみると、むしろみずからの中の全ての知識や感覚、感情を入れて読んでいる気がして、“占いらしい占い”というか、その頃の占い師って、こんなにも想像力も詩才も豊かだったのか、と驚いたりしてます。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています