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15-48  謙之井・19-27  臨之頤・64-22  未済之賁

本文(謙之井)

華首山頭、仙道所游。利以居止、長無咎憂。

注釈

伏艮為山、坎為首、兌為華、故曰華首。艮為寿、故曰仙道。伏震為游。巽為利、為長、艮為居止。坎為憂。(地山謙から水風井へ)

井の裏卦の互体の艮は山、坎は首(迭象)、兌(謙の裏卦?)は華山(後天八卦で兌は西・華山は西岳)なので華山の首(頂上)。艮は寿(迭象)なので、仙道。井の裏卦に含まれる震は游ぶ(驚くの派生?)。巽は利(説卦伝の「利に近付く」から派生?)、長(説卦伝)、艮は居止・坎は憂(説卦伝)。

本文(臨之頤)

華首山頭、仙道所游。利以居止、長無咎憂。

注釈

艮為山、為首、伏兌為華。艮為寿、為仙道、為居止。坤為憂、震楽故無憂。(地沢臨から山雷頤へ)

艮は山、首(迭象の面から派生?)、頤の裏卦の兌は華山(上に同じ)。艮は寿・仙道・居止(上に同じ)。坤は憂(連想解釈)、震は楽しむ(迭象の嘉から派生?)なので「無憂」。

本文(未済之賁)

華首山頭、仙道所游。利以居止、常無咎憂。

注釈

詳臨之頤。(火水未済から山火賁へ)
臨から頤になるときに詳しく書いてます。

日本語訳

華山の首頭(頂き)、仙道(神仙)の游ぶところで、居て止まるに利(良)く、常に咎・憂もなし。

解説

まったく同じ詩なので、三つまとめて読んでいきます(注釈とはかなり異なる解釈をします)。

まず、華山は西を守る山として歴代の皇帝から祀られていたのですが、その山はとても険しく、ざくざくと削り出した大きい花びらのように天に聳えていて、それゆえ他の霊山とは異なって祭祀はずっと麓の廟でおこなわれたという山です。

そして、その山頂には神仙が游ぶとされていますが、これは現代の華山の伝承をいろいろ見てみたほうが雰囲気が感じられると思います。とりあえず、今回の話に似合うものをひとつ、ネット情報ですが訳しておきます。

出典:華山(中國5A級旅遊景區)_百度百科 (baidu.hk)

華山の落雁峰という峰の上には、仰天池という小さい池があって、その大きさは1mほどしかないのに、どんなに日に照らされても涸れることはなく、どんなに雨が降っても溢れてしまうことはない。噂では、太上老君(神仙化した老子)がこの池の水で、金丹を練るという。(華山十大未解之謎から引用)

この話では、華山の上では夜になると太上老君が一人で坐って、小さい池の水を汲んでは小さい器の中に注いで金丹を練っている、そのまわりは誰も登って来られないほどの鋭くそり立つような山々に囲まれていて、夜の星が燦瓓と降ってくるように回っている中で、しずかに老君がこの世を見下ろしているような風景なのですが、それを易林の詩に重ねると、

謙から井では、謙:地の中に山があって、その山が周りに分けるような謙なこと、井は井戸の中に変わらないものを持っていることで、周りに譲りながらもみずからは内面に変わらない思いを持ち続けてしずかに金丹を練る神仙、

臨から頤では、臨は水辺に臨むような高いところから、穏やかな雰囲気で下の水辺を眺めるような様子、頤はざわざわと騒ぐ山下の雷に、静かな山が高く落ち着いて立ち、騒ぐ雷たちの主として山は静かに動かないで頤(養)っている様子とすれば、下界の紛々とした様子を遠くに小さく眺めながら、それでも穏やかに落ち着いていくことを示しつづける神仙、

未済から賁では、未済は火が水の上にあるので料理前の様子、あるいは未完成でごたごたと多くの具材が入れられた鍋のような姿、賁は山の下に爛熟した街があって、夜でも煌々(きらきら)と灯りが漏れてくる様子なので、雑多で未整理なものを多く含んでいる姿そのものを、永遠に完成しないけどそれ自体がいつでも完成しているようにも見えてしまうということを知っている神仙です。

その感覚をすべて華山の山頂に遊ぶ神仙に喩えているけど、含まれている質感は、謙之井では謙譲しつつ不易なもの持っていること、臨之頤では落ち着いた雰囲気でどんな時でも臨み養うこと、未済之賁では不完全なものを一つの秩序として見ている山頂での夜みたいな感じになるのでは……と。

ちなみにそれぞれを『老子』の文章で喩えてみると

謙之井:天地不仁、以萬物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗。天地之間、其猶橐籥乎?虛而不屈、動而愈出。多言数窮、不如守中。(『老子』五章)

天地は仁(優しく)ないので、万物を芻狗(藁飾りの犬のようにある時は祀ってある時は捨てる)ようにする。聖人は仁(優しく)ないので、百姓(民)を芻狗(藁飾りの犬のようにある時は祀ってある時は捨てる)ようにする。天地の間は、それは橐籥(ふいご)のようなもので、虚ろなのに屈(行き詰まる)ことはなく、動いては愈々出てくる。多言はしばしば窮するので、中(内面)を守るに如かず。

臨之頤:大国者下流。天下之交、天下之牝。牝常以静勝牡、以静為下。故大国以下小国、則取小国。小国以下大国、則取大国。故或下以取、或下而取。大国不過欲兼畜人、小国不過欲入事人。夫両者各得其所欲、大者宜為下。(『老子』六十一章)

大国は下流である。天下(の水)が交わるのは、天下の牝(落ち着いたもの)であり、牝(落ち着いたもの)は常に静かなことで牡(騒がしいもの)に勝ち、さらに静かに下にいる。故に大国は小国に下り、そうして小国を引き入れる。小国は大国に下り、そうして大国を引き入れる。故にある国は下りて引き入れ、ある国も下りて引き入れる。大国はより多くの人を養いたいと思うだけで、小国は大国の落ち着いた人に仕えたいと思うだけなので、両者ともに各々求めるものが手に入るので、大きい者は下るのがいい。

未済之賁:大成若缺、其用不弊。大盈若沖、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒静勝熱。清静為天下正。(『老子』四十五章)

大成(本当によく出来たものは)缺ているようで、その用(働き)は弊(疲)ない。大盈(本当に満ちているものは)沖(空しい)ようで、その用(働き)は窮らない。大直は屈しているようで、大巧は拙いようで、大辯は訥(口が重い)ようであって、躁(騒がしいもの)は寒々しいときに欲しくなるけど、静かなものは熱(うるさい)ときに欲しくなる。清静(すっきりと静かであること)は天下の正(本当の姿)なのだ。

みたいに思っています。ちょっと未済から賁は分かりづらいけど、清静は歪にみえる街でも山の上からみるときれいな灯りにみえるように、いつまでも不完全なものをそのままで生きていると知って、手を加える思いが騒がなくなっている様子だと思います。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています