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芸術と気の質感

『後漢書』伏湛伝に

永和元年、詔無忌與議郎黄景校定中書五経・諸子百家・芸術。
永和元年に、伏無忌と議郎黄景を召して中書の五経・諸子百家・芸術を校定させた。

とあります。中書は内中(宮中)の書、芸は書・数・射・御、術は医・方・卜・筮らしいです。芸のうち、書については衛恒「隷勢」(『晋書』巻三十六 衛恒伝より)に

随事従宜、靡有常制。或穹隆恢廓、或櫛比鍼列、或砥平縄直、或䖤蜒膠戻、或長邪角趣、或規旋矩折。修短相副、異體同勢。奮筆軽挙、離而不絶。繊波濃點、錯落其間。若鍾簴設張、庭燎飛煙。嶃巌𡽱嵯、高下属連。似崇臺重宇、増雲冠山。遠而望之、若飛龍在天、近而察之、心亂目眩。奇姿譎詭、不可勝原。

事に随いて宜しきに従い、常制なくして、或いは穹隆(大きく開けて)恢廓(がらんとして)、或いは櫛のように比(並んで)鍼のように列して、或いは砥(といし)のように平らかで縄のように直(まっすぐで)、或いは䖤蜒(うねうねとして)膠戻(ぎゅるぎゅると回り)、或いは長く邪(斜めって)角(かくりと)趣き、或いは規のごとく旋(円く)矩のごとく折れ、修短は相い副いて、異體は勢を同じくするので、筆を奮いて軽く挙げれば、離れても絶えず。繊波の濃(重く)點じて、その間に錯落たり。もしくは鍾や簴(鍾台)の設張されて、庭燎は煙を飛(揚げる)。嶃巌として𡽱嵯として、高下は属(続き)連なりて、崇台重宇の雲を増して山を冠するに似て、遠くからこれを望めば、飛龍の天に在るようで、近くでこれを察すれば、心は乱れ目は眩めいて、奇姿は譎詭にして、不可勝原(尋ねるにたえず)。

術のうち、医(あるいは方)については『荘子』応帝王篇に

鄭有神巫曰季咸、知人之生死存亡、禍福寿夭、期以歲月旬日、若神。鄭人見之、皆棄而走。列子見之而心酔、帰以告壺子、曰「始吾以夫子之道為至矣、則又有至焉者矣。」壺子曰「吾與汝既其文、未既其實、而固得道與?衆雌而無雄、而又奚卵焉。而以道與世亢必信、夫故使人得而相女。嘗試與来、以予示之。」明日、列子與之見壺子。出而謂列子曰「嘻。子之先生死矣、弗活矣、不以旬数矣。吾見怪焉、見湿灰焉。」列子入、泣涕沾襟、以告壺子。壺子曰「郷吾示之以地文、萌乎不震不正。是殆見吾杜德機也。嘗又與来。」明日、又與之見壺子。出而謂列子曰「幸矣。子之先生遇我也。有瘳矣、全然有生矣。吾見其杜権矣。」列子入、以告壺子。壺子曰「郷吾示之以天壌、名實不入、而機發於踵。是殆見吾善者機也。嘗又與来。」明日、又與之見壺子。出而謂列子曰「子之先生不斉、吾無得而相焉。試斉、且復相之。」列子入、以告壺子。壺子曰「吾郷示之以太冲莫勝。是殆見吾衡気機也。鯢桓之審為淵、止水之審為淵、流水之審為淵。淵有九名、此處三焉。嘗又與来。」明日、又與之見壺子。立未定、自失而走。壺子曰「追之。」列子追之不及、反以報壺子、曰「已滅矣、已失矣、吾弗及也。」壺子曰「郷吾示之以未始出吾宗。吾與之虚而委蛇、不知其誰何、因以為弟靡、因以為波流、故逃也。」

鄭の神巫に季咸という者がいて、人の生死存亡・禍福寿夭を知って、歲月旬日まで期(当てていて)、神の如しとされていた。鄭の人はこれを見ると、(その術を怖れて)皆な棄てて走るほどだった。
列子はこれを見て心酔して、帰ってきて壺子に告げていう
「始め私は夫子(壺子)の道を至上のものと思っていましたが、それよりも上を行くものがありました。」
壺子はいう「私はお前にその文(上辺)を見せたかもしれないが、まだその中身を見せていない、それなのにもう悟った気えいるのか?雌鳥は多くても雄鳥がいないと卵は孵らないというけれど、道をふりまわして世と亢(抗って)必ず信ぜられようなんて思っているから、そもそも人から相(見抜かれているのだ)。試しにその者とともに来て、私に会わせてみよ。」

明日、列子は季咸とともに壺子に会った。季咸は家を出ると列子にいう
「嘻(ああ)。きみの先生は死ぬかもしれない、活きられない。きっと旬数(十日)も持たないだろう。私はこれをみて怪しんだが、湿った灰のようだ。」
列子は入って、泣涕(泣いては)襟を沾(濡らして)壺子にいう。壺子は
「私がさきに示したのは地文というもので、萌乎(ぼんやりとして)震えず正しからず、これは私の杜德機(徳:働きを杜:閉ざす、機:とき)を見せたのだ。さて、もう一度つれて来い。」

明日、また季咸と列子は壺子に会いに行くと、季咸は出ていう「幸矣(よかった)。きみの先生は私に遇った甲斐あって、瘳(いえる)ところも有り、全然として生気がある。私はその杜(閉ざしたもの)が権(現われる)様子がみえた。」
列子は入って、壺子に告げると壺子は
「さきに私が示したのは天壌の相というもので、名実などはまだ出てこないうちの、それでいて生機は踵より発しているもので、これによって私の善者機(善い働きのとき)をみたのだ。さて、明日もつれて来い。」

明日、また季咸をつれて来て壺子を見せると、季咸は出てきて列子にいう
「きみの先生は不斉(あれこれ落ち着かない)、私はこれでは無得而相(みられない)。もう少し斉(落ち着かせてから)、また相(みることにしよう)。」
列子は入って壺子に告げると、壺子は
「私が見せてやったのは太冲莫勝というものだ。これによって私の衡気機(どこまでも鈞り合った気)をみたのだ。鯢桓(渦巻く)審(水の聚まり)が淵を為したり、止まった水の審(聚まり)が淵を為したり、流れる水の審(聚まり)が淵を為したりするが、淵というのは九つあって、これはその三つなのだ。さて、明日もつれて来い。」

明日、また季咸をつれて来ると、壺子の前に立って定らないうちに、自失して逃げ出した。壺子は「追え。」といって、列子は追いかけたが追いつかず、戻ってきて壺子に「已滅矣(どこかに行ってしまいました)、已失矣(見失いました)、追いつけないほどでした。」という。壺子は「さきに私は未だ始めて吾が宗を出でざる相をみせたのだ。私はこれと共に虚となって委蛇(ふらふらとして)、誰が何であるかも知らず、よって弟靡(どろどろだらだらとして)、波に流されるようだった。それゆえ逃げていったのだ。」

とあります。また、より創作的な芸術については

徐渭
八大山人

徐渭:縦横跌宕
八大山人:蒼勁圓秀、滋潤不安

など、連綿字(中国の擬音語・擬態語)であらわされることが多くて、連綿字は擬態語なので質感を音にしてあらわしています(日本語でいうと、もやもや、どろどろ、ぬるぬる、ぎとぎとなど)。

 また、中国ではその絵や書、詩などの作風をあらわすときに“気”という字をよく使っていて(気韻・気象・気勢など)、さきの連綿字を合わせて、気韻沈雄(深く重みがある)・気勢磅礴などとも書いています。

 そうなると、この気象(あるいは気韻・気勢・気品・気氛など)は作品に漂っている一種の質感(あるいは雰囲気・空気感のようなもの)という意味になりそうです。

 あと、卜筮に長じた人たちの伝記は、さきにあげた『後漢書』では方術伝(巻八十二)でしたが、『三国志』では方伎伝(伎は技と同じ)、『晋書』では芸術伝と呼ばれていて、方(方術:ふしぎな技のこと、燕斉の方士たちが用いる神僊術などに近い)、卜筮(易以外の占いも含む)などは全体的に芸or術or方などという字であらわされています。

 そうなると、芸・術・方などの様々な技(伎)は、すべて気の質感をもとにして感じるという点でつながっていて(易も陰陽の気がどのように混ざり合っているかという占いなので)、それを八卦や六十四卦で分類しているのですが、その分け方も色々とあって、

蔡中郎曰「筆軟則奇怪生焉。」余按此一「軟」字有獨無対、盡能柔能剛之謂軟、非有柔無剛之謂軟也。(劉熙載『芸概』巻五「書概」より)

蔡邕はいう「筆軟らかければ、奇怪生ず。」私が按ずるに、これは「軟」字は一つだけあって対が無いので、柔にもなって剛にもなることを「軟」といい、柔はあるけど剛はないことを「軟」としていないらしい。

と云ったり、

漢碑蕭散如「韓敕」「孔宙」、厳密如「衡方」「張遷」、皆隷之盛也。若「華山廟碑」、旁礴鬱積、瀏灕頓挫、意味尤不可窮極。(同上)

漢の碑は蕭散(さらさらと散っていくようなのは)「韓敕(礼器碑)」「孔宙碑」、厳密(がっちりと固いのは)「衡方碑」「張遷碑」などがあって、皆な隷書の盛りである。その中で「華山廟碑」のようなのは、旁礴(広がるようで)鬱積(重く溜まり)、瀏灕(痛々しく流れ出るようで)頓挫(くぐもっていて)、意味はどこまでも不可窮極(窮まらないもの)。

と云ったり

花鳥纏綿、雲雷奮發、弦泉幽咽、雪月空明、詩不出此四境。(劉熙載『芸概』巻二「詩概」より)
花鳥の纏綿たる、雲雷の奮發、弦泉の幽咽、雪月の空明、詩はおよそこの四境を出でず。

と云ったり、それをさらに細かく「雄渾・冲淡・繊穠・沈著・高古・典雅・洗煉・勁健・綺麗・自然・含蓄・豪放・精神・縝密・疏野・清奇・委曲・実境・悲慨・形容・超詣・飄逸・曠達・流動」などの二十四に分けたり(司空図『二十四詩品』)しています。

 ところで、『荘子』応帝王篇の壺丘子林と神巫季咸の話で「淵には九名あり(淵有九名)」といったとき、杜徳機・善者機・衡気機というのを整理してみると、

杜徳機:地文、萌乎不震不正(ぼんやりとして震えず正しからず)
善者機:天壌、名實不入而機發於踵(天地すでに分かれて一気おこる姿)
衡気機:太冲莫勝(大いなる沖淡さの中で相剋が起らなくなった冲しさ)

のようになっていて、九といえば九宮図(八卦に中央を加えたもの)を想い出すのですが、九宮図の形にしてみると、おそらく

のような形になると思われます(面倒臭がって手書きですみません……)。この太冲莫勝を『二十四詩品』にすると冲淡になり、

  冲淡
素処以黙、妙機其微。
飲之太和、独鶴与飛。
猶之恵風、荏苒在衣。
閲音修篁、美曰載帰。
遇之匪深、即之愈希。
脱有形似、握手已違。

素処(そのままで居て)黙っており、妙機は其れ微なもの。
これを太和の気から飲んで、独りの鶴がともに飛ぶ。
これは恵風(おだやかな風のようで)、荏苒(ゆったりとして)衣に入る。
音を修篁(深い竹林に)閲(聞けば)、美しくしてそうして帰るような
これに遇っても深いものではなく、これに即(近づけば)いよいよ希(みえないもので)
脱けていっては形で似ているものがあり、手に握ればすでに違(逃げている)。

となっていて、

などのように無理やり重ねていくこともできます。ただ、『二十四詩品』には委曲・自然・実境などの表現の様式にかかわるものが含まれています。それで思い出すのはロラン・バルトの『旧修辞学便覧』で“中世ヨーロッパでは、論理学・文法学・修辞学が一つになっていた”というもので、この表現の様式の形容詞は論理の形がどうなっているか、その空間がどのように拗れたりゆがんでいるかと関わっている気がするので、その例をみていきます。

 周邦彦と姜夔は、宋代の詞の大家なのですが、その作風についてはこんな評があります。

美成楽府、開闔動蕩、獨有千古。南宋白石・梅谿、皆祖清真、而能出入変化者。(清・陳廷焯『詞壇叢話』)
美成(周邦彦)の詞は、開闔動蕩(大きく開いたり閉じたり広がりがあって)、獨り千古のものであり、南宋の白石(姜夔)・梅谿(史達祖)などは、皆な清真(周邦彦)を祖としていて、それでいて出入して変化させている者。

白石詞以清虚為體、而時有陰冷処。(陳廷焯『白雨齋詞話』巻二)
白石(姜夔)の詞は清虚を以て體としていて、それでいて時おり陰(暗く)冷たいところがある。

 個人的には、この「開闔動蕩」「清虚を以て體として」は表現の様式にかかわる印象だと思っていて、その例を幾つか作品からみていきます。

 まず、周邦彦はもっとも有名な部類の「蘭陵王・柳」(蘭陵王は曲名、柳は題)。

  蘭陵王・柳
柳陰直、烟裡絲絲弄碧。隋堤上、曾見幾番、拂水飄綿送行色。登臨望故国、誰識京華倦客。長亭路、年去歳来、応折柔条過千尺。
閑尋旧踪迹、又酒趁哀弦、灯照離席。梨花榆火催寒食。愁一箭風快、半篙波暖、回頭迢遞便数驛。望人在天北。
凄惻、恨堆積。漸別浦縈回、津堠岑寂。斜陽冉冉春無極。念月榭携手、露橋聞笛。沈思前事、似夢里、泪暗滴。

柳の陰を直(見遣れば)、烟の内に絲絲(絲ごとに)碧を弄ぶ。隋の堤の上では、曾て幾番(何度の)、水を拂いて飄綿(ふわふわとして)行く色を送る。登臨して故国を望めば、誰か京華の倦んだ客を識る。長亭の路では、年の去りて歳の来て、まさに柔条(柔らかい枝を)折ること千尺を過ぎる。

閑なときに旧い踪迹を尋ねれば、また酒は哀弦を趁い、灯は離席を照らし、梨花と榆の火は寒食に催されて、一箭の風の快(倢きを)、半篙(竿)の波の暖かきを愁い、頭を回(めぐらせれば)迢遞として便ち数驛もあって、望む人は天北にいるのだけど。

凄惻として、恨みは堆積(たまり)。漸く別浦は縈回(めぐり)、津堠(渡し場)は岑寂として。斜陽は冉冉(のろのろ)として春は極らず。月の榭(楼にて)手を携えて、露の橋にて笛を聞くを思えば、前事(むかしのこと)に沈思(思い沈んで)、夢の中で泪が暗(いつの間にか)滴(流れるにも)似ているのだけど。

 この雰囲気を「開闔動蕩(大きい広がりがある)」というのは何となくわかる気がして、これを強いて文章の特徴から説明すると、「柳陰直、烟裡絲絲弄碧(柳の陰を見遣ると、烟の内に絲ごとに碧を弄び)」は、さきに「烟の内」が来るから、遠くから柳を眺めているような雰囲気になり、「隋堤上、曾見幾番、拂水飄綿送行色(隋の堤の上で、いままで何度、水を拂って飄綿として行く人を送ったのを見たのか)」も、さきに「隋堤上」があって、いきなり柳が生えている大きい広がりがあって(隋堤:隋の頃につくった堤というぼんやりした表現が却っていい)、「曾見幾番(今まで何度見たのか)」という部分は風景の中にぼやけてしまうようになっている。

「登臨望故国、誰識京華倦客。長亭路、年去歳来、応折柔条過千尺(登り臨みて故国を望めば、誰か京華の倦客を識る。長亭の路に、年の去りて歳来りて、まさに柔条を折ること千尺を過ぎる)」も、まず「故国・京華(都のこと)・長亭路(遠い路にある休み処のある路)」だけを並べると、どこまでも茫漠とした春の土色の広がりがみえて、その中を「年が去りて歳の来る」ように往来しては、千尺を過ぎる枝を折るなどと遠くから見えない風景をぼんやり煙る中でみている感じがします。

「閑尋旧踪迹、又酒趁哀弦、灯照離席(閑かに旧い踪迹を尋ねれば、また酒は哀弦を趁い、灯は離席を照らす)」というのも、春の深いときに昔遊んだところに来てみれば(閑尋旧踪迹)、「酒は哀弦を趁い」というのは宴席に満ちていた哀怨な音が聞こえるようで、「灯は離席を照らす」というのも「離席(別れの宴)」のぼんやりした空間だけになっています。

「頭を回(めぐらせれば)迢遞として便ち数驛もあって、望む人は天北に在り」も、大きい広がりだけを書いて、がらんとしている様子が「開闔」、それが忽ちにして「隋堤」、忽ちにして「京華」「長亭の路」「旧踪迹」「離席」……となっていくのが「動蕩」かもと思っていて、この作品について清・周済は「不辨是情是景、但覚烟靄蒼茫。「望」字「念」字尤幻(これが情(思っていることなのか)景(本当の景色なのか)辨ぜられず、ただ烟靄の蒼茫としているのだけがみえる。「望」字と「念」字は最も幻妙)」と云っていて、様々な景色が「開闔動蕩して烟靄の蒼茫としている」ようです。

 もう一つ、短い周邦彦の詞をみてみます。

  玉楼春
桃溪不作従容住、秋藕絶来無續処。当時相候赤闌橋、今日獨尋黄葉路。
烟中列岫青無数、雁背夕陽紅欲暮。人如風後入江雲、情似雨餘粘地絮。

桃溪は従容(ゆっくりと)住めるものでもなく、秋藕(藕:蓮)は絶えて続いているところも無く、当時はともに赤闌の橋に候(居たけれど)、今日は獨り黄葉の路を尋ねるのです。

烟の中に列岫(並ぶ岫)は青くして数え切れず、雁の背の夕陽は紅くして暮れていく。人は風の後の江に入っていく雲のようで、情(思いは)雨餘の地に粘りつく絮(柳の綿)に似ているのだけど。

 これも「桃渓」とそれに代わる「秋の藕(蓮)」、「紅い闌の橋」と「黄葉の路」は重なる面もあって、烟を隔てて遠くに青く澄んだ岫(峯)がみえるけど、そうしているうちに日が暮れて「雁の背の上で紅い」ように燃えていて、人は広い江の上に入っていく雲のようで、私の思いは足元に粘り付いている雨餘(雨後)の綿毛のようなのだけど……という詞で、この風景だけを大きく動蕩開闔させている感じがわかります。

 というわけで、次は姜夔なのですが、詞は北宋の周邦彦・南宋の姜夔と云われるほどなのに、その作風は全然違います。

  憶王孫・鄱陽彭氏小楼作
冷紅葉葉下塘秋。
長與行雲共一舟。
零落江南不自由。
両綢繆。
料得吟鸞夜夜愁。

冷紅の葉葉(葉ごとに)塘(池に)下るの秋。
長く行雲と一つの舟に共にする。
零落して江南は自由ならず。
両(ともに)綢繆として
吟鸞の夜夜(夜ごとに)愁うを料得(知る)。

 この詞では、わずか三十一字の中に「葉葉」「夜夜」の、同じ字の繰り返しが二回。さらにひんやりと冷たい秋の江南では、紅葉のある枝を眺めたと思ったら、夜になってしんとしている中で……というように、周邦彦のときはごてごてとしていた物がほとんどないです。

「冷紅葉葉下塘秋(冷たい紅葉の葉ごとに塘に下る秋)」というのも、秋という抽象的なものに吸い込ませるような印象になっていて、「葉葉(葉ごとに)」も幾つかの葉の様子を抽象化しています。さらに云えば、周邦彦は生々しい一つ一つの様子(「雁背夕陽紅欲暮」「烟裡絲絲弄碧」など)が魅力的なのですが、姜夔はそれを敢えてぼんやり抽象化しているらしい。

  次石湖書扇韻
橋西一曲水通村、岸閣浮萍緑有痕。
家住石湖人不到、藕花多處別開門。

橋の西の一曲で水は村に通じ、岸閣の浮萍(浮草)は緑に痕あって
家は石湖に住んでいて人は到らず、藕花の多い処に別に門を開く。

 これは詞ではなく詩になるのですが、特徴としては同じものが見られるので読んでいきます。まず、前二句がけっこう不思議で、「橋の西の一曲では水 村に通じ、岸閣の浮萍は緑に痕あり(橋西一曲水通村、岸閣浮萍緑有痕)」という様子をみていみると、「橋の西で水が曲がっているところでは、その水は村のほうまで通じていて、岸の楼閣(の近くの)浮萍は緑に痕がある」のように、一つの景色の中をうねるように描写がつながって、全体がどこともつかない繋がりにされています。この感じがするりとして清虚な雰囲気になっていたり、あるいは南宋風の小さく平明な中に曲折のある感じになっている気がします(一方、周邦彦は大きくて多くのものを含んでいる雑多さだと思う)。

  灯詞 其二
灯已闌珊月気寒、舞児往往夜深還。
只因不尽婆娑意、更向階心弄影看。

灯は已に闌珊として月気は寒く、舞児は往往(少しずつ)夜深くして還る。
只だ婆娑(舞う)意を尽さないので、更に階心に向かって影を弄びて看る。

  灯詞 其四
游人帰後天街静、坊陌人家未閉門。
簾裡垂灯照尊俎、坐中嬉笑覚春温。

游人の帰った後の天街は静かで、坊陌(街の)人家はまだ門を閉じず。
簾の裡に灯りを垂らして尊俎(酒肴を)照らすので、坐中の嬉笑して春の温かさを覚えり。

 まず「其二」の方なのですが、ほとんど具体的な物が出てこないです。灯りは闌珊として月寒く、舞児は少しずつ帰っていく様子をかなりぼんやりと抽象化してつなげていて(元宵:1月15日の満月に灯籠を眺める日)、「更に階心に向かいて影を弄び看る(更向階心弄影看)」のは、殆ど大きい影が灯籠の明かりを遠くから遮って踊っているようなくらい、人の姿をあえてぼやけさせた雰囲気です。

「其四」でも、最後は「坐中の春温」の中に色々なものが含まれていってしまい、見る人は中にいるのか外にいるのかもわからないままです。さらに、場面としては游人の帰ったあとのがらんと暗い街と、その中で少しだけ灯りがもれている楼というだけで、物をぎっちり書いていく周邦彦(赤闌橋・黄葉路・烟中の列岫・雁背の夕陽・長亭の路・月榭に手を携う・露橋に笛を聞く……)とはかなり異なります。

 大きくいうと、周邦彦が空間の中に様々なものを含ませて雑多な色で複雑化させる、姜夔は空間をすっきりと一つの澄んだ気にまとめて物をなくしているという違いになりそうです。

 さらに、書と絵、詩などに全て同じような雰囲気の質感があらわれる例としては、八大山人(明末清初の書家)の作品で

というのがあって、この作品に書かれている詩はこんな感じです。

聞君善吹笛、已是无踪迹。
乗舟上車去、一聴主與客。(「安晩冊」之十四)

君の善く笛を吹くを聞きて、已に是れ踪迹なく、
舟に乗り車に上って去(ゆけば)、主と客を一聴する。

 この詩には一応出典があって、『世説新語』任誕篇に

王子猷出都、尚在渚下。舊聞桓子野善吹笛、而不相識。遇桓於岸上過、王在船中、客有識之者云「是桓子野。」王便令人與相聞云「聞君善吹笛、試為我一奏。」桓時已貴顕、素聞王名、即便回下車、踞胡床、為作三調。弄畢、便上車去。客主不交一言。

王子猷は都を出でるとき、なお渚下にいた。かねてより桓子野は笛が上手いと聞いていたけれど、まだ知り合いではなく、たまたま桓子野が岸の上を通り過ぎていくのに会った。王子猷は船の中にいて、客のうち知っている者が「あれが桓子野です」といった。

王子猷はさて人を遣わして「君は笛が上手いと聞いている。私のためにひとつ吹いてほしい」と云わせた。桓子野はその時すでに貴顕だったが、かねてより王の名を聞いていたので、すぐ回(戻ってきて)車を下り、胡床(小椅子に)座って、三曲を吹いた。吹きおわると、そのまま車に乗って去ってしまい、客と主は一言も交わさなかった。

 そして、この石と芽はお互い全然ちがうけど、お互いそのままあって王子猷と桓子野のようで、あるいは桓子野の笛を聞きたいと思って来てみたら、石と芽の静かな風に鳴っているのが聞こえるだけだったかも知れないし、この二つが聞かせあっているように見えたかも知れないし……という絵です。

 この幽渋古怪(暗く晦渋で、古くて怪しいけれど)、蒼勁圓秀(勁い力もあって含みのあるような美しさ)な感じは、このぼったりと形のない蓮にもあらわれていて、

 さらに書では上が大きく下が小さい字体や円くて奥に何か入っているような雰囲気(しんねりと湿気を含んでいるけど外から見ると乾いているような滋潤さ)の危うい感じが不安定で

左右此何水、名之曰曲阿。
更求淵注處、料得晩霞多。(「安晩冊」之六)

左右は此れ何の水?名づけて曲阿(曲がっている)という。
更に淵の注ぐところを求めて、夕もやが多いのを料得(知る)。

のように、もっと落ち着けるところを求めて、いつの間にか赤い霧が出ているという不安さと分かりづらさになります(八大山人とこれから書く華山についてはネット情報だけど、なんとなく合っていると思って書いてます)。

 この空間に流れている質感は庭園や山、民間伝承などにもあって、まずは庭園の例をみていきます。

 去年の11月に京都に行ったとき、東福寺と青蓮院を巡ったのですが、それぞれ全然庭園の雰囲気が違ったので、それを写真つきで。まずは東福寺です。

 東福寺の庭園は、整斉疏快で明るい雰囲気なのですが、この写真をみると木がまっすぐに並ぶように一定の感覚で植えられているのがわかります。そのすっきりとしている(整斉な)感じとある程度の隙間が空いているのが疏快なようにみえて、それが斜めに歩きつつ見ると錯綜する(石段や路は木を斜めにみるようにめぐっている)。

 すっきりとしていて明るいけど、柔かさや複雑さもあって、それでいてごたごたしていない感じが東福寺の印象です。

 一方、青蓮院は端荘な様子というのが近いのですが、それを斜めに撮ってしまうと二つ目の写真のように不安定で不穏な感じになります(この部屋は青い蓮を描いた襖が幾つも重なった迷宮のようで、この不穏さと端荘さの絡み合いが美しいのですが)。

 むしろ、このような感じで正面からみると、どこまでも優艶な威儀があって、そういう雰囲気に満たされているような気がします。

 さらに山になると、例えば中国の華山(陝西省にあって、西を守る霊山をされる)は、別の記事で「超巨大版の妙義山」と書きましたが、蒼龍嶺(龍の背ビレのように薄い嶺)や長空桟道(字で分かりそうですが、岩に貼りつくような桟道)など人を寄せつけないほどの険しさがあって、華山についての民間伝承にもどことなく飄忽として不思議な味があります(以下、出典はネット記事なのですが、一応載せておきます。一部は過去記事と重複ありです)。

洞里瓮:華山のある峰の上には、岩でできた小さい洞窟があって、そこにぴったりと嵌まり込むように瓮(甕)が入っている。そして、その瓮の中にはさらに洞窟があって、洞の口は小さく、瓮の胴は大きいので、この瓮はどのように嵌まり込んだのか分からず、民間では早口言葉で「洞の中には瓮があって、瓮の中には洞があって、洞の中の瓮には洞があって、瓮の中の洞には瓮があって、瓮と洞どちらが先にあったかわからない」というのがある(中国語音で、洞:dong、瓮:weng)。

謎の字:謎の字:華山の蒼龍嶺の上には「雲海」と書かれた碑があって、その隣には○に・を入れたものを田の形に四つ並べたものが彫ってあるのだが、これが何て読むのか分からない。ある人は昌・明をどちらから読んでも読めるように書いたものと云っていたり、ある人は陝西方言で「jiao(太陽の光がぎらぎら明るい)」だと云っている。

黒龍潭:華山の南峰には黒龍潭という1mほどの小さい池(ほとんど水たまり)があり、その水は黒く濁っていて黒龍潭と呼ばれる。ただ、その水はあるときは墨の雲を注いだように黒く、あるときは底が見えるほど澄んでいて、一説には龍が居るときは黒く、居ないときは澄んでいるという。

神林:華山の木は古くより伐ってはならないとされており、「神林」と呼ばれている。王処一『西岳華山志』には「これを破った者は、ただちに身に禍が及ぶ」と云っており、華山の西南では松や檜が天を蔽うほど茂っており、そこでは華山の神々が宴をすると言われていて(「黒林」という)、もしその木を斬ってしまうと火に焼かれたり虎に襲われたりするという。華山にはさらに「神姑林」というのもあって、そこには西岳の神の母が住んでいるとされ、そこの木も切ってはならないとされる。

 このようにして、山の険しくて上り得ない感じが民間伝承になると謎が多くて知り得ない感じになって、飄忽としているけどもったりと不思議なので、世界は質感でできている(と思われる)。

 ちなみに余談ですが、『荘子』応帝王篇の壺丘子林の術は、成玄英の疏では、残り六つの淵を「汛水、濫水、沃水、雍水、文水、肥水」(『列子』黄帝篇の同じ話から引用)としているので、

汛水:春になってふくらんだ(汛)水
濫水:初夏のだらだらと溢れるような水
沃水:夏の渺茫として膨れている水
雍水:初秋のどことなく落ち着いた(雍)水
文水:紅葉を浮かべたり映している水
肥水:内に湛えるように澄んだ(肥)水

だと思っていて、無理やりつなげれば、「汛水:東、濫水:南東、沃水:南、雍水:南西、文水:西、肥水:北西」のようになるかもです。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています