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蘇氏易林  二

 蘇軾の易解釈で『易林』を読んでみるという記事を書いたのですが、これが意外と易林の本質に関わっているかもしれない……ということで、さらに『東坡易伝』(蘇軾の作った易注)で易林を読んでいきます。

 今回は易林の中でも一つの大きい特徴になっている、重複している詩について読んでいきます。

未済之賁・謙之井・臨之頤

 すでに未済之賁については読んであるので、それと同じ詩になっている二篇について『東坡易伝』で解釈していきます。

華首山頭、仙道所游。利以居止、長無咎憂。
華山の首頭(頂き)、仙道(神仙)の游ぶところで、居て止まるに利(良)く、長く咎憂もなし。

(「長無咎憂」の句は、未済之賁では「常無咎憂」になっていますが、)まずは謙之井からいきます。

象曰:地中有山、謙。君子以裒多益寡、称物平施。
「裒」、取也。謙之為名、生於過也、物過然後知有謙。使物不過、則謙者乃其中爾。過與中相形、而謙之名生焉。聖人即世之所名而名之、而其実則帰於中而已矣。地過乎卑、山過乎高、故「地中有山、謙」。君子之居是也、多者取之、謙也;寡者益之、亦謙也。

象曰:地の中に山があるのが、謙。君子は多いものから取って少ないものを益し、物を称(量って)平らに施す。
「裒」とは、取ること。謙の名は、何かが過ぎることから生まれていて、物は過ぎた後に謙することを知る。物を過ぎさせないようにしていて、謙というのは乃ち「中」のこと。過ぎるのと中なのは互いに形(生み合っており)、そうして謙の名は生まれている。聖人は世で行われている名によって卦を名づけたので、その実は中に帰することが謙になる。地は卑きに過ぎ、山は高きに過ぎるので、「地の中に山がある、謙」という。君子はこのとき、多いものから取って、これを謙と云い、少ないものに益して、これも謙と云う。

初六:謙謙君子、用涉大川、吉。
此最處下、是謙之過也。是道也、無所用之、用於「涉川」而已。有大難不深自屈折、則不足以致其用。「牧」者、養之以待用云爾。

六二:鳴謙、貞吉。
雄鳴則雌応、故易以陰陽唱和寄之於「鳴」。謙之所以為謙者、三也。其謙也以労、故聞其風、被其澤者、莫不相従於謙。六二、其鄰也;上九、其配也;故皆和之而鳴於謙。而六二又以陰處内卦之中、雖微九三、其有不謙乎?故曰「鳴謙」、又曰「貞吉」。「鳴」以言其和於三、「貞」以見其出於性也。

九三:労謙、君子有終、吉。
「労」、功也。謙、五陰一陽、待是而後為謙、其功多矣。艮之制在三、而三親以艮下坤、其謙至矣、故曰「労謙」。労而不伐、有功而不德、非獨以自免而已、又将以及人、是得謙之全者也。故彖曰「君子有終。」而三亦云。

六四:無不利、撝謙。
是亦九三之所致也。二近其内、有配之象、故曰「鳴」;四近其外、三之所向、故称「撝」。以柔居柔、而當三之所向、三之所撝、四之所趨也。以謙「撝謙」、孰不利者?故曰「無不利」。

六五:不富、以其鄰。利用侵伐、無不利。
直者曲之矯也、謙者驕之反也。皆非德之至也、故両直不相容、両謙不相使。九三以「労謙」、而上下皆謙以応之、内則「鳴謙」、外則「撝謙」。其甚者則謙謙相追於無窮、相益不已。則夫所謂「裒多益寡、称物平施」者、将使誰為之?若夫六五則不然、以為謙乎、則所據者剛也;以為驕乎、則所處者中也;惟不可得而謂之謙、不可得而謂之驕、故五謙莫不為之使也。求其所以能使此五謙者而無所有、故曰「不富、以其鄰」;至於侵伐、而不害為謙、故曰「利用侵伐」。莫不為之用者、故曰「無不利」。

上六:鳴謙、利用行師、征邑國。
其為「鳴謙」、一也。六二自得於心、而上六「志未得」者、其所居非安於謙者也、特以其配之「労謙」而強応焉。貌謙而実不至、則所服者寡矣、故雖其邑國而猶叛之。夫実雖不足、而名在於謙、則叛者不利。叛者不利、則征者利矣。王弼曰「吉凶悔吝、生乎動者也。動之所起、興於利者也、故飲食必有訟、訟必有衆起、未有居衆人之所悪而為動者所害、處不競之地而為争者所奪。是以六爻雖有失位、無応乗剛、而皆無凶・咎・悔・吝者、以謙為主也。」

初六:謙謙たる君子、大川を渉るに用いる、吉。
この爻は最も下に居て、これは謙に過ぎた様子。この道は、用いるところなく、「川を渉る」のに用いるくらい。大難の深からぬうちにみずから屈折して、用を為すに及ばない。「牧」は、これを養って用られるのを待つこと。

六二:鳴いて謙する、正しくて吉。
雄が鳴けば雌が応ずるように、易では陰陽の唱和することを「鳴」と云っている。謙の卦の中で謙とされるものは、九三。その謙は労することに依っていて、故にその風を聞き、その澤を被ったものは、九三の謙に従わないものは居ない。六二はその隣に居て、上九はその応なので、皆な九三に和してその謙に和鳴する。さらに六二は陰爻にして内卦の中にいて、九三より程度は小さくても、必ず謙することになる。なので「鳴いて謙する」といい、「正しくて吉」とも云う。「鳴いて」は九三に和すること、「正しい」はその謙が性(心)より出ていること。

九三:労して謙する、君子は終わり方がよい、吉。
「労する」とは、功があること。謙は五陰一陽なので、五陰が来るのを待ってのちに謙すれば(功を成して謙すれば)、その功は多い。艮(山)は九三によって作られていて、九三はみずから艮(山)が坤(地)に下る様子を為していて、謙の至りなので、故に「労して(功を成して)謙する」と云う。労して不伐(誇らず)、功があっても德とせず、これはみずから災いを免れるだけでなく、さらに人にも及ぼされて、謙の全き者になっている。なので彖伝に「君子は終わり方がよい」とあるのも、九三を云っている。

六四:利のないものはなく、撝謙(揮って謙する)。
これも九三の致すもの。六二は内卦に近かったので、九三に比する象で、故に「和鳴する」と云い、六四は外卦に近くて、九三が向かう先に居るので、「撝(揮う)」。陰爻が陰位に居て、それは九三の向かうところに当たり、九三が揮うところは、六四の趨くところ。謙する気持ちで「撝(揮いて)謙する」ので、利せざることなく、故に「利のないものはない」と云う。

六五:富ならずして、その隣を用いる。侵伐に用いるによく、利のないものはない。
直は曲がっているものを矯めたもの、謙は驕っているものが戻った様子。いずれも德の至れるものではなく、故に二つの直は相い容れずして、二つの謙は相い使わずという。九三は「労して謙する」ので、上下も皆な謙してこれに応じ、内では「鳴いて謙(六二)」、外では「撝(揮いて)謙(六四)」する。その甚しいものは互いに謙していつまでも続き、相い益して已まない。なので「多いものを取って少ないものを益し、物を量って平らに施す」のは、誰にさせればいいのか。この六五はそうではなく(謙謙とするのではなく)、謙になるかと思えば、その拠るところは剛の位にして、それを驕っているかとすれば、その居るところは中なので、謙と云うこともできず、驕と云うこともできず、故に五つの謙(六五以外の爻)はその使いとなるのだが、この五つの謙なる者を使ってくれるものを求めても、この卦の中には居ないので(六五もその役はやらないので)、故に「(六五は思ったほど)富(謙でないこと)ならず、その隣(の爻たち)のようにする」という。侵伐するときに至っては、謙なことを損なわないので、故に「侵伐に用いるにはよい」と云う。六五が用を為さないことはないので、「利のないものは無い」。

上六:鳴いて謙する、兵を出だすに用いるによく、邑國を征する。
「鳴いて謙」という辞は一つだが、六二はみずから心より「鳴いて謙する」けど、上六は小象伝に「志は未だ得ず」とあって、その居るところは謙に安んじてなくて、その応(九三)が「労して謙する」ので仕方なく応じている。形は謙していても実はそうでもなく、なので服するものも少なく、故にその邑國といっても叛くことがある。その実は足りていないと云っても、その名は謙しているので、叛いたものは不利になり、叛いたものが不利だと、征するものは利がある。王弼曰く「吉・凶・悔・吝は、動くものから生まれてくる。動きが起こるのは、利より興っていて、故に飲食すれば必ず訟(争い)があり、訟があれば必ず衆が起こるが、多くの人の憎むものではないのに動くものに害されるのは無く、争いのない地に居ながら争うものに奪われることも無い。故に六爻に位を失っていたり、応じてなく剛に乗じていたりしても、どれも「凶・咎・悔・吝」などの辞がないのは、「謙する」ことを主にしている故。」

 これを読むと、謙の卦はお互いに譲り合っていて、その中で六五だけ少し出ている感じはあるけど、やはり謙気味なことには変わらない、何かあれば侵伐するときに動くけど……みたいな雰囲気になっています。

 さらに、井の解釈も読んでみます。

初六:井泥不食、舊井無禽。
易以所居為邪正、然不可必也;惟井為可必。井未有在潔而不清、處穢而不濁者也、故即其所居、而邪正決矣。孔子曰「君子悪居下流、天下之悪者帰焉。」初六、悪之所鐘也;君子所受於天者無幾、養之則日新、不養則日亡、択居所以養也。彖曰「井養而不窮」、所以養井者、豈有他哉。得其所居則潔、潔則食、食則日新、日新故不窮。「井泥」者、「無禽」之漸也、「泥」而「不食」、則廃矣。「舊井」、廃井也;其始無人、其終無禽。無人猶可治也、無禽不可治也。所以為井者亡矣、故時皆舎之。

九二:井谷射鮒、甕敝漏。
九二居非其正、故無応於上則趨下而已。下趨者、谷之道也;失井之道而為谷、故曰「井谷」。九二之所趨者、初六也;初六之謂「鮒」。井而有「鮒」、則人悪之矣。然猶得志於甕、何也?彼有利器、而肯以我汙之歟?此必敝漏之甕、非是甕、不汲是井也。

九三:井渫不食、為我心惻。可用汲、王明並受其福。
「渫」、潔也。九三居得其正、井潔者也。井潔而不食、何哉?不中也。不中者、非邑居之所会也、故「不食」。井未有以不食為戚者也、凡為我惻者、皆行道之人爾、故曰「行惻」。「行惻」者、明人之惻我、而非我之自惻也、是井則非敝漏之甕所能容矣、故択其所用汲者。曰「孰可用者哉?其惟器之潔者乎?」器之潔、則王之明者也;器潔王明、則受福者非獨在我而已。

六四:井甃、無咎。
「脩」、潔也。陽為動、為実、陰為静、為虚。泉者所以為井也、動也実也;井者泉之所寄也、静也虚也。故三陽為泉、三陰為井。初六最下、故曰「泥」;上六最上、故曰「収」;六四居其間而不失正、故曰「甃」。「甃」之於井、所以御悪而潔井也、井待是而潔、故「無咎」。

九五:井洌寒泉、食。
此其「正」、與九三一也、所以食者、「中」也。

上九:井収、勿幕。有孚、元吉。
「収」者、甃之上、窮也。「収」非所以為井、而井之権在「収」。夫苟幕之、則下雖有寒泉而不達、上雖有汲者而不獲、故「勿幕」、則「有孚、元吉」。

初六:井戸の泥があって汲まれない、古い井戸は禽もいない。
『周易』では爻のある位によって邪正を決めるのだが、必ずしもその通りでないこともある。ただ、井の卦だけは必ずそれに依っている。井戸は綺麗なところにあって濁っているものは無く、汚れたところにあって澄んでいるものも無いので、これはその爻があるところに依って、邪正を決めていることになる。孔子曰く「君子は下流に居るのを嫌う、下流は天下の悪が溜まる場所。」初六は、悪が溜まっているところで、君子は天より受けたものはそれほど多くなくても、これを養えば日に新たになり、養わなければ日に日に亡んでいくので、どこで養うかを択ぶようにする。彖伝に「井は養いて不窮」とあって、井戸を養うのも、さきに書いたことから外れない。綺麗なところに居れば井戸も綺麗になり、綺麗ならば水を汲めて、水を汲めば日に湧いてきて、日に湧いてくれば窮らない。「井戸の泥」は、「無禽(獣も住まない)」の始まり、「泥が溜まって水が汲まれない」と、その井戸は廃される。「古い井戸」は廃井で、その始めは人がいなくなり、ついには禽獣も居なくなる。人がいなくなった井戸はまだ治せるが、禽獣が居ない井戸はもう治せない。井として亡んでしまうと、時とともに皆な捨ててしまう。

九二:井谷は鮒に向かう、甕は敝漏(ぼろぼろで穴があいている)。
九二は居るところが正しくない、なので上にも応じず下に行くだけ。下に行くのは、谷の道で、井戸の道を失えば谷になってしまう、故に「井谷」と云う。九二の下に向かう先には(射:向かう)、初六がある。初六のことを「鮒」と云う。井戸なのに鮒がいるのは、人はそれを汚いと思う。なのに甕を下ろすのは、どうしてなのか?人は良い器をもっていて、私(九二)にそれを汚させるのではなく、これは必ず敝漏之甕(破れ甕)で、このような甕でなければ、汚れた井を汲まない。

九三:井戸を渫ったのに汲まれず、私のために哀れんでくれる。汲んでもらうときは、王は明にして皆な福を受ける。
「渫う」は、井戸を綺麗にすること。九三は正しい位に居て、井戸は綺麗になっている。井戸が綺麗なのに汲まれないのは何故なのかというと、中ではないから。中でないものは、村邑の真ん中にないので、汲まれていない。井戸は汲まれない為に悲しむなどはないが、私(九三)のために哀れんでくれる人は、道を行く人だけになり、故に「行く人は哀れむ」と云う。「行く人は哀れむ」は、道を行く人が私を哀れに思っていて、私がみずから哀れんでいるのではなく、この井戸は破れ甕などで汲んでいい井戸でもなく、故に汲んでくれる人を択ぶ井戸。この井戸は「誰が私を汲んでくれますか?その器は綺麗ですか?」と云っている。器が綺麗なのは、王が明のことで、器が綺麗で王が明なら、福を受けるのは私(九三)だけではない。

六四:井戸の甃(いし)、咎はない。
小象伝の「脩井」は、井戸が綺麗なこと。陽は動・実、陰は静・虚で、泉は井戸を作るものなので動にして実、井戸は泉が依るところなので静にして虚。故に三つの陽は泉、三つの陰は井戸になる。初六は最も下なので、「井戸の泥」、上六は最も上なので、「井戸の収(終わり)」、六四はその間に居て正を失わないので、「井戸の甃(いし)」。甃は井戸の中で、汚れを防いで綺麗にしておくもので、井戸は甃(石で出来た壁)によって綺麗なので、故に「咎なし」。

九五:井戸の清洌な寒泉、汲まれる。
これは正なのは九三と同じで、さらに汲まれるのは、中に居るから。

上九:井戸の収(終わり)、幕を掛けないように。信があって、大いに吉。
「収」は、甃(井戸の石壁)の上、窮(終わるところ)。収(終わり)は井戸そのものではないが、井戸全体を握っているのは「収(石壁の上の終わり)」。もし幕をかけてしまうと、下には寒泉(ひんやり冷たい水)があっても届かず、上には汲む人がいても得られない、故に「幕を掛けてはいけない」、そうすれば「信あって、大いに吉」。

 これを読むと、井は井戸の水を枯らさないように汚さないように養う様子です(どうでもいいですが、蘇軾の文章をこんなに多く訳すのは生まれて初めてなのですが、本当に魅力的な表現だなぁ……と改めて思う。注釈が一つの文学になっているような美しさがある)。

 さらに臨之頤も読んでいきます。

初九:咸臨、貞吉。
有応者為「咸臨」。咸、感也;感以臨、則其為臨也易。故「咸臨」、所以行正也。

九二:咸臨、吉、無不利。
二陽在下、方長而未盛也。四陰在上、雖危而尚強也。九二以方長之陽而臨衆陰、陰負其強而未順命、従而攻之、陰則危矣、而陽不能無損。故九二以「咸臨」之而後「吉」。陽得其欲而陰免於害、故「無不利」。

六三:甘臨、無攸利。既憂之、無咎。
楽而受之謂之「甘」。陽進而陰莫逆、「甘臨」也。「甘臨」者居於不争之地、而後可以居於陽。陽猶疑之、拒之固傷;不拒猶疑之、進退無所利者、居之過也。故六三之咎、位不當而已、咎在其位、不在其人、則憂懼可以免矣。

六四:至臨、無咎。
以陰居陰而応於初、陽至而遂順之、故曰「至臨」。

六五:知臨、大君之宜、吉。
見於未然之謂「知」。臨之世、陽未足以害陰、而其勢方鋭;陰尚可以抗陽、而其勢方却。苟以其未足以害我而不内、以吾尚足以抗之而不受、則陽将忿而攻陰。六五以柔居尊而応於二、方其未足而収之、故可使為吾用。方吾有餘而柔之、故可使懐吾德、此所以為「知」也。天子以是服天下之強者則可、小人以是畜君子則不可。故曰「大君之宜、吉」,惟「大君」為宜用是也。大君以是行其中、小人以是行其邪。

上六:敦臨、吉、無咎。
「敦」、益也;「内」、下也。六五既已応九二矣、上六又従而附益之、謂之「敦臨」。復之六四既已応初九矣、六五又従而附益之、謂之「敦復」、其義一也。

初九:感応して臨む、正しくて吉。
応じるものがあるのを「感応して臨む」と云う。「咸」は感応すること。感応して臨めば、その臨むことは容易い。なので「感応して臨んで」、その行うことは正しい。

九二:感応して臨む、吉。利のないことはない。
二陽が下にあって、まさに伸びようとしてまだ盛りではなく、四陰が上にあって、危うくなっていてもまだ強いのが、臨の卦。九二は伸びていくときの陽で、多くの陰に臨んでおり、陰はまだ強いので命を聞かず、それ故に攻め込めば、陰は危ないだろうけど、陽も傷つかないわけではない。なので九二は「感応して臨んで」その後に「吉」。陽は陰を引き込むことができて、陰は害されることがない、なので「利のないことはない」。

六三:甘んじて臨む、利はない。既に憂いて、でも咎はない。
楽しんでそれを受け容れるのを「甘」と云う。陽は進んできて陰は逆らわないのが「甘んじて臨む」。「甘んじて臨む」のは不争の地に於いてするべきで、その後なら陰爻が陽の位に居てもいい。陽はまだ陰を疑っており、甘んじて望んでいるのを拒めば傷つき、拒まなければまだ疑わしく、どちらにしても利がないのは、居るところが間違っている為。なので六三の咎は、位が良くないためで、咎は位にあり、人にはないので、憂懼は免れる。

六四:至りて臨む、咎はない。
陰爻が陰位に居て初九に応じていて、陽はやって来て(至りて)これに従う、なので「至りて臨」。

六五:知って臨む。大君は宜しい、吉。
まだ何も起こらないものを見るのを「知」と云う。臨の世では、陽はまだ陰を害するほどではないが、その勢は鋭く、陰はまだ陽に抗えるが、その勢は弱りつつある。もしまだ私(六五)を害するほどではないとして陽に引き入れられず、私(六五)はまだ抗えるからといって陽を受け付けなければ、陽は忿って陰を攻めることになる。六五は陰柔で高い位に居て九二と応じているので、まだ何も起こらないうちから事を収め、故に陽もみずからの用としてしまう。こちら(六五)は余りあって柔らかく饗せば、陽も必ず私の德を慕う、ということを「知っている」。天子がこのように天下の強者を従えるのは可だが、小人がこのように君子を従えるのは良くない。故に「大君には宜い、吉」とあって、惟だ「大君」のみこれを用いて可い。大君はこれを用いて中を行い、小人はこれを用いて邪を行う。

上六:敦臨、吉、無咎。
「敦」は益のこと、小象伝の「思うところは内にあり」の「内」は下のこと。六五は既に九二と応じていて、上六はさらに六五に従って附して九二を益する、これを「敦くして臨む」と云う。復の六四が既に初九と応じていて、復の六五がさらにそれに従って初九に附して益するのを「敦く復する」と云っていて、その意味はこれと同じ。

初九:舎爾霊亀、観我朵頤、凶。
「爾」、初九也;「我」、六四也。亀者不食而寿、無待於物者也。養人者、陽也;養於人者、陰也。君子在上足以養人、在下足以自養。初九以一陽而伏於四陰之下、其德足以自養而無待於物者、如亀也。不能守之而観於四、見其可欲「朵頤」而慕之、為陰之所致也、故「凶」。所貴於陽者、貴其養人也。如養於人、則亦不足貴矣。

六二:顛頤、拂経于丘頤、征凶。
従下為「顛」、過撃曰「拂」。「経」、歴也、「丘」、空也。豫之六五失民、而九四得之、則九四為「由豫」。頤之六五失民、而上九得之、則上九為「由頤」。六二有養人之位、而無養人之德、則「丘頤」也。夫「由」「丘」二者、皆非相安者也。「丘」以其位、「由」以其德、両立而不相忌者未之有也。六二・六三之求養於上九也、皆歴五而後至焉、夫有求於人者、必致怨於其所忌以求説、此人之情也。故六二・六三之過五也、皆撃五而後過、非有怨於五也、以悅其所求養者也。「由頤」者、利之所在也;「丘頤」者、位之所在也。見利而蔑其位、君子以為不義也、故曰「顛頤、拂経于丘頤、征凶」。六二可以下従初九而求養也、然且不従而過撃五以求養於上九、無故而陵其主、故「征凶」。「征凶」者、明「顛頤」之吉也。二、陰也;五亦陰也、故称「類」也。

六三:拂頤、貞凶。十年勿用、無攸利。
「拂頤」者、拂経于丘頤也。六二已詳言之矣、因前之辞故略、其実一也。「拂頤」之為不義、二與三均也。然二有初可従、而三不得不従上也、故曰「貞凶」。雖貞於其配、而於義為凶。「由頤」之興、「丘頤」之廃、可坐而待也、其勢不過十年、盍待其定而従之?故戒之曰「十年勿用」。用於十年之内、則「大悖」之道也。夫撃其主而悅其配、雖其配亦不義也、故「無攸利」。

六四:顛頤、吉。虎視耽耽、其欲逐逐、無咎。
四於初為上。自初而言之、則初之見養於四為凶。自四言之、則四之得養初九為吉。初九之剛、其始若虎之「眈眈」而不可馴也、六四以其所欲而致之、「逐逐」焉而来、六四之所「施」、可謂「光」矣。

六五:拂経、居貞、吉。不可涉大川。
六五既失其民、為六二・六三之所拂而過也、慍而起争之、則亡矣。故以順而従上、「居貞」為「吉」。失民者不可以犯難、故曰「不可涉大川」。

上九:由頤、厲吉。利涉大川。
莫不由之以得養者、故曰「由頤」。有其德而無其位、故「厲」而後「吉」。無位而得衆者、必以身犯難、然後衆與之也。

初九:あなたの霊亀を捨てて、私の朵頤(顎で噛む様子)を観ると、凶。
「あなた」は初九、「私」は六四。亀は食べなくても長生きするもので、他の物を求めない。人を養うのは陽、人に養われるのは陰。君子は上にあっては人を養い、下にあってはみずから養う。初九は一陽にして四つの陰の下に伏しており、その德はみずから養って物に頼らないもので、霊亀のようでもある。これを守らずして六四を観るのは、その「朵頤(顎で噛んでいる様子)」を観てそれを慕っているようで、陰に引き込まれているようなので「凶」。陽に於いて貴ばれるのは、人を養うこと。人に養われるのは、貴いとは云えない。

六二:顛(さかしまに)頤(養う)、拂(叩きながら)丘頤(空しく養っているもの)を通り過ぎる。征けば凶。
下から養われるのを「顛」(ここでは初九に六二が養われること)、通り過ぎながら叩くのを「拂」(叩く)、「経」は歴ること、「丘」は空しい。豫の六五は民を失っており、九四が民を得ていて、九四の爻辞に「由りて豫(楽しませる)」とある。頤の六五も民を失っていて、上九が民を得ていて、上九の爻辞に「由りて頤(養う)」とある。六五は人を養う位はあって、人を養う德はなく、「丘(空しく)頤(養う)」と云う。「由りて」「丘(空しく)」の二つは、相い安らかならざるもの。「丘」はその位があって、「由」はその德があり、共に立っても忌み合わないものはいない。六二・六三は上九に養われるのを求めて、どちらも六五を経て上九に辿りつくので、人に養われることを求めるものは、必ず嫌っているものを怨むことで養ってくれる人を喜ばせようとするのが、人の情。なので六二・六三が六五を通り過ぎるとき、どちらも六五を叩いて通り過ぎるのは、六五を怨んでいるのではなく、養ってくれる上九を喜ばせる為。「由りて頤(養う)」のは、利のあるところ、「丘(空しく)頤(養う)」のは、位のあるところ。利をみて位を蔑むのは、君子の不義とすることなので、「顛(さかしまに)養う。空しく養っているものを叩いて通り過ぎるので、征けば凶」。六二は下の初九に従って養ってもらえるので、六五を叩いて上九に養を求めなくても可く、故無くしてその主を叩くと「征けば凶」。「征けば凶」とは、「顛頤(さかしまに養われる)」のは吉と云うこと。六二は陰で、六五も陰なので、故に小象伝に「往けば類(同類)を失う」と云う。

六三:頤(養ってくれるもの)を拂(叩く)、正しくても凶。十年用いるべきでない、利もない。
「拂頤(六三の爻辞)」は、「拂経于丘頤(六二の爻辞)」の略。六二で既に詳しく書いたので、前の辞に依って略してあり、その実は同じ。「拂頤(むなしく養っているものを叩いて通り過ぎる)」のは不義なのは、六二と六三で同じだが、六二はまだ初九に養ってもらえたが、六三は上九に行くしかないので、故に「正しくても凶」と云う。上九は応じているので正しくても、義に於いては凶。「由りて頤(養う)」ものが興り、「丘頤(むなしく養う)」ものが廃れるのは、坐して待つべきで、その勢は十年を過ぎず、その定めを待ってから上九に従うべきなので、故に戒めて「十年用いない」と云う。十年の内には、則ち「大悖(悖:そむく)」の道になる。その主を叩いて上九を喜ばせるのは、応じている人のためとは云っても義に外れるので、「利はない」。

六四:顛頤(さかしまに養う)、吉。虎視耽耽としているけど、その欲なれば逐逐たり、咎なし。
六四は初九からみて上だが、初九からみれば、初九が六四に養われるのは凶。六四からみれば、六四が初九に養われるのは吉。初九の剛は、始めは虎の「眈眈」とこちらを見て馴れないようだけど、六四はその欲するものを与えて馴らせば、「逐逐」としてやって来るので、小象伝では「上(六四)の施し」は「光」と云っている。

六五:叩いて通り過ぎる、正しいところに居れば、吉。大きい川を渉ってはいけない。
六五は既に民を失っており、六二・六三に叩いて通り過ぎられるのだが、怨んでそれと争うと、亡されてしまう。なので、逆らわずに上九に従えば、「正しいところに居て、吉」。民を失ったものは難を犯してはならず、故に「大きい川を渉るべきでない」と云う。

上九:由りて頤(養う)、厲しくても吉。大きい川を渉るに良い。
上九に由って養われないものは居ない、なので「由りて頤(養う)」と云う。その德はあってもその位はなく、故に「厲(危うく)して」のちに「吉」。位が無くて衆を得れば、必ずその身を以て難を犯し、その後に衆はそれに従う。

 これを読むと(読んでいる人いない気がするけど……)、謙之井はなるべく動かないようにしながら、ときおり已むを得ないことがあると謙の六五のように手を出すこともあり、さらに井のようにまた民に養わせている雰囲気、臨之頤はなるべく静かに争わずに臨むだけで感応したり静かに従っていくことから頤のように養ってくれるものに皆で従っていく様子……みたいな感じでいずれも静かな卦です。

 ちなみに、未済之賁では「物事は近いうちに動こうとして力を蓄えて溢れそうになっているけれど、いつの間にか不完全なままでの飾り合いになっているのを観ている様子」だと思っていて、六十四卦の意味だけで読んだときは「謙之井では謙譲しつつ不易なもの持っていること、臨之頤では落ち着いた雰囲気でどんな時でも臨み養うこと、未済之賁では不完全なものを一つの秩序として見ている」みたいな解釈だったけど、爻の関係まで入れて卦の意味を決めたほうが、より傍観的な神仙らしさ(人の辿りつけない華山の山頂に游ぶ神仙らしさ)が出ている気がします。

 これを『老子』の文章で喩えると

未済之賁
致虚極、守静篤。萬物並作、吾以観復。夫物芸芸、各復帰其根。帰根曰静、是謂復命。(十六章)
大成若缺、其用不弊。大盈若沖、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒静勝熱。清静為天下正。(四十五章)

虚ろな極みを致して、静かで篤(実のあるもの)を守れば、萬物は並び起こりて、私はそれが帰っていくのを観る。その物たちは芸芸(よく茂っていて)、各々その根に帰っていく。根に帰ることを「静」、と云い、これを命に帰るという。
大いに出来たものは缺けているようで、その用は弊れない。大いに盈ちたものは沖(空しいようで)、その用は窮らない。大いに直なものは曲がっているようで、大いに巧みなものは拙いようで、大いに辯(語るもの)は訥(口が重いようで)、躁がしいものは寒いときによく、静かなものは熱いときによい。清静は天下の正しい姿。

そのようにして、私は人々が何かしようとしながら、また飾り合いの美しさが生まれてきて、それが華草の茂るように芸々としながらまた枯れていき、それでいてどこか缺けながらまた力を蓄めて茂っていくのを華山の頂きからみている……

謙之井
大國者下流、天下之交、天下之牝。牝常以静勝牡、以静為下。故大國以下小國、則取小國;小國以下大國、則取大國。故或下以取、或下而取。大國不過欲兼畜人、小國不過欲入事人。夫両者各得其所欲、大者宜為下。(六十一章)
夫佳兵者、不祥之器、物或悪之、故有道者不處。君子居則貴左、用兵則貴右。兵者不祥之器、非君子之器、不得已而用之、恬淡為上。勝而不美、而美之者、是楽殺人。夫楽殺人者、則不可以得志於天下矣。吉事尚左、凶事尚右。偏将軍居左、上将軍居右、言以喪禮處之。殺人之衆、以哀悲泣之、戦勝以喪禮處之。(三十一章)
道生之、德畜之、物形之、勢成之。是以萬物莫不尊道而貴德。道之尊、德之貴、夫莫之命常自然。故道生之、德畜之、長之育之、亭之毒之、養之覆之。(五十一章)

大國は下流にして、天下の交わるところ、天下の牝(静かなもの)。牝(静かなもの)は常に静かなことで牡(騒ぐもの)に勝ち、静かさに依って下に居る。故に大國は小國に下り、そのようにして小國を取り込み、小國は大國に下り、そのようにして大國を取り込む。故に或いは下ちて取り込み、或いは下りて取り込む。大國は多くの人を合わせて養いたいだけで、小國は大國の君に守られたいと思うだけ。その両者が思う通りになるので、大きいものは下るのが宜い。
佳い武器は不祥の器なので、人々はこれを忌み、故に有道のものはそれを執らない。君子が坐るのは左を貴び、兵を用いるときは右を貴ぶ。武器は不祥のものにして、君子の器ではない、已むを得ずしてこれを用いるのは、恬淡(あっさり)としているのが良い。勝っても不美(いいこととせず)、これをいいこととするのは、人を殺すのを楽しんでいること。人を殺すのを楽しむものは、天下に志を得ることはできない。吉事は左を貴び、凶事は右を貴ぶ。偏将軍(二番目の将軍)は左に居て、上将軍は右に居る、これは喪禮の並びと同じ。人を殺すことが多いとき、哀しんでこれを泣き、戦いに勝ったときは喪禮によって終わらせる。
道がそれを生み、德がそれを畜て、物はそれを形(かたちづくり)、勢はそれを成そていく。それ故、萬物は道を尊ばず德を貴ばないものはいない。道の尊き、德の貴きは、名づけ得ずして常なる自然のこと。故に道はそれを生じ、德はそれを畜(育て)、長じて育して、亭(立たせて)毒(熟させ)、養いて覆う。

私は華山の山頂に居ながら、静かに下ることで人々を養って、ときとして雷霆を用いることはあってもそれは已むを得ないときのみにして、それが終れば哀しんで、また人々の見えないところで養う……

臨之頤
治大國若烹小鮮。以道蒞天下、其鬼不神;非其鬼不神、其神不傷人;非其神不傷人、聖人亦不傷人。夫両不相傷、故德交帰焉。(六十章)
天地不仁、以萬物為芻狗;聖人不仁、以百姓為芻狗。天地之間、其猶橐籥乎?虚而不屈、動而愈出。多言数窮、不如守中。(五章)

大國を治めるのは小鮮(小魚)を烹るようなもので、道によって天下に蒞(臨み)、そうすれば鬼も怪しい力はなく――鬼の力がないのではなく、その力が人を傷つけないということ――鬼の力が人を傷つけないだけでなく、聖人も人を傷つけない。そのようにして傷つけないので、さまざまな徳が寄ってくる。
天地は不仁(優しくないので)、萬物を以て芻狗(藁の狗人形)とする。聖人は不仁(優しくなので)、民を以て芻狗(藁の狗人形)とする。天地の間は、それは橐籥(ふいご)のようで、虚ろなのに不屈(弊れず)、動いて愈々出てくる。多言はしばしば窮するので、中(内)を守るほうがよい。

華山の頂きで、何もしないようでいながら鬼も穏やかになるように静かに天下を熟させて煮ていき、それでいて人々は私に養われているのを知らず……という神仙。

のように、神仙らしくて飄忽とした雰囲気や、人々がみずから動いて生きている様子が爻の関係からでているような気がします(六十四卦の意味だけでこの詩を作るには、素材が少なすぎて難しく、爻の関係性を入れるとかなり傍観性や静謐さが出てくる)。ちなみに、華山(陝西省の霊山)にはこんな伝承もあります。

 華山の落雁峰という峰の上には、仰天池という小さい池があって、その大きさは1mほどしかないのに、どんなに日に照らされても涸れることはなく、どんなに雨が降っても溢れてしまうことはない。噂では、太上老君(神仙化した老子)がこの池の水で、金丹を練るという。(華山十大未解之謎から引用

 この伝承がいつできたかは謎だけど、華山のイメージは昔からこんな感じだったのかもしれないです。

漸之蒙

 つづいては『易林』の中でもかなり不思議で不穏な美しさをもっている漸之蒙の詩を読んでいきます。訳はこんな感じです。

衆鳥所翔、中有大怪。九身無頭、魂驚魄去。不可以居。
多くの鳥が翔んでいく中、大きく怪しいのがいる。九身にして頭無く、魂は驚き魄は去って、居ることもできないほど。

 まずは漸からいきます。

漸:女帰吉、利貞。
彖曰:漸、之進也。「女帰吉」也、進得位、往有功也。進以正、可以正邦也;其位剛得中也。
此文轉以次相釋也。「漸」之中有進者、則「女帰」之「吉」也、而利於正。正者孰謂?謂「得位」而「有功」、「可以正邦」者也。其「得位」者何也?「剛中」者也。由此観之、女則二與四;所帰則五也。

漸:娘が嫁ぐのに吉、正しいことに利がある。
彖曰:漸はすすんでゆくこと。「娘の嫁ぐのに吉」と云うのは、進む(嫁ぐ)のは位を得ていて、往きて功があるもの。進んでいって正しくて、邦も正すほどのもの。その位は剛が中にある。
この文は少しずつ深いところに入るように説いているもの。「漸」の爻には進んでいく(嫁いでいく)ものがあって、それが「娘の嫁ぐのに吉」ということ、ちなみにそれは正しいことに利がある。「正しい」とは何かを云うと、嫁ぐ先が「位を得ていて」「往きて功がある」もの、「邦を正すほど」のもの。その「位を得ている」とは何かと云うと、「剛が中にある」こと。なので、娘は六二と六四、嫁ぐ先は九五。

 これをみると、漸の主役は六二・六四・九五で、それ以外は端役みたいな雰囲気が伝わってきますが、『東坡易伝』の独特なところは漸の六爻を「水に居るもの(陰爻:初・二・四)」と「陸に居るもの(陽爻:三・五・上)」に分けていて、さらに応と比の関係でその爻辞を読んでいます。

初六:鴻漸于干、小子厲。有言、無咎。
「鴻」、陽鳥而水居、在水則以得陸為安、在陸則以得水為楽者也。故六爻雖有陰陽之異、而皆取於鴻也。初六、鴻之在水者也、遠則無応、近則遇二、以陰適陰、故曰「鴻漸于干」。干、水涯也。両陰不能相容、故為「小子」之所「厲」、以至於「有言」。雖然其所適非志於利也、則未至於六三之凶、「無咎」可也。

六二:鴻漸于磐、飲食衎衎、吉。
六二、鴻之在水者也。近則遇三、遠則遇五、無適而不得其欲、故擇其尤可恃者従之。二之従三也、雖近而難信;其従五也、雖遠而可恃。二陽皆陸也、在陸而尤可恃以安者磐也、九五之謂「磐」。六二知五之可恃、不漸於三而漸於五、則食且楽如是。「衎衎」、楽也。「素飽」、徒飽也。夫飲食何為若是楽也?豈非以五之足恃而不徒飽歟?苟為徒飽而已、則雖三可従;夫苟従三、則飲食未終而憂継之矣。

九三:鴻漸于陸、夫征不復。婦孕不育、凶。利禦寇。
九三、鴻之在陸者也、而上九非其応、故曰「鴻漸于陸」。無応於上而近於四、見四之可欲、則離類絶朋而趨之、故曰「夫征不復」。六二之従我、非正也、将視我而進退者也。上之所為、下必有甚者、九三適四而不反、則難以令於二矣。故曰「婦孕不育、凶。」四、順於五者;而三寇之、言「禦寇」之利、以明三之不利也。

六四:鴻漸于木、或得其桷、無咎。
六四、鴻之在水者也。近於五而非其応、故曰「鴻漸于木」。木生於陸、而非鴻之所安也;鴻之為物也、足不能握、其「漸於木」而「無咎」、蓋得其大而有容如桷者焉、九五之謂也。「或」者、幸而得之之辞也。無応而従非其配、非「巽」順、何以相保乎?

九五:鴻漸于陵、婦三歲不孕、終莫之勝、吉。
九五、鴻之在陸者也、進而遇上九。上九、陵也。陵者、陸之又高者也;進而之陵、動乎無嫌、故六二之為「婦」也、「三歲不孕」而終莫之勝。夫以陸之陵、以為不得其願矣、而婦為之貞如此、則願孰大焉。故曰「進以正、可以正邦也。」不求之人而求之身、雖服天下可也。

上九:鴻漸于陸、其羽可用為儀、吉。
上九、鴻之在陸者也。上無所適、而三非其応、故曰「鴻漸于陸」。漸有三陽、其二為陰之所溷、非其有応、則近而慕之。惟上九不然、夫無累於物、則其進退之際、雍容而可観矣。

初六:鴻は干(岸)にすすむ。小さいものに厲(悪く思われる)。言はあっても、咎はない。
「鴻(大きい雁)」は、陽鳥(渡り鳥)で水に居る鳥。水に居るときは陸を得て安らかにして、陸に居るときは水を得て楽しんでいる。なので六爻は陰陽の違いがあっても、皆な鴻を喩えにしている。初六は、水のところにいる鴻で、遠くには応じるものもなく、近くには六二がいるので、陰(初六)が陰(六二)に往くことになり、「鴻は干(岸)にすすむ」という。干は、水涯(岸)のこと。二つの陰は相い容れないので、「小子(陰)」の「厲(悪く思う)」ことになり、「言がある」ことになる。そうはいっても利を求めて六二に往くわけではないので、六三の「凶」ほどではなく、なので「咎なし」で済むことになる。

六二:鴻は磐(しっかりした磐)にすすむ、飲食は衎衎(楽しい)、吉。
六二は、水の上にいる鴻。近くでは九三に遇い、遠くでは九五に遇い、どちらかに行かなければ番になれないので、頼れそうな方を選んで往くことになる。六二が九三に従うのは、近いと云っても信じがたい面があり、九五に従うのは、遠いと云っても頼りになる。二つの陽は皆な陸に居て、陸でもっとも頼りになって安らかなのは磐(しっかりした磐の上)なので、九五のことを「磐」と云う。六二は九五が頼りになるのを知っていて、九三に往かずに九五に従えば、食べものもあって楽しい。「衎衎」は楽しいこと、小象伝の「素飽」は、徒飽(ただ食べ物だけがあること)。飲食はどのようにして楽しくなるのかと云えば、九五の頼るべくしてただ食べ飽きるだけでない故。もし食べ飽くるだけだったら、九三でもいいのだが、もし九三に従えば、飲食が終らないうちに憂いがやってくる。

九三:鴻は陸にすすむ、夫は往きて帰らず。妻も孕んで育てず、凶。攻めてくるのを禦ぐと良い。
九三は、陸に居る鴻で、上九が応じていないので、「鴻は陸にすすむ(今いるところから動かない)」と云う。上九に応じず六四に近いので、六四に行くべきだと思って、仲間(陸にいる鴻たち)を捨てて六四に往く、故に「夫(九三)は往きて帰らず」。六二が私(九三)に従っていると、それも正しくない(六二は九五に従うべき)ので、六二もきっと私をみて身の処し方を決めることになる。上のすることは、下も必ずもっと甚しくずるので、九三が六四と遊んで帰らないと、六二がそうなるのを抑えるのも難しい。なので「妻(六二)も孕んで育てず、凶」と云う。六四は九五に従っているものなので、九三が入り込もうとすると、「攻めてくるのを禦ぐ」のに良いといって、九三が不利になる。

六四:鴻が木にすすむ、もしかすると桷(垂木)の中に入れるかも。咎はない。
六四は水の上にいる鴻。九五に近くて応じている鴻はいないので、「鴻は木にすすむ」と云う。木は陸の上に生えていて、鴻が休める場所ではない。鴻の足は、何かを握るようになってないが、「木にすすんで……咎はない」のは、おそらく大きくて桷(垂木)のようなものに入れることがある為で、それは九五のこと。「或」の字は、上手くいくと・運が良ければ(或いはそういうこともある)の意。応じてなくて正しい相手でもないときに、穏やかに順ってないと、桷に入れてもらえない。

九五:鴻は陵(陸の高いところ)にすすむ、妻は三歲孕まず、それでも折れない。吉。
九五は陸にいる鴻で、上にすすんで上九に逢いに行く。上九は、陵(丘のこと)。陵は、陸のさらに高いところ、すすんでいって陵に行くのは、動いて疲れないこと。なので、六二が九五の妻になると、「三歲孕まず」して、それでも折れることはない。夫鴻は陸からさらに陵に往くので、妻(六二)の願いは叶わないのだが、六二は思いが変わらずにいるので、その願いより大きいものはなく、なので彖伝「(六二は)進んでいって正しくて、邦を正すほどのもの。」人に求めずしてみずからに求めるのは、天下を服すこともできる。

上九:鴻が陸にすすむ、その羽は儀(かざり)に用いるべき、吉。
上九は陸にいる鴻。上には往くところがなく、九三は応じてないので、故に「鴻は陸にすすむ(今のところから動かない)」と云う。漸には三つの陽があり、そのうち二つは陰に溷(濁されていて)、応じるものがないときに、近くにある故に寄ってくるものもあったが、上九は物事に不累(煩わされず)、身を処すときには、雍容(ゆったりとして)美しいものがある。

 これをみると、爻どうしがかなり錯綜した関係になっているのがみえて、初六は六二、六二は九三or九五、九三は六四、六四は九五、九五は上九を慕い、さらに九五には六二と六四がいてどちらかを選び……という雰囲気で、紛然糾然として飛んでいる鴻の群れみたいな様子が浮かびます。

 この中で正と中を得ているのは六二・九五なので、この配はいいのかも知れないですが、あまりにごちゃごちゃとしている群れです。それが「蒙」になるのですが、蒙の卦は爻辞どうしの関係があまりないので、幾つかあげてみます。

蒙:亨。匪我求童蒙、童蒙求我。初筮告、再三瀆、瀆則不告。利貞。
彖曰:蒙、山下有険、険而止、「蒙」。「蒙:亨」、以亨行時中也。「匪我求童蒙、童蒙求我」、志応也。「初筮告」、以剛中也;「再三瀆、瀆則不告」、瀆蒙也。蒙以養正、聖功也。
蒙者、有蔽於物而已、其中固自有正也。蔽雖甚、終不能没其正、将戦於内以求自達、因其欲達而一發之、迎其正心、彼将沛然而自得焉。苟不待其欲達而強發之、一發不達、以至於再三、雖有得、非其正矣。故曰「匪我求童蒙、童蒙求我。」彼将内患其蔽、即我而求達、我何為求之?夫患蔽不深、則求達不力;求達不力、則正心不勝;正心不勝、則我雖告之、彼無自入焉。故初筮告者、因其欲達而一發之也。「再三瀆、瀆則不告」者、發之不待其欲達、而至於再三也。「蒙、亨、以亨行」者、言其一通而不復塞也。夫能使之一通而不復塞者、豈非時其中之、欲達而一發之乎?故曰「時中」也。聖人之於蒙也、時其可發而發之、不可則置之、所以養其正心而待其自勝也、此聖人之功也。

蒙:上手くいく。私が蒙いものを求めるのではなく、蒙いものが私を求める。初めて占ったときは告げるが、何度も占うと瀆(汚れていくので)、瀆(汚れてしまえば)告げなくなる。正しいことによい。
彖曰:蒙は、山の下に険しいものがあって、険しくて止められていることを、「蒙(くらい)」と云う。「蒙:上手くいく」とは、上手くいく行いが時を得ていること。「私が蒙いものを求めるのではなく、蒙いものが私を求める」とは、志が応じること。「初めて占ったときは告げる」とは、強いものが内にある占いなので。「何度も占うと汚れる、汚れると告げなくなる」とは、蒙いものを汚してしまうため。蒙くても正しいものを養うのは、聖なる功。
蒙は、物を蔽われているだけで、内には正しいものがある様子。もし蔽われること甚しくても、ついにはその正しさを埋めることはできないので、内から奮い立ってみずから達することを求め、達したいとしているときに一たび發(教えれば)、その正しい心を迎え入れて、蒙いものは沛然(どばっと)一気に知っていく。もしまだ知りたいと思ってないときに無理して教えれば、一たび教えても分からず、二度三度教えることになり、分かるようになっても、正しいやり方ではない。故に「私が蒙いものを求めるのではなく、蒙いものが私を求める」と云う。蒙いものは内にはその蔽われていることを患(憂いて)、私のところに教えてほしいと求めるので、私が何かを求めるわけではない。その蔽われるのを患うことが深くないと、知りたいと努めないので、知りたいと強く思わないと、正しい心が蒙さに勝てず、正しい心が蒙さに勝てないと、たとえ私が告げても、あちらは受け入れない。なので初めて占ったときは告げるのは、知りたいと思っているのに合わせて一回教えること。「何度も占えば汚れる、汚れれば告げない」とは、知りたいと思ってないのに教えてしまうと、何度も教えることになるので。「蒙、上手くいく、上手くいく行いを以てする」とは、一たに通じて塞らせないようにすること。一たび通じて塞らないようにさせるのは、時を得ていないと、一回で教えることはできない。なので「時を得ている」と云う。聖人が蒙に教えるとき、時が至っていれば教えて、そうでないなら置いておき、その正しい心を養って知るに堪えるようにしてから教えるのが、聖人の功になる。

六四:困蒙、吝。
実、陽也。

六五:童蒙、吉。
六五之位尊矣、恐其不安於童蒙之分、而自強於明、故教之曰「童蒙、吉」。

上九:撃蒙、不利為寇、利禦寇。
以剛自高、而下臨弱、故至於用撃也。發蒙不得其道、而至於用撃、過矣。故有以戒之。王弼曰「為之捍禦、則物咸附之。若欲取之、則物咸叛矣。」

六四:蒙くて困る、惜しいところ。
小象伝に「困蒙之吝、獨遠実也(蒙に困っていて惜しいのは、この爻だけ実に遠いから)」とあって、「実」は陽爻のこと(蒙の六四は、両隣が陰爻なので)。

六五:童の蒙さ、吉。
六五の位は高く、童の蒙さの身に安んじないで、みずから何とか知ろうとするので、それに教えることになり「童の蒙さは、吉」と云う。

上九:蒙を撃(叩いてしまう)、攻めるのはよくない、攻められるのを禦ぐのによい。
陽爻が高いところにいて、下には弱いもの(蒙:陰爻)があり、それ故に蒙を叩いてしまう。蒙に教えるのに道を得ておらず、叩くようになってしまうのは、過ち。なのでそれを戒めている。王弼は「蒙のために捍禦(周りから攻められるのを禦いであげれば)、物は感じ取って従ってきて、蒙を攻めて何かを取ろうとすれば、蒙いものも何かを感じて離れていく」と云っている。

 こんな感じで、蒙はけっこう分かるまで放っておくというか置いておく雰囲気のある卦だったりします。ちなみになのですが、漸之蒙の詩で「衆鳥所翔(多くの鳥が飛んでいる中)」という句は、漸の爻辞にも似ていて、詩全体ではその鳥の正体もよく分からず、黒々としていて遠くからみると頭が無いようにも身体が九つになっているようにも見えるけど、それが本当に怪鳥なのかふつうの雁が集まってそう見えるのか分からなくて不安で不穏な感じが、漸(あちこちで入り乱れながら斉整な様子になっていくとき)から蒙(それでも分かりそうで分からない、もやもやした不穏さと仄めかし)という質感なのかもです。

 どうでもいいですが、『周易』の文章については、江戸時代の斎藤拙堂『拙堂文話』巻六に

『易』象彖之文奇古、説卦雑卦高古、獨繋辞文言之文、古而流鬯可学矣。
『周易』の象伝・彖伝の文は奇妙で古めかしく、説卦伝・雑卦伝の文は格調高くて古めかしいが、繋辞伝と文言伝の文は古めかしいけど流麗で暢やかで学ぶべき。

のようにあって、それぞれの例をあげていくと

象伝:地上有水、比。先王以建萬國、親諸侯。(地上に水があるのが、比。先王は萬國を建てて、諸侯と親しむ。)

彖伝:柔得尊位、大中而上下応之、曰大有。其德剛健而文明、応乎天而時行、是以元亨。(柔は尊い位を得ていて、大いに中して上下もこれに応じているのを「大有」と云う。その德は剛健にして文明、天に応じて時とともに行い、それ故に大いに上手くいく。)

などの象伝・彖伝の文は語彙が素朴で古風な印象だけど、その結びつきは奇怪にみえて(それでいて裏には省筆された易の理論があるようで)奇妙で古めかしく、

説卦伝:雷以動之、風以散之、雨以潤之、日以烜之、艮以止之、兌以説之、乾以君之、坤以蔵之。(雷はそれを動かし、風はそれを散じ、雨はそれを潤し、日はそれを照らし、艮はそれを止め、兌はそれを喜ばせ、乾はそれに君となって、坤はそれを蔵している。)

雑卦伝:剥、爛也。(剥というのは、爛れたものが朽ち落ちていくこと。)

のような説卦伝・雑卦伝は古朴な語彙で大きいことを高邁な雰囲気で語っているので、格調高くて古めかしく、

繋辞伝:精気為物、遊魂為變、是故知鬼神之情状。與天地相似、故不違。知周乎萬物、而道済天下、故不過。旁行而不流、楽天知命、故不懮。安土敦乎仁、故能愛。範圍天地之化而不過、曲成萬物而不遺、通乎昼夜之道而知、故神无方而易无體。
精気は物を為し、遊魂(ふわふわと漂う魂)は變を為す、その故に鬼神の情状も知ることができて、天地と似ているので違わず、萬物を遍く知っていて、道は天下に通じているので、過たず。傍らにも流れ行いて流れ落ちてしまうことはなく、天を楽んで命を知れば、懮うこともなく、土に安らかに居て仁を敦くする故に、人や物を愛せる。天地の変化を範圍(含み込んで)過たず、萬物を曲成(様々に象って)遺さず余さず、昼夜の道に通じて色々なことを知っていて、故にその神は无方にして『易』は无體(留まりたる形無し)。

文言伝:君子「黄」中通理、正位居體、美在其中而暢於四支、發於事業、美之至也。
(坤 六五「黄色い裳、大いに吉」について)君子は「黄色」の中にして理に通じ、位を正して身を居させるので、美はその中にあって四肢に流れて、事業(すること)に現れる、美の至り。

のように、語彙は古朴にして古めかしい世界観を書いているけど、その書きぶりはさらさらと委曲するようで滑らかなので、彖伝・象伝・雑卦伝・説卦伝などよりは学びやすく使い道もある文体……という意味だと思います。

 さらに、民国期の胡適「易林断帰崔篆的判決書」に、明代の文芸家 鍾惺の評を引用して

其語似讖似謡、似諢似隠、似寓似脱、思想幽情、深文急響。(これがちょっと色々出典調べたけど分からなかった……)

その言葉は、讖(予言)のようで謡(わざうた)のようで、諢(ざれうた)のようで隠(隠語)のようで、寓(寓意がある)ようで脱(字足らず)のようで、思想と幽情は、深い文と急な響き。

のような美しさがあると云っていて、この「予言のような謡歌のような戯れ歌のような隠語のような、寓意のような字足らずのような……」って、『周易』の中ではもっとも爻辞に似ている気がするのです。

 爻辞の意味は、注釈によってかなり解釈が分かれるところになっていて、その書きぶりは奇古・高古などを越えて、古怪絶俗(古めかしくて怪しいこと人を絶していて)・突兀瑰邁(ごつごつとしてきらぎらしく飛躍が多い)とでもいう雰囲気で、それがある意味では『易林』の詩の印象にすごく近い。

 たとえば、坤の爻辞で

初六:霜を履んでいると、堅い冰がやって来る。
六二:直・方・大、習わなくても利はある。
六三:彩を含んでいて正しいと云える。或いは王事に従い、何も成さずして終わり方は良い。
六四:囊(ふくろ)を括る、咎はないけど、誉れもない。
六五:黄色い裳、大いに吉。
上六:龍が野で戦う、その血は黄色と黒。

などはほとんど連続性も規則性もみえない組み合わせになっていて、これにそれっぽい解釈をつけたのが小象伝だったりするのですが(これがまた走り書きのメモみたいな解説なので、その解釈を巡って注釈がいろいろ分かれている……)、その小象伝の解説(あるいは爻辞の裏にある理論)を隠している状態で書かれているのが爻辞だとすると、『東坡易伝』では一つの卦の意味を「六つの爻辞の関係性」に依って解釈している感があり(彖伝は爻辞の中で幾つかを取り上げて解説しているものなので、爻辞に比べるとまだ意味がわかる文章になっている)、萃之比などは爻と爻の関係で読まないと通じない面があって(他にも未済之賁・謙之井・臨之頤なども爻辞を入れた方が神仙らしさが出る)、『易林』の詩は「裏にある理論を隠して比喩だけを書いているような奇文(爻辞)」をさらに「或る卦の六爻ともう一つの卦の六爻の関係を、爻辞的に書いている」のかもです。

(すごくわかりづらい話ですが、例えば頤はそれぞれの爻が近くにいる爻とくっついたり遠くの爻のことを色々貶したり褒めたりしているのを「養う(頤)」という意味でまとめられる……というのが爻に注目した解釈で、それが爻どうしが下のものから上のものに何かを捧げているような「損(下のものを減らす)」になるとどうなるのか、みたいなのを爻どうしの関係がどういう雰囲気になるかで描写しているのが『易林』という意味です。もっとも、卦の意味は大象伝では外卦・内卦の組み合わせで読んでいたり、序卦伝では生成変化の順番で読んでいるので、爻に注目する以外の読み方もあるのですが)

 特にこの「多くの鳥が飛んでいる中で」は、ほとんど漸の爻辞にも似ていて、その不穏でよく分からないまま終わってしまう意味は、それぞれの爻どうしが隠晦し合う蒙のようでもあり、それを漸の鴻たちであらわすと「鴻たちが正しい配合を求めて飛び交っているけど、それは怪しい妖鳥の如く不穏な隠しあい・仄めかしに満ちている」という関係だとすると、『易林』の詩がどのように作られたか、何となく想像できる気がするのですが(これはまだ分からない面も多いけど)。

 というわけで、つぎの詩を読んでいきます。あと、『易林』の詩はけっこう重複がある中でも一部の字が違うときがあって、今回の例をみる限り、わざと違う字を用いて詩の意味を変えているらしいです。

頤之損・剥之大有

庭燎夜明、追古傷今。陽弱不制、陰雄生戻。
庭燎(にわび)は夜に明るく、古を追って今を傷む。陽は弱くして制せず、陰は雄(熾んにして)戻(不祥)を生む。

 この詩は、頤之損では最後の句が「陰雄坐戻」になっていますが、剥之大有では「陰雄生戻」になっていて、「戻(不祥)を生む」のほうが通りがいいので、おそらく「坐」は「生」の誤字です。

 この頽廃的な美しさのある詩を読んでいくのですが、頤の爻辞は既に引用してあるので略します(全体的な意味としては、それぞれの爻が養ってくれるものを求めている様子です)。

 なので、損の解釈をみていきます。

彖曰:「損」、損下益上、其道上行。損而有孚、「元吉、無咎」。
自陽為陰、謂之「損」;自陰為陽、謂之「益」。兌本乾也、受坤之施而為兌、則損下也。艮本坤也、受乾之施而為艮、則益上也。惟益亦然、則損未嘗不益、益未嘗不損、然其為名、則取一而已。何也?曰:君子務知遠者大者、損下以自益、君子以為自損。自損以益下、君子以為自益也。
損下而下信之、必有道矣。孟子曰「以佚道使民、雖労不怨;以生道殺民、雖死不怨殺者。」使民知所以損我者、凡以益我也、則信之矣。損者、下之所患也、然且不顧而為之、則其利必有以軽其所患者矣。利不足以軽其所患、益不足以償其所損、則損且有咎;是故可以無咎者、惟「元吉」也。上之所以損我者、豈徒然哉、蓋「吉」之「元」者也、如此而後「無咎」。

彖曰:「損」、下を損して上を益する、その道は上に行く。損なっても信があれば、「大いに吉、咎なし」。
陽から陰になるのを、「損」と云い、陰から陽になるのを「益」と云う。山沢損の兌は乾に基づき、坤から一陰を受けて兌になっていて、これが下にあった乾を損うこと。山沢損の艮は坤に基づき、乾の一陽を受けて艮になっていて、これが上にあった坤を益すること。風雷益もまたそのようにできていて、そうなると山沢損とは云っても益する面もあり、風雷益とは云っても損する面もあって、それでいて名づけ方がそうなっているのは、一面を取っているだけ。何故かと云えば「君子は努めて遠大なものを取るので、下を損なってみずからを益するのは、君子にとっては損。みずから損って下を益するのは、君子にとっては益。
下を損って下のものから信じられるのは、必ず有道の人だけ。『孟子』尽心上に「佚道(休ませる道)によって民を使うなら、民は労しても怨まず、生道(生かすための道)によって民を殺すなら、民は死んでも殺してきた者を怨まない」とあって、民は私(民たち)を損なってきたものは、私(民たち)を益そうとしていたと知っており、それ故信じている。損は、下にとっては憂うことなのに、それを顧みずして行うのは、その利が必ず憂うことを越えているから。利が憂うことを越えていないと、益は損なったものを埋め合わせるのに足らず、損にして咎もあり、なので咎がないのは、「大いに吉」なときだけ。上のものが私を損うのは、ただ損なうのではなく、きっと「吉が大きい」故なので、そんなときだけは「咎がない」。

初九:已事遄往、無咎、酌損之。
彖曰「損益盈虚、與時偕行。」則損益視盈虚以為節者也。初九陽之未損、則方盈也;六四陰之未益、則猶虚也。下方盈而上猶虚、則其往也不可後矣、故我雖有事、當且已之而遄往也。其往也自我、則損之多少我得酌之。若盤桓不進、迫於上之勢而後往、則雖欲酌之、不可得矣、其損必多。故勢不可以不損者、惟「遄往」、可以「無咎」。

九二:利貞、征凶。弗損、益之。
初九已損矣、六四已益矣、則九二之於六五、不可復往、故「利貞、征凶」。其跡不往、其心往也、故「弗損、益之」。言九二以無損於己者益六五也。兌之三爻、未有不以益上為志者、初九跡與心合、故曰「尚合志也」;九二則其心向之而已、故曰「中以為志也」。夫以損己者益人、則其益止於所損、以無損於己者益人、則其益無方。故損之六三・益之六四、皆以損己者益人;而損之九二・益之九五、皆以無損於己者益之。以其無損於己、故受其益者、皆獲「十朋之亀」也。

六三:三人行、則損一人。一人行、則得其友。
兌之三爻皆以益上為志、故曰「三人行」;卒之損己以益上者、六三而已;故曰「損一人」、且曰「一人行」也。「友」、九二也。六三以身徇上、使九二得以不征、此九二之所深德也、故曰「一人行、則得其友」。以心言之、則三人皆行;以跡言之、則一人而已。君子之事上也、心同而跡異、故上不疑;苟三人皆行、則上且以我為有求而来、進退之義軽矣。

六四:損其疾、使遄有喜、無咎。
「遄」者、初九也。下之所損者有限、而上之求益者無已、此下之所病也。我去是病、則夫遄者喜我矣。自初言之、「已事遄往」、則四之求我也寡、故「酌損之」;自四言之、「損其疾」、則初之従我也易、故「遄有喜」。

六五:或益之、十朋之亀。弗克違、元吉。
六五者、受益之主、而非受益之地也。以受益之主而不居受益之地、不求益者也。不求益而物自益之、故曰「或」。「或」者、我不知其所従来之辞也。「十朋之亀」、則九二弗損之益也;亀之益人也、豈有以予人、而人亦豈有所取之?我亦效其智而已。六五之於九二、無求也、「自上祐之」。而二自效其智、雖欲避之而不可、以其不可避、知其非求也、故「元吉」。

上九:弗損、益之、無咎、貞吉、利有攸往。得臣、無家。
上九者、受益之地、不可以有損。而六三之德不可以無報也、故以無損於己者益之、則大得其志矣。六三忘家而徇我、我受其莫大之益、苟安居而無所往、則是以其益厚己而已。故「利有攸往」、然後有以受之而無愧也。

初九:事を已めて遄(速やかに)往く、咎はない、酌み取ってこれを損う。
彖伝に「損益は盈虚にして、時とともに合わせて行う」とある。これは損益は盈虚をみて節(どれくらいするかを決める)こと。初九の陽はまだ損われず、まさに盈ちているときで、六四の陰はまだ益されず、ちょうど虚のとき。下がまさに盈ちていて上が虚なときは、その往くことは遅れてはならず、故に私(初九)は何かやっている事があっても、それを已めてすぐに往くべき。その往くことがみずからだと、その損することは多少はみずから酌み取って選べるが、もし盤桓(のろのろとして)往かないと、上から迫られてのちに往くことになり、どれくらい損するか酌み取りたいと思っても、それはできず、その損することは必ず多くなる。なので、いずれにしても損することは避けられず、ただ「速やかに往けば」、「咎なく」できる。

九二:正しいのに良い、征けば凶。損わずして、これを益する。
初九は既に損していて、六四も既に益していて、九二と六五は、さらに往くことはならず、なので「正しいのに良い、征けば凶」と云う。その身は往かずして、その心は往也く、なので「損わずして、これを益する」と云う。九二はみずからを損なわずして六五を益することを云っていて、兌の三つの爻は、いずれも上を益することを志しているが、初九は身と心が合わさっていて、故に小象伝に「志と合っている」と云い、九二はその心が往くだけなので、小象伝に「中では志を為している」と云う。みずからを損って人を益するのは、その益は損われた分だけに止まるが、みずからを損わずして人を益しているのは、その益は限りないほど。なので、損の六三と益の六四は、いずれもみずからを損なって人を益しており、損の九二と益の九五は、どちらもみずからを損わずして人を益している。みずからを損わないので、益を受けるものは、皆な「十朋の亀(十人の朋になる亀)」を得る。

六三:三人で行けば、一人を損する。一人で行けば、その友を得る。
兌の三つの爻は皆な上を益するのを志にしているので、「三人で行く」、それを率いてみずから損して上を益するのは六三だけ、なので「一人を損する」、さらに「一人で行く」ことになる。「友」というのは、九二のこと。六三は身を以て上に従うので、九二は往かなくて済むが、これも九二が深い德を持っているから、なので「一人で行けば、その友を得る」。心でみれば、三人で行っていて、身でみれば、(六三は)一人で行っている。君子が上に事えるとき、心は同じくして身は異なり、故に上も疑わず。もし三人で皆な行けば、上のものは私たち(兌の三爻)が求めるものがあって来たのだと思って、進退の義は軽くなる。

六四:その疾を損なう、遄(速やかにするもの)に喜びがあり、咎なし。
「遄(速やか)」とは、初九の爻辞。下の損することは限りあり、それでいて上の益を求めることは限りなく、これは下が病み憂うこと。私(六四)はこの病を去って、速やかにするものは私のことを喜ぶ。初九からみれば、「やっている事を已めてすぐに往く」と、六四が初九から求めるものは少ないので、「酌み取ってみずから(初九)を損する」、六四からみれば、「その疾を損する」とは、初九があっさりと私(六四)に従ってくれること、なので「すみやかなもの(初九)には喜びがある」。

六五:或るものが益するに、十朋の亀を以てする。違うことなく、大いに吉。
六五は、益を受けるものの主にして、益を受ける地ではなく、益を受ける主なのに益を受ける地に居ないとは、益を求めないもの。益を求めずして物がみずから私(六五)を益する、なので「或るものが」と云う。「或るもの」とは、私(九五)は益してくれるものが何処からやってきたか知らないこと。「十朋の亀」とは、九二が損せずして益すること。亀が人を益するとき、人に何かものを与えることはなく、人も受け取ることはなく、私もその智に倣うだけ(亀甲の占いのこと)。六五は九二から何も求めず、小象伝には「上からは祐(助けられる:何も取られない)」とある。九二はみずからもその智に倣い、六五を益するのは避けられなくても、何かものを求められているわけではないと知っているので、「大いに吉」。

上九:損さず、これを益す、咎なく、正しいものに吉、往く先に利もあり。臣を得るが、家がない。
上九は、益を受ける地なので、損われてはいけない。それでも六三の德には報いないわけにはいかず、故にみずから(上九)を損わずして六三を益するのは、上九の志を大いにすること。六三は家を忘れて私に従っているので、私はとても大きい益を受けていて、もし安らかに過ごして何もしないと、みずからを益しているだけになってしまい、故に「往く先に利がある」と云い、その後に益を受けてもそれに愧じないことになる。

 頤の爻は、それぞれが養ってくれるものを求めている様子(あるいはやって来たものを養っている様子)だとすると、損は上のものが下のものから益される様子です。上のものが下のものから何かを貰うのは「大いに吉(何か下のものを安んじる意味があるとき。例えば堤を作るときの人手など)」のときだけ咎がないです。そして、頤から損になるときは、変爻が頤の六二だけなので、その爻辞が頤之損の様子をあらわしているとすると

六二:顛頤。拂経于丘頤、征凶。
顛頤(さかしまに養う)。拂(叩きながら)丘頤(むなしく養っているもの)を通り過ぎる、征けば凶。

となっていて、『東坡易伝』の解釈では、六二は下にある初九から顛倒して養われていたが、もし丘頤(養う主の位にありながら、養えない六五)を拂(叩きつつ)通り過ぎれば、そのようにして往くのは凶、となっています。

 頤(それぞれの爻が養ったり、養われたりしている)のが、損(上のものが下のものから何かをもらう)になるとき、六二は下で養われていたのを離れて上に何かを差し出して、六五の丘頤(むなしい養い)を虐げて、宮中に入るような雰囲気かもです。

 なので、その六二を引き入れると、百官の権(六五の位)を瞀亂して、利を趨い奢を好み、寶床寶帳の或いは隠し或いは開きて瑰麗妖艶なことは近古にないほどで、瓊燭の朝々にして光溢れて、左右を照映するような宴に花藥匹溢として臨春閣の下に叢がり生えて微風の至れば欄檻・縣楣・壁帯・窓牖の間に靡靡漫衍するような雰囲気、あるいは綺褥燦爛として、何かあったときにはその後庭に疏條が為されて宮中に養われるものたちは内外の宗族をつれて多く蔓衍り、賞罰无常にして庭燎夜明るく、玉樹の歌は闌にして海雲黒く、濃香の昏々たる夢裡にあって古を追いて……みたいな雰囲気です(庭燎は、『周礼』秋官・司烜氏に「凡國之大事、共墳燭庭燎(およそ国の大事のときには、司烜氏は墳燭・庭燎を供する)」とあって、鄭玄は「墳は大きいこと。門の外に立てるのを大燭(墳燭)、門の内に立てるのを庭燎という」としているので、この宴は宮中でされていて、めろめろと妖しい雰囲気に満ちています)。

 剥之大有のときは「剥は多くの陰が陽を削っていく様子。その中でも特に重い意味をもつ爻は六五と上九で、六五は多くの陰たちを後宮に引き入れておくこと、上九は群陰に推されて上に飾られている位。大有は六五を除いたすべての爻が陽なので、陽爻の中で一人だけ周りの爻を信じて動かない陰爻がいるのは無備なこと甚しいけど、それ故に周りのものたちに信じられて、狎客貴妃宮女宦者などと哀婉な雰囲気に浸っている様子」だったので、ある意味ではすごく似ている気がします。

 強いて違いを云うなら、剥之大有のときは群陰が上がってきたのを宮中に引き入れて信じ過ぎるといつの間にか末世の頽廃になりつつある様子、頤之損のときは利を求めているものを引き入れてしまうと、上のものはいつの間にか何かを貰ったと思っていながら位以上の奢侈にされている様子です。

萃之比・益之復

 そんな感じで、萃之比と益之復です。萃之比については「蘇氏易林」の記事で既に書いていて、これはある意味では『易林』が爻辞を元にしているのでは……と思うきっかけになった詩なのですが、大きく云うと

萃:いくつかの派に爻が萃(聚まっている)様子
比:すべての陰爻が九五に比(親しんでいる)様子

のようになっていて、萃の意味を「幾つかの派に分かれながら聚まる」とするのは、それぞれの爻の動きにもとづく解釈なので、それ故いくつかの分派が糾合されて一つになったとき

德施流行、利之四郷。雨師灑道、風伯逐殃。巡狩封禅、以告成功。
德は施され流れ行き、四方(よも)の郷を利す。雨師は道を灑(清め)、風伯は殃いを逐い、巡狩しては封禅し、以て功を成すを告げる。

みたいな意味が出てくる(萃も聚まる、比も親しむだと、改めて一つになる雰囲気がない)という話です。

 というわけで、益と復の爻辞を読んでみます。

初九:利用為大作、元吉、無咎。
益之下、損之上也、故知損、則知益矣。逆而観之、益之初九、則損之上九也、自初已上、無不然者。惟其上下内外不同、故其跡不能無少異。若所以盡初之情、處事之宜、則損益一也。損之上九、益之初九、皆正受益者也、彼之所以自損而専以益我者、豈以利我哉?将以厚責我也。我必有以塞之、故上九「利有攸往」、而初九「利用為大作」。上之有為也、其勢易有功、則其利倍;有罪則其責薄、故損之上九僅能「無咎」而已、正且吉矣。下之有為也、其勢難有功、則利帰於上、有罪則先受其責、故益之初九至於「元吉」、然後「無咎」。何則?其所居者、非厚事之地也。

六二:或益之、十朋之亀。弗克違、永貞吉。王用享于帝、吉。
益之六二、則損之六五也。六五所獲之「亀」、則九二「弗損」之「益」也;六二所獲之「亀」、則九五「恵心」之益也。是受益者臣也、則以「永貞」於五為「吉」;王也、則以「享」帝為「吉」、皆受益而不忘報者也。

六三:益之、用凶事、無咎。有孚中行、告公用圭。
益之六三、則損之六四也。「或益之」者、人益我也;「益之」者、我益人也。六四之於初九、「損其疾」以益之;六三之於上九、「用凶事」以益之、其実一也。君子之遇凶也、悪衣糲食、致觳以自貶、上九雖吾応、然使其自損以益我、彼所不楽也。故六三致觳以自貶、然後能「固」而「有之」。彼以我為得其益而不以自厚也、則信我而来矣、故曰「有孚中行」。「益」以六二為王、則初與三皆得為公、告者有以語之「益之」也。禮之用圭也、卒事則反之、故圭非所以為賄、所以致信也。上九之益六三、以信而已、非有以予之;而六三亦享其信而無所取也、則上九楽益之矣。

六四:中行、告公従、利用為依遷國。
益之六四、則損之六三也、皆以身為益者也。六四「中行」而益初九、豈特如上九用圭而已哉。非徒告之、乃以身従之。夫能損身以徇人者、此以益為志也。初九本陰也、六四本陽也、而相易也;故初九為「遷國」也、六四自損而初受其益、初九之遷、六四資之、故初九「利用」、依我而遷也。

九五:有孚恵心、勿問元吉。有孚、恵我德。
益之九五、則損之九二也。「恵」之以「心」、則恵而不費、九二益之以「弗損」之益、而九五恵之以不費之「恵」、其実一也。夫不費之恵、其有擇哉?故「勿問元吉」。我惟信二也、故二信我;我惟德二也、故二德我。「有孚、恵我德」、「永貞」之報也。

上九:莫益之、或撃之、立心勿恒、凶。
益之上九、則損之初九也。二者皆不楽為益者也、故「損其疾」、「用凶事」而後能致之。初九在下、勢不得已、故「已事遄往」;而上九則益不益在我者也、且損上益下、君子之所楽、而小人之所戚也、故至於上九、特以「莫益」、「勿恒」之「凶」戒之。「莫益之」者、非無以益、我固曰「莫益之」;「勿恒」者、非不可恒、我固曰「勿恒」。「莫」與「勿」者、我之偏見不広之辞也、衆莫不益下所謂「恒」也、我特立是心、而「勿恒」之「凶」其宜矣。上者獨高之位、下之所疾也、而莫吾敢撃者、畏吾與也;莫益則無與矣。孔子曰「無交而求、則民不與。莫之與、則傷之者至矣。」故「或撃之」。上九之致「撃」、如六二之致「益」、徒有是心、而物自有以応之、故皆曰「或」。「或」者、物自外来而吾不知也。

初九:大きいことをするのに用いるとよい、大いに吉、咎はない。
益の下は、損の上になる。なので損を知ることは、益を知ることになる(山沢損を上下逆にすると風雷益になる)。逆からみれば、益の初九は、損の上九になり、初九より上も、皆そのようになっている。ただ、その内外上下が異なっており、故にその意味も少し違ってくる。初爻の情を尽し、事の宜いものを取ることに於いては、損も益も同じで、損の上九・益の初九は、どちらも益を受けるもので、向こうがみずから損して専ら私を益するのは、私に利を与えるためではなく、私に贈ることで責めを感じさせている。私は必ずや塞っていると感じることがあり、故に損の上九では「往くところに利あり」、益の初九では「大きいことをするのに良い」と云う。損の上九が何かするときは、その勢は功を成しやすく、その利も倍になるが、罪があったときは私への責めは薄いので、故に損は上九はわずかに「咎がない」だけで済み、正しくして吉。益の初九が何かをするときは、その勢は功為しがたく、その利は上のものになってしまい、罪があれば私が先に責めを受け、故に益の初九では「大いに吉」なときだけ「咎はない」。何故かと云えば、その居るところが、僻にして隅のところだから。

六二:或るものがこれを益する、十朋の亀。違うことなく、永く正しければ吉。王は上帝を饗なすのに用いる、吉。
益の六二は、損の六五。損の六五が得ている「亀」は、損の九二が「損わずして益した」もの。益の六二が得ている「亀」は、益の九五の「恵む心」が益したもの。益の卦では、益を受けるものが臣(六二)なので、「長く正しく」九五に仕えて「吉」になる。王は、上帝を享(饗なして)吉」と云うのは、皆な益を受けて九五(王)に報いるのを忘れないから。

六三:これを益する。凶事に用いれば、咎なし。信があって中行(程よい行い)、公に告げて圭(玉器)を用いる。
益の六三は、損の六四。「或るものがこれを益す」とは、人が私を益すること、「これを益する」とは、私が人を益すること。損の六四は初九からみると、「その疾(多く取られる憂いで病む)を損なって」益させるもの、益の六三は上九からみると、「凶事に用いる」ときにこれを益するもので、その実は同じ。君子が凶に遇うと、悪衣糲食(粗食)して、觳觫(がたがたとして)みずから貶(低くする)。上九は私に応じるとは云っても、上九みずからを損して私(六三)を益させるのは、上九としては楽しくないので、六三はみずから觳觫(がたがたとして)貶(身を低くすれば)、そのあとに「固くして益されることもあり」、上九に益されても私に財を与えようとするのではなく、我を信じて益したとして、故に「信ありて中行(程よい行い)」と云う。「益」は六二が「王(六二の爻辞にみえる。九五のことを指す)」のために益し、初九と六三は皆な「公(六三の爻辞にみえる。六四・上九のことを指す)」のために益し、告げる者(益の初~三爻)は「あなた(王公)を益す」と云う。禮に於いて圭(玉器)を用いるのは、事が終ればそれを返すので、圭は賄(贈り物)ではなく、信を示すためのもの。上九(公)が六三(臣)を益するときは、信を示すだけなので、私(六三)に圭をあげるわけではない。それでいて六三もその信を受け取ってものは取らないので、上九もそれを楽しんでますます益す。

六四:中行(程よい行い)、公に告げて従われるので、依って国を遷すのに用いるとよい。
益の六四は、損の六三。皆な身を以て益を為すもの。六四は「中行(程よい行い)」で初九を益するので、上九が圭を用いるだけなのとは異なる。ただ「あなた(初九)を益する」と告げるだけでなく、身を以て初九に従う。身を以て人に従うものは、益を為すのを志にしていて、初九は陰(虚)で、六四は陽(実)で、それが入れかわることになるので、初九は「国を遷す」ようになる。六四はみずから損して初九は益を受け、初九が遷るのは、六四が資(援けていて)、故に初九は私(六四)に依って遷るのに用いると良い。

九五:有孚恵心、勿問元吉。有孚、恵我德。
益の九五は、損の九二。恵むに心を以てすれば、恵んでも費さず、損の九二は益するときに「損わずして益し」、益の九五は恵むときに「費さずして恵む」、その実は同じこと。費さずして恵むのは、相手は決まっているので、「問うことなく、大いに吉」と云う。私はただ六二を信じ、故に六二も私を信じて、私はただ六二を徳として、故に六二も私を徳とする。「信があって、私(六二)の德に恵む」というのは、「六二が長く正しく仕える」ことへの報い。

上九:それを益さないと、或るものが叩きに来る。心を立てること常から外れると、凶。
益の上九は、損の初九。この二者はどちらも益を為すことを楽しまず、故に「その疾(多く取られる憂い)を損なって」、「凶事に用いる」ときだけ益してくれる。損の初九は下にあって、その勢は已むを得ないものがあり、故に「事を已め速やかに往く」ことになり、益の上九は益するか否かはみずから決められるので、さらに上を損して下を益するのは、君子の楽しみにして、小人の戚(悲しむ)ことなので、故に上九の爻辞では、特に「益さない」、「勿恒(常なることを何としてもしない)」のは「凶」と戒めている。「これを益さない」とは、益することがないのではなく、私(上九)は頑なに「それを益さない」と云っていること、「勿恒」とは、常(下を益するのは恒常のこと)ではないことではなく、私(上九)は頑なに「常(下を益する恒常さ)をしない」こと。「莫」と「勿」は、私が頑なに嫌がって見ていることが狭い意で、人々が下を益しているのを「恒」と云えば、私は頑なな心で、「勿恒(何としても恒なるものに従わない)」のを「凶」とするのが分かる。上九は獨り高い位にいて、下からはそのような様子を嫌がられているが、下のものが私(上九)を叩かないのは、私の位を畏れて従っているだけで、益さなければ従うものもいなくなる。繋辞伝では「交わらずして求めれば、民は従わず。従うものが居なくなれば、傷つけるものがやってくる」とある。故に「或るものが私(上九)を叩く」とある。上九が叩かれるのは、六二が益を受けるとき、九五はただ心だけがあって、それでいて物がおのずからその心に応じて益したので、「或るものが益する」と云う。「或るもの」は、その物は外から来て私はそれが何かを知らないこと。

 これをみると、益は初~三爻は臣、四~上爻は王公で、一時的に臣に何かを与えて大きいことをしてもらって、王公はその功によって上帝を祀るを得る……みたいな感じです。ちなみに、圭や労を惜しんで益さないのは凶らしいです。

彖曰:……「利有攸往」、剛長也。「復」、其見天地之心乎?
見其意之所向謂之「心」、見其誠然謂之「情」。凡物之将亡而「復」者、非天地之所予者不能也。故陽之消也、五存而不足;及其長也、甫一而有餘。此豈人力也哉?伝曰「天之所壊、不可支也。」其所支、亦不可壊也。違天不祥、必有大咎。

彖曰:……「往くところに利がある」とは、剛が長じていくこと。「復」は、天地の心がみえる。
意の向うところがみえるのを「心」、その誠然たるのが見えるのを「情」と云う。およそ物が亡んでいってさら「復する」のは、天地が味方するものでなくてはあり得ない。故に陽が消えていくときは、五つあっても足りず、その長じていくときは、一つから始まっても余りある。これは人力で出来ることではなく、『左伝』定公元年にも「天の壊すものは、支えられない」とある。天の支えるものは、壊せないものでもある。天に違うのは不祥で、必ず大きい咎がある。

初九:不遠復、無祗悔。元吉。
去其所居而復帰、亡其所有而復得、謂之復。必嘗去也而後有帰、必嘗亡也而後有得、無去則無帰、無亡則無得、是故聖人無復。初九未嘗見其有過也、然而始有復矣。孔子曰「顏氏之子、其殆庶幾乎?有不善、未嘗不知;知之未嘗復行也。」

六二:休復、吉。
「休」、初九也。以陰居陰、不争之至也、退而「休」之、使復者得信、謂之「休復」。

六三:頻復、厲、無咎。
以陰居陽、力不得抗;而中不願、故頻於初九之復也。外順而内不平者、危則「無咎」。頻、蹙也。

六四:中行、獨復。
「獨」、與初応。

六五:敦復、無悔。
憂患未至而慮之、則「無悔」。六五、陰之方盛也;而内自度其終不足以抗初九、故因六四之獨復而附益之、以自託焉。

上六:迷復、凶、有災眚。用行師、終有大敗;以其國、君凶。至于十年不克征。
乗極盛之末而用之不已、不知初九之已復也、謂之「迷復」。「災眚」者、在天之罰也。初九之復、天也;衆莫不予、而己獨迷焉。用之於敵、則災其國;用之於國、則災其身。極盛必衰、驟勝故敗。在其終也、國敗君凶。至于十年而不復者、明其用民之過、而師競之甚也。

初九:遠からずして復する、祗悔(大きい咎)はない。大いに吉。
その居るところを去って復する、その持っていたものを失ってまた得る、これを「復」と云う。かつて去ったものは必ず後になって戻ってきて、かつて失くしたものは必ず後になって得ることがあり、去らなければ帰らず、無くさなければ得ることもなく、故に「聖人は復するなし」。初九は未だその過りを見ず、それでいて復することもある。繋辞伝で、孔子は「顏回は、至りつつあるもの。不善があれば、知らないものはなく、不善を知ればまた行わない」と云っている(遠からずして復するの喩え)。

六二:復するものを休ませる、吉。
「休ませる」には、初九。六二は陰爻にして陰の位に居て、不争の至れるものなので、退きて初九を休ませれば、復するもの(初九)に信じられて、これを「復するものを休ませる」と云う。

六三:復するものに顰める、厲(危ういけど)、咎はない。
陰爻で陽の位にいて、力では抗えず、その心中では初九が復するのを願ってないので、故に初九が復するのに眉を顰める。外は順にして内は平らかならず、抗うのを危ういとすれば「咎はない」。「頻」は顰蹙のこと。

六四:中行(程よい行い)、復するものと獨り応じる。
「獨」は、初九と一人だけ応じていること。

六五:復するものに敦くする、悔なし。
憂患が至らないうちに慮えば、「悔はなし」。六五は、陰の盛りのところで、それでいて内では終いには初九に抗えないことを知っていて、なので六四が獨り初九と応じているのに従って初九を益し、みずからの身を寄せることになる。

上六:復するときに迷っている、凶、災いがある。兵を行うに用いれば、終には大敗がある。その国に用いれば、君は凶。十年経てば征きて勝たず。
極盛の末に居てそれを用いて已まなければ、初九が既に復しているのを知らず、これを「迷復」と云う。「災眚」は、天の罰すること。初九が復するのは、天の運び。人々はみな初九に従っているのに、上六は獨りこのときに迷っている。これを敵に用いれば、その国に災いあり、これを国に用いれば、その身に災いあり。極盛のものは必ず衰え、何度も勝っていると故に敗れる。その終りに至って、国は敗れ君は凶。十年に至っても復することがないと、その民を用いることは過ぎていて、兵を動かすことは多すぎたことになる。

 復は初九が少しずつ勢を取り戻しつつあって、他の陰爻たちが喜んで従ったり、嫌々従ったり、まだ従わなかったりしている様子です。これを益(王公が臣を益して大きいことを為してもらう)と合わせて読んでみると、どことなく一度亡びかけた国が臣を養って……という展開にみえてきます。なので、「德は施され流れ行き、四方(よも)の郷を利す。雨師は道を灑(清め)、風伯は殃いを逐い、巡狩しては封禅し、以て功を成すを告げる」ような勢いになります。

 ちなみに萃之比も同じ詩であらわされるのですが、萃之比のときは内部で幾つかに割れていても、その中で大きい軍閥を率いていた九四が「大吉、無咎(大いに吉で、咎もない)」形で九五に合わせてくれるとき、萃(分立しながら聚まっている)は比(多くの陰が九五に親しんで、穏やかでないものもやって来る様子)になって、寧らかなときに泰山で封禅を行なう……という雰囲気です(この微妙な違いは、本卦・之卦の組合わせで感じさせつつ、詩は同じものでも通じると思って重複させているような気がします)。

 こんな感じで、すべての爻辞の解釈が『東坡易伝』と同じだったわけではないですが、それ以外の読み方よりは爻の関係性で読んだ方が近い解釈になることが多い気がします(例えば、萃之比の分立感、未済之比・謙之井・臨之頤の傍観的な神仙らしい感じ、剥之大有・頤之損の頽廃的な宴の雰囲気など)。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています