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易の解釈いろいろ

 いきなり引用から入るのもどうかと思うけど、

 象伝では、坎を水ではなく、雲にとって、「雲雷は屯」と云っています。このほか、雑卦伝を作った人の象の取り方、序卦伝を作った人の見方、それぞれが妥当であります。一つの卦の見方しか出来ないというのは短見だと言わなければなりません。(紀藤元之介『易学尚占  活断自在』19頁)

 真勢流では、象こそ占の根幹となるもので、彖爻の辞は枝葉に過ぎないと言っています。
 また、彖爻の辞は、象の示しているものの中の一部面だけを文字として表現したものに過ぎないので、それだけに拘泥されて占を行ったならば、極めて局限された狭い判断より出来ず、また正しく卦を読むことも出来ないという意味のことを書き残して居ります。(加藤大岳『真勢易秘訣』22頁)

 この真勢流に比較して最も対照的なのは高島派の辞占であります。高島派といえども決して象や変をも看過するものではないと強弁する人があったとしても、……それは恰も真勢流で、象を推して占を為す場合に、辞の意味がそれと契合するならば、辞も亦これを捨てないというのと反対に、辞を取って占を下すのに、象も併せ解した方が便宜のある場合には、象をも用いるというのが高島派の立場であって、それ故にこそ、高島呑象は、誤断した実例を自ら検討して「それは象や変を重く見たための誤りであった」と其の著書に書いています。
 この二つの流派の立場の相違は、両者の占例に徴すれば、極めて明瞭であります。則ち真勢流の占例に於て、辞を引用しているものが稀であるのに、高島派のものに在っては、辞を没却したものは皆無と言ってよいほどなのであります。(同書25頁)

 それから又、この『易占揆方(真勢流の六十四卦の解説書)』は、白蛾の六十四卦象意考ともいうべき『易学小筌』と対比される場合が少くありませんが、両者を比較しますと、どちらかといえば『小筌』の方は、大象伝的(内卦と外卦の関係で読む)のに対し、『揆方』の方は、彖伝的(六つの爻の関係で読む)であるというような相違を指摘することが出来るかも知れません。これは言い換えれば、同じく一卦成立の象を見るにしても、白蛾は内外卦の小成卦の組合せに目を注いでいるのに対し、中州は其の卦の中に於ける爻の在り方に着目しているということになりましょう。(同書118頁)

みたいにあって、占星術だと天体やアスペクトの意味が人によって変わるみたいなことはまず起こらないけど、易では同じ卦でも全く違う意味になることがあって、それが易の分かりづらくて混乱する原因かも……と思ったので、易の解釈に大きく分けてどのような視点があるのかを個人的な感覚ですがまとめてみます。

辞占

 まずは、爻辞で占う辞占です。一つ目の例は、その代表格とされる高島嘉右衛門から。

 嘉右衛門は毎年冬至の日に翌年の易占をする慣わしがあったが、明治二二年には元老院を占って剥の上爻(爻辞:碩果は食べられず……小人は廬を剥がれる)を得た。その占断「剥は山が崩れて地になる卦。この上爻が変じることで上卦は地になる。山まさに崩れんとし大廈(大きい建物)まさに覆らんとする(廬を剥がる)時だから、元老院は廃止される運命にある」。はたして、有名無実化していた元老院は明治二三年十月、帝国議会開設に先立って廃止されたが、嘉右衛門は「碩果」を元老院とみたのであろう。(三浦國雄『易経』106頁)

 これは、剥の上九の爻辞「碩果不食、君子得輿、小人剥廬(大きい木の実が食べられずに残っていて、君子は輿を得て、小人は廬を剥される)」から占ったのですが、爻辞を中心にして「艮(山)が崩れて地になる」という象で傍証している雰囲気です。

 さらにもう一つ、中国の占例をみてみます。

 隋の煬帝が江都(揚州)にやって来たとき占筮し、「離の賁に之く」(離の第四爻変)に遇った。そこで離宮を寺とし、「山火」と名づけた。之卦の山火賁の象を取ったのである。本卦の爻辞「焚如、死如、棄如(焼かれ、殺され、棄てられる)」があまりにも不吉なので、「離」宮を寺に変え、之卦を寺名とすることで厄払いをしようとしたのかもしれない。しかし、王観が「賁卦を談じるを須(もち)いず、興廃は古今に同じ」と歌ったように、煬帝は賁卦の効験もなく、「焚如、死如、棄如」をそのまま実現してしまった。自分で占った易は中ったことになる(同書131頁)

 これは、離(火が二つで明るい)の意味は取らずに、爻辞の意味を取っています。この離の例では、爻の象意などは取っていないので、ある意味おみくじ的な易の占い方です(爻辞は一見するとほとんど規則性がないので、おみくじ的な占い方もできる)。

六十四卦全体で占う

 つづいて、六十四卦それぞれの意味で占う占例です。まず、黄小娥先生の占例は六十四卦だけで占っているのが特徴的です(卦の中の爻や小成卦はあまり考えない)

 にぎやかな、祭りばやしが聞こえてきます。わっしょい、わっしょいと、みこしはかつがれ、そのあとに続く大人もこどもも、日ごろの気持ちとうって変わった、なごやかさをもっています。「萃」はあつまる、あつめるということです。人がたくさんあつまりにぎわう意味なのです。
 しかし、「あつまり」といっても、「萃」のもつ『易経』の中の意味は、王が死んだ祖先の廟に参り、盛大な祭りを行い、大きな犠牲を捧げて、心から祖先の霊に感謝し、その気持ちをもって政治を行う政祭一致をあらわしています。これが政治のポイントになっていたのです。王はこのように民心をあつめていました。しかし、このように人が大勢あつまれば、いいことも多いかわりに、競争意識を激しくなり、事故も起こることはしかたがありません。(黄小娥『黄小娥の易入門』萃より)

「賁」というのは装飾という意味です。自然現象にたとえますと、「秋の夕日に照る山もみじ」という感じです。山のはしに沈もうとしている太陽は、そのあたりの風物を瞬間的に、色あざやかに美しく照らし出します。
 これは天地自然の美観ですが、人間や社会現象にたとえますと、この「賁」は、末期の美しさを意味します。たとえばルイ十四世からルイ十六世のフランス王朝の、頽廃したけんらんさです。一つの時代が盛りをすぎて衰えはじめると、そのときの芸術は初期の豪快な精神を忘れ、くずれた美しさを喜ぶようになります。この卦は、そういう状態をいうのです。(同書賁より)

 このような感じで(全てではないですが)、黄小娥先生はけっこう卦全体でどういう意味、というような読み方をしているのがわかります。そして、一つ一つの卦の意味を、いろいろな想像力や文化的な背景で補って読んでいます

 あるいは、紀藤元之介先生の四遍筮法で、例えば

坤之坎:急にエアポケット(空中にある乱高下する気流)に陥込む。
坤之節:低い所で落付くが焦躁は禁物。
坤之噬嗑:新事態に当面、困難だが積極的にして良し。
坤之困:不利な条件が山積。暫く脱けられない。(紀藤元之介『易学尚占  活断自在』113~115頁)

などのような読み方は、六十四卦を大きく一つの意味で読んでいるものだと思います(紀藤先生の解釈は、実際はあとに述べる“古易活法”や“画象”を辞と併せて用いる「混沌型」に近いと思っているけど)。

大象伝的な象占

 この辺から本題に入っていくのですが、大象伝では

雲上於天、需。君子以飲食宴楽。
水を含んだ雲が天の上にある、需(待つ)。君子はそんなとき、飲食して宴楽する。

雷電噬嗑。先王以明罰敕法。
雷(鳴る雷)と電(光る雷)が噬嗑(噛み合わさっている)。先王はそんなとき罰を明らかにして法を勅(整えた)。

などのように、上卦と下卦の組み合わせで卦の意味を読んでいて、水(雲)が天の上にある水天需なら、その雲が雨を降らすのを待って、君子はそんなとき雨を喜ぶ宴の用意をすると読んだり、鳴る雷(震)と光る雷(離)が絡み合っている火雷噬嗑では、先王はその様子に倣って、明察と威を兼ね備えた刑や法を整える……みたいになります。

 この読み方をよく使うのは、さきに加藤大岳先生があげていた新井白蛾で、例えば

 東海道草津の宿(滋賀県の琵琶湖南西部)より、矢橋の渡しを通って京都まで送られた荷物が届かない。白蛾の門人が占って「豫の震に之く」(豫の初爻変)に遇いこう断じた。「これは吉占にあらず。荷は大風のため矢橋の舟もろとも破損したはずだ。」これを聞いた師の白蛾は弟子の占と訂しつつおのれの占断を披露した。「震は声のみあって姿なく、また驚き騒ぐ象があるゆえかく断じたのであろうがそうではない。その荷はいま馬に載せられ問屋を出ようとしている。震を馬とし脚とする(説卦伝)。本卦の豫の外卦震は馬が片足を踏み出したところ、之卦震は両足を踏み出したところに見えるからだ」。はたして明朝になり、その荷は無事京都に到着した。(三浦國雄『易経』85頁)

などは、震(動く)と坤(静か)の雷地豫から、震(動く)と震(動く)の震為雷になったので、ようやく出始めたところ……という読み方です。もう一つ、白蛾の占例を『梅花評注』(筮竹を用いず、偶然の事象から卦を立てる占い方を「梅花心易」という)からみてみます。

 ある冬の夜、白蛾は子どもと一緒に囲炉裏を囲んで座っていた。そんなとき、戸を叩く音がして、始めに一回、さらに五回叩いた。外の人は「ちょっと貸してほしいものがありまして。」というので、白蛾は「その物の名をまだ云わないように。」と遮った。
 白蛾は、子どもの伯温に「何を借りに来たか当ててみなさい」というので伯温は
「最初に一回叩いたのは乾、つぎに五回叩いたのは巽でしょう。なので、卦は天風姤になります。さらに今は酉の刻(午後六時くらい)ですから十二支の十番目。なので、すべて足すと十、一、五で十六、それを六ずつ引くと四余りなので、変爻は四爻です。天風姤が巽為風になるので、乾は五行の金でころんと短い玉など、巽は五行の木で長く伸びているから、きっとそれは鋤でしょう(長い木の先に短い金属がついている)。」
 白蛾は「鋤ではなく斧だろう」というので、伯温は「なぜ鋤ではないとわかったのです?」と聞く。

 白蛾は「易の理を論ずるときは、事の理も論じるように読むので、卦だけをみれば鋤でもいいだろうけど、夜になって鋤を借りるというのはないだろう。きっと、斧で冬の夜に薪を切って燃やすのだろう」といった。

 これも上下の小成卦の組み合わせで占っているのがよくわかります(卦の立て方も小成卦二つを求めるようにしているので、筮法が大象伝的です)。この読み方は梁元帝の占例などにも出てくるのですが、もう一つ興味深いのが『周易正義』(唐の初めに作られた欽定の周易解釈。異説を禁じたわけではないけど、科挙で用いる解釈はこれに基づくことにされた)はかなり「大象伝的」に彖伝を読んでいたりします。

彖曰:……剛柔分、動而明、雷電合而章。
正義曰:……「剛柔分」謂震剛在下、離柔在上。

彖曰:……剛柔が分れ、動いて明るく、雷電は合して章らか。
正義曰:……「剛柔が分れ」とは震の剛が下にあって、離の柔が上にあること

彖曰:損、損下益上、其道上行。
正義曰:此就二體釋卦名之義、艮、陽卦、為止。兌、陰卦、為説。陽止於上、陰説而順之、是下自減損以奉於上、「上行」之謂也。

彖曰:損は、下を損して上を益すること、その道は上行する。
正義曰:これは二つの小成卦に依って卦名の意味を解していて、艮は陽の卦で止まること、兌は陰の卦で悦ぶこと。陽は上に止まっていて、陰は悦んでそれに順っていて、これは下がみずからを損して上を奉じているので、これを「上行」という。

彖曰:困、剛揜也。
正義曰:此就二體以釋卦名、兌陰卦為柔、坎陽卦為剛、坎在兌下、是「剛見揜於柔也」。

彖曰:困は、剛が揜(蔽われること)。
正義曰:これは二つの小成卦に依って卦名を解している。兌は陰の卦で柔、坎は陽の卦で剛、坎(剛)は兌の下にあるので、これを「剛が柔に揜(蔽われる)」という。

 こんな感じで、『周易正義』は彖伝をそれなりの頻度で、小成卦二つで解釈している例が多い気がします。

彖伝的な象占

 彖伝って、個人的には「爻の画賛」みたいな感じだと思っているのですが、この感覚を活かした占例だとこれです。

 のちに後漢の順帝の妃になる妠という少女が十三歳で宮中にあがったとき、太史はまず亀卜で占って「寿房」を得、つぎに卜筮で占って「坤の比に之く」(坤の第五爻変)に遇い、彼女が貴人になることを予言した。

 この場合、太史は比の九五の象伝「顕比の位は吉、正中なればなり」で判断したのかもしれないが、本卦の変爻(坤の第五爻)「黄裳元吉」を採ったのかもしれないし、もっと単純に坤(女性のシンボル)の第五爻(君位)から皇后の地位を予見したのかもしれない。(三浦國雄『易経』59~60頁)

 この「坤の第五爻から皇后の地位を予見したのかも」というところが、爻の関係に注目した象占です。この読み方は、蘇軾の『東坡易伝』でよく出てきます(あえて『周易正義』と同じ卦で読んでみます)。

彖曰:「噬嗑」而「亨」、剛柔分、動而明。
「噬嗑」之時、噬非其類而居其間者也。陽欲噬陰、以合乎陽;陰欲噬陽、以合乎陰。故曰「剛柔分、動而明」也。

彖曰:「噬嗑(噛み合って)上手くいく」とは、剛柔が分れて、動いて明るいこと。
「噬嗑」のときは、その類(仲間)でなくて間に居るものを噛み砕く。陽は陰を噛み砕いて、そうして陽を合わさりたがり、陰は陽を噛み砕いて、そうして陰と合わさりたがる。なので「剛柔が分かれて、動いて明るい」といっている。

彖曰:損、損下益上、其道上行。
自陽為陰、謂之損;自陰為陽、謂之益。兌本乾也、受坤之施而為兌、則損下也。艮本坤也、受乾之施而為艮、則益上也。惟益亦然、則損未嘗不益、益未嘗不損、然其為名、則取一而已。何也?曰:君子務知遠者大者、損下以自益、君子以為自損;自損以益下、君子以為自益也。

彖曰:損は、下を損して上を益すること、その道は上行。
陽から陰になるのを「損」といって、陰から陽になるのを「益」という兌はもともと乾で、坤から一陰を施されて兌となっていて、これが下を「損」する様子艮はもともと坤で、乾から一陽の施しを受けて艮となっており、これが上を「益」する様子。これは風雷益でも同じで、損でも益が入っていたり、益でも損が入っているのに、その卦名をみると、そのうち片方を取っているのは何故かと云うと、「君子は務めて遠大なものを知るので、下を損してみずからを益するのは、君子にとって「損」、みずからを損して下を益するのは、君子にとっては「益」になる。」

彖曰:困、剛揜也。
九二為初六・六三之所揜、九四・九五為六三・上六之所揜、故「困」。

彖曰:困は、剛が揜(蔽われること)。
九二は、初六と六三に揜われている。九四と九五は、六三と上六に揜われている。なので「困」。

 こんな感じで、『周易正義』では小成卦二つで解釈していた文を、『東坡易伝』では陰陽の爻がどのように絡み合っているかで読んでいます。もっとも、大象伝が必ず小成卦二つで読むのに比べて、彖伝にはどうみても爻で読んでいるもの(剥・姤)もあり、どちらでも読めるもの(噬嗑・困など)もあり、さらに小成卦二つで読んでいるもの(蹇の「険在前也、見険而能止、知矣哉」・否の「内陰而外陽、内柔而外剛」など)もあって、すべてが爻に依っているわけではないですが、それでも大象伝に比べれば爻寄りの解釈ができることが多いです。

 ちなみに、さきの加藤大岳先生の引用で「新井白蛾は大象伝的、真勢中州は彖伝的」という感じの内容がありましたが、真勢流の理論で交易生卦・運移生卦・変為生卦・来往生卦は爻に注目した理論、顛倒生卦と反覆生卦は小成卦に注目した理論です(真勢流でも小成卦を読まないわけではないけど、どことなく爻のほうに重みがあるという感じです)。

 というわけで、真勢中州の占例を二つくらいみてみます。この二つは、真勢中州の病筮を集めた『存々成務』という本(真勢中州の弟子の松井羅州の編)から取ってます。

  恒之升
 占っていう、この本卦恒はもともと地天泰の交易生卦(泰の内外卦からそれぞれ一陰と一陽が入れ代わったもの)で、泰の初九が四爻にきて、泰の六四は初爻にまで落ちている。これは、もともと健康(泰)だったのが、大いに驚くことがあって、物思いの疲れが過ぎてしまい、恒の震と巽(どちらも五行の木なので、肝)の癪気(むねの辺りの痛み)が出てきて、それが上ってくる(初九が四爻まで上ってくる)ことが甚だしかったので、医家は誤ってその癪気を消す薬をあげてしまい、四爻まで上がっていた一陽が消えて地風升になってしまった。おそらく、このまま陽気が消えて、地風升から坤為地までなってしまい、治せない。(『存々成務』巻三より)

 ……この「治せない」っていうのが、この本にはけっこう出てくるのですが、それは置いておくとしても小成卦をみるときにも、その卦はどのような爻の動きによって生まれてきたかを重くみている感じがあります。

 もう一つ、こんな例もあって、

  大過之坎
 占って云う、これは寒疝(疝:腹病)で、沢風大過のうち、巽は肝の癪気(むねに滞るむかつき)、兌は澱んだ水(留飲)のこと、さらに大過は初爻と上爻が陰でその間が陽なので、大きい坎の形に似ている。之卦の坎は、二つの坎が重なったもの。坎は水・冷たさ・毒などで、肝のまわりに水毒が溜まっていて冷えている様子らしい。治すには、三才湯(熱を去る薬らしい。おそらく肝のむかつきを抑えて澱んだ水毒を流す?)。(『存々成務』巻三より)

 これは小成卦で占っている感じもするけど、真勢流の病筮には

 健康体を地天泰(乾の気と、坤の血がきれいにめぐっている様子)として、そこからどのように崩れているかでみる。

 老年の人は、気(生命エネルギー)がやや少なくなっているので、地沢臨(泰の三爻が陰になったもの)で健康な状態をあらわすこともある。

 また、老いた人には天地否(気血のめぐりが悪い)が通常の状態になったり、老女の身体では坤為地(大陰)が通常の状態になっていることもある。(『存々成務』巻一より)

という理論があって(実際の状態と合っているかは別ですが)、大過之坎のときは小成卦や似体で占っていたけど、その裏には爻に依る解釈もある……みたいになっています。

字謎型

 というわけで、本音をいうと、この記事で書きたかったのはここからの部分なのですが、いままでの易解釈はいずれも象だったり辞だったりにあまり離れすぎない程度に依っていて、『周易』に一応は合わせて読んでいる感じがしますが、この字謎型は『周易』の文脈を完全に無視した解釈です(おみくじ的な面は辞占型に似ているけど、辞占は『周易』の文脈に沿って読んでいます)。

 とりあえず、その例をあげてみます。

 清の大学者・紀昀の若き日の逸話。彼が科挙の予備試験を受けたとき、師が合否を占って困の六三を得た。吉ならずと占断した師に紀昀は反論していう、「爻辞に“その妻を見ず、凶”とありますが、未婚の私には妻を見るも見ないもありません。これは私には配偶(競争者)がいないということで、トップ合格を意味します。“石に苦しむ”とは、二番目の合格者の姓が石か石へんがつくということです」。はたして紀昀は第一位、第二位は石という姓の者、第三位は米という姓の者だった(蒺蔾は十字形で米の字形に似る)。(三浦國雄『易経』191頁)

 これは「妻(偶:並ぶもの)」「石」「蒺蔾」などの字を全く別の意味に読み替えている感じがあって、もともとの文脈をほとんど無視して、「凶」は取ってないです。これに或る意味似ているのは、紀藤元之介先生の『易学尚占』で

坎:艱、寒、鹹、閑、陥、幹、涵、燗、檻、濫……
兌:惰、妥、蛇、朶、堕、懦、娜、沱、折……

などのように漢字の同音字をあげているのも近いと思っていて、坎と険・艱・坎壈が同じだったり、痩せて鹹(塩辛い)土地は坎々としていて、坎はごつごつした水辺だとするとそこから派生して硬くて芯の多い木になって幹、あるいは水を溜めた様子から燗、絡み合って出られない険しさから檻、黒々とした流れから濫……みたいにするのも、字の意味をかなり緩く解釈している感があります(紀藤先生のあげている同音字の組合わせをみると、乾:伸びやかだけどダレてはいないもの、坤:緊密にまとまったもの、震:細く長く雷のようにのびているもの、巽:弱々しく軟かいもの、坎:内に穴があって隠したり凹んでいるもの、離:ひらひらとしているもの、艮:ぎっしり重いもの、兌:柔らかく少し広がったもの……みたいな雰囲気がある気がする)

混沌型

 というわけで、いよいよなのですが、どういう理論でそういう解釈が出てきたかわからない「混沌型」の占例を読んでいきます。広い意味では多くの占例が多彩な理論を組み合わせて読んでいるのでこれに含まれるのかもしれないですが、どちらかというとそれは「折衷型」とでも云う印象で、より謎の多い解釈だったりするのが混沌型です。

 個人的には『左伝』の占例にはけっこうこの型が入っている気がして、とりあえず一つあげてみます。

初、穆子之生也、荘叔以周易筮之、遇明夷之謙、以示卜楚丘、曰「是将行、而帰為子祀、以讒人入、其名曰牛、卒以餒死。明夷、日也。日之数十、故有十時、亦當十位、自王已下、其二為公、其三為卿、日上其中、食日為二、旦日為三、明夷之謙、明而未融、其當旦乎、故曰為子祀。日之謙當鳥、故曰明夷于飛。明之未融、故曰垂其翼象。日之動、故曰君子于行。當三在旦、故曰三日不食。離、火也、艮、山也。離為火、火焚山、山敗、於人為言、敗言為讒、故曰有攸往、主人有言、言必讒也。純離為牛、世乱讒勝、勝将適離、故曰其名曰牛。謙不足、飛不翔、垂不峻、翼不広、故曰其為子後乎、吾子亜卿也、抑少不終。(『左伝』昭公五年)

 初め、叔孫穆子が生まれたとき、荘叔は周易でその子の一生を占って、地火明夷から地山謙に遇った。これを卜楚丘に示すと、卜楚丘は云う

「これは出て行くことがあって、それでいて帰ってきてあなたの後を嗣ぐのですが、讒人を入れることにもなって、その名を牛と云うでしょう。あと、終いには餓死します。明夷は太陽なのですが、一日は十に分かれていて、故に十の時があります。それを十の位にあてますと、王より以下、二つめを公、三つめを卿と云いまして、日が真ん中に上るときもあり、食べるときを二つめ、朝の日を三つめとして、明夷が謙に之くのですから、明るいけど未だ融(明るく)ない、それはきっと旦(朝)でしょう、なので「あなたの家を嗣ぐ」としてます。日は鳥でもありますから、故に「明が痍(きずついて)飛んでいく」と云います。明がまだ融(明らか)でない、なのでその翼を垂れる象があります。日は動きますから、「君子は旅行く」です。三つめの日は旦ですから、故に「三日(朝)はまだ食べていない」です。離は火、艮は山ですが、離の火が山を焚けば、山は敗れ、人には言があるとすれば、敗れている言は讒言、なので「往くところがあれば、主人は言あり」と爻辞に云って、それは必ず讒言です。純離(離為火)は卦辞から「牛」の意があり、世が乱れれば讒が勝ち、讒が勝てば離(火)に傾きますから、故にその名を牛と云います。謙は足りず、飛んでも翔(のびやか)ならず、垂れる翼は不峻(力無く)、翼は不広(大きからず)、故に「あなたの後を嗣いで、卿に次ぐことになりますが、あぁでも終わり方がよくないでしょう」と云います。」

 これについてはいずれ別記事で細かく触れるのですが、一見するとどんな理論で読んでいるかほとんどわからないです。(ちなみに、『左伝』のこういう占い方には「古易活法」という読み方に依っているとされていて、外卦が変わるときは外卦の本之卦を、内卦が変わるときは内卦の本之卦をそれぞれ解釈の中心に置くという読み方で「小成卦による象占」に含まれる気もするけど、一日を十にわける・なぜ「牛」……など、それだけでは読めない部分も結構あります)。もう一つ『左伝』の例を載せてみます。

陳厲公、蔡出也、故蔡人殺五父而立之、生敬仲、其少也、周史有以周易見陳侯者、陳侯使筮之、遇観之否、曰「是謂観國之光、利用賓于王。此其代陳有國乎?不在此、其在異國、非此其身、在其子孫、光遠而自他有耀者也。坤、土也;巽、風也;乾、天也。風為天於土上、山也、有山之材、而照之以天光、於是乎居土上、故曰観國之光、利用賓于王。庭実旅百、奉之以玉帛、天地之美具焉、故曰利用賓于王。猶有観焉、故曰其在後乎。風行而著於土、故曰其在異國乎。若在異國、必姜姓也。姜、大嶽之後也、山嶽則配天、物莫能両大、陳衰、此其昌乎。」及陳之初亡也、陳桓子始大於斉、其後亡也、成子得政。(『左伝』荘公二十二年)

 陳の厲公は、蔡侯の娘が母だったので、蔡の人は陳佗を殺して厲公を立てた。厲公は敬仲を生むと、その若いときに、周の史官で周易に通じていて陳の厲公に謁えた者があり、厲公は敬仲のことを占わせると、風地観から天地否が出た。周の史官はいう

「これは『国の光を観る、王の賓となるのに良い』です。これはきっと陳に代わって国を有することでしょう。それはここではなく、きっと異国です。この子の身ではなく、その子孫に於てです。光は遠くから来て耀いているもの。坤は土、巽は風、乾は天です。風は土の上で天になり、山(観の互体艮。変爻の四爻は艮の主爻でもある)があれば、山の木もあり、その木に天の光が照らせば、その木は土の上に居て、故に「国の光を観る、王の賓となるのに良い」です。庭(互体艮)を盈たす貢ぎ物は百もあって、奉じるに玉や帛(乾と坤)を以てし、天地の美はすべてそこに在るほど、なので「王の賓となるのに良い」です。それをこの子は観ているとすれば、それは「後の世にあること」と云うところでしょう。風は行きては土に落ち着いて、故に「異国にてのこと」と云ってます。さてどの異国かと云いますと、必ず姜姓の国です。姜は、大嶽(山を祭る官)の後裔で、山嶽は天に並ぶほど高く、物はそれと並んで大きいものはなく、陳が衰えれば、その子の家は盛んになるでしょう。」

 果して、陳が一度亡んだとき、陳桓子(敬仲の子孫)は斉で大きくなり始め、さらに二度目に亡んだとき、その子孫の成子は宰相になった。

 これも今までの解釈に比べると、一気に謎な解釈にみえます……(同じく古易活法で読んでいるらしいですが、互体の読み方がかなり独特)。おそらく変爻(四爻)は艮の主爻でもあるので、互体艮を多用して解釈の中心に置いているのかもですが、乾・坤を「天地」としたり「玉帛」としたり、巽を「風・木」の二つの意味で取ったり、艮は「山・門庭・大嶽(山の祀官)」の三通りの意味になったりして、「観る」は他の人がそうしているのを観る……というのは字謎的だったりと、この不思議さ(占いらしさ)が混沌型の特徴です。

 これを注釈で喩えると唐・李鼎祚『周易集解』(漢~唐までの象数易の注釈)がそれっぽいです。

彖曰:……剛柔分、動而明、雷電合而章。
盧氏曰:此本否卦。乾之九五、分降坤初;坤之初六、分升乾五、是剛柔分也。分則雷動於下、電照於上、合成天威、故曰「雷電合而章」也。

六二:噬膚滅鼻、无咎。
象曰:噬膚滅鼻、乗剛也。
虞翻曰:噬、食也。艮為膚、為鼻。鼻没坎水中、隠蔵不見、故「噬膚滅鼻」。乗剛、又得正多誉、故无咎。
侯果曰:居中履正、用刑者也。二互體艮。艮為鼻、又為黔喙、噬膚滅鼻之象也。乗剛、噬必深、噬過其分、故滅鼻也。刑刻雖峻、得所疾也。雖則滅鼻、而无咎矣。

彖曰:……剛柔が分れ、動いて明らか、雷電は合して章らか。
盧氏曰:この卦は否卦にもとづく。否の九五が分れて、初六と入れかわるように下り、否の初六は分れて九五と入れかわるように上る。これが剛柔の分れるということ。分れれば雷(鳴る雷)は下に動き、電(光る雷)は上に耀くので、合わせて天威を成し、故に「雷電は合して章らか」という。

六二:膚を噬(噛んで)鼻を滅(没する)、咎なし。
象曰:膚を噬んで鼻を滅するのは、剛に乗っているから。
虞翻曰:噬というのは、食らいつくこと。艮は膚・鼻。鼻が坎水(上互体)の中に埋まると、隠れて見えないので、故に「膚を噬んで鼻を滅する」と云う。剛に乗じているけど、正を得ているので誉も多く、故に咎なし。
侯果曰:中に居て正を得ているので、刑に用いるべきもの。下互体は艮。艮は鼻・黔喙(山にいる獣)で、「膚を噬んで鼻を滅する」の象になる。剛に乗じて(勢いを得ていれば)、噬むことは必ず深くして、噬むこと分を過ぎているので、鼻が埋まるほどになる。刑して刻むことが険しいと云っても、憎むものを捕えることになる。なので鼻が埋まるほど深く噛んでしまっても、咎はない。

 ……とりあえず見てもらうと、特に爻辞の解釈なんて『易林』の尚秉和注によく似ていると思うのですが、この或る種無秩序に互体や象意を取ってきて辞を読んでいく雰囲気は『周易集解』全体に通じています。

 これが占例になると

 宋の徽宗の政和末年、平江の人が筮して噬嗑六二に遭っていった、「外卦離を兵戈(戦争)とし、互体艮を城門とする。艮はまた東北の卦で離(南)の間にはさまっている。また、爻辞の『鼻』は君王の祖(鼻祖=始祖の意)。きっと東北の敵人が南侵して宮殿を犯す。君王に利はないだろう」。はたして、それより十年もたたぬうちに金軍の侵攻に遭って国都汴京は陥落して宋は滅び、徽宗は捕虜となって配所で没した。(三浦國雄『易経』100頁)

みたいになります。これは結構あっさりしているようで詭怪なところもあって好みだったりするのですが、実は「鼻」を鼻祖と読むところは字謎型が入っていたり、それ以外は『周易集解」的な象意の取り方だったりと複雑に色々な読み方が混ざっています(占いらしいと云えばすごく占いらしい魅力がある)。

 それがさらに複雑になると

 宋の程迥(有名な易学者)が僧院に泊まったとき、巽(不変爻)に遇い、こう占断した、「風火のおそれはあるが、自分には害がおよぶまい」。はたして僧舎の北から出火、十余室を焼き、程迥の宿坊の直前で鎮火し、失火の僧と僧堂の責任者が逮捕された。程迥の分析「巽は風三四五の互体離を火とし、二三四の互体兌を破壊(説卦伝)とする。巽が全変すると震(裏卦)、震は驚愕初六は内卦の主、すなわち自分であるが、互体離=火と応じていないから、自分には害が及ばない。巽はまた髪の少ない人(説卦伝)。巽卦は巽が二つ重なっているから二人の僧となる」。(同書227頁)

のようになって、裏卦(全体の裏側に潜んでいる状況)を使ったり、互体を入れたり、さらには巽を風・髪の少ない人の二つの意味で取ったり、内卦の巽は初爻が主爻なので自分(これは『左伝』荘公二十二年で互体艮は四爻を主爻としている……というのと同じ読み方かもしれない)、それに応・不応の理論を使う……など何通りもの読み方が混ざっています

 もう一つ、種類の違う混沌型を。

 清朝の特異な思想家・李塨は自分の将来を占って「大畜の中孚に之く」(大畜の三・五爻変)に遇った。やがて南方に職を得、そこで側室をあてがわれて一子を得た。のちに易を本格的にはじめた彼は、当時の出卦を次のように分析した。兌の口舌(大畜の二三四爻の互体)と城門(外卦艮は城門の象)とで「家色せず」(城府を口舌を兼ねるので、官に食む)南方は中孚の大離(中孚は全体で大きい離)による。内卦乾の老陽が兌に変じたが、兌は少女。また中孚の卦辞に「豚魚」の語があり、ゆえに畜妾(妾を得ること)を知る。一子を得たについては、読者各位において考えられよ。(同書116頁)

 こんな感じで、おそらく「一子を得た」は中孚の爻辞「九二:鳴鶴在陰、其子和之(鳴いている鶴が陰にいて、その子も和して鳴く)」からだと思います。これをみても、中孚の爻辞は変爻と特に関係なかったりして(強いて云うなら、側室を得ることが中孚全体の意で、その中には一子を得るが含まれているみたいな感じ?)、解釈の雰囲気が『周易集解』の雑然混沌とした様子に似ている気がします。

(さきにあげた「後漢の順帝の妃になる妠という少女が……」の例は、辞の使い方などを含めると折衷型に入るかもしれないけど、混沌型はより互体それぞれが二重の意味を持っていたり、辞の読み方がもとの文脈を大きく離れて字謎的な雰囲気を帯びていたりと、より飛躍の大きい技法を組み合わせている感じがあります)

 というわけで、易のいろいろな解釈法を大きく分類してみたのですが、折衷できるものもあれば難しいものもあって、異なる解釈法をみたときにどういう視点で生まれてきたものかを何となく感じ取れると読みやすくなるかもです(あと、この記事を書いていて思ったけど、三浦國雄先生の本に出てくる占例って、このすべてのタイプを網羅していて、一冊で色々な易を楽しめるという点で、作り込みがすごいです……)。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています