創作・エッセイ

詭文回波

 この話はあまり易林とは関係ないのですが、個人的に『文選』でもすごく好みな枚乗「上書諫呉王」についてです。とりあえず、どんな作品か知らない人がほとんどなので、一応全文を載せておきます。

臣聞得全者昌、失全者亡。舜無立錐之地、以有天下;禹無十戶之聚、以王諸侯。湯武之土、不過百里、上不絶三光之明、下不傷百姓之心者、有王術也。故父子之道、天性也。忠臣不避重誅以直諫、則事無遺策、功流萬世。臣乗願披腹心而効愚忠、惟大王少加意念惻怛之心於臣乗言。

夫以一縷之任、係千鈞之重、上懸之無極之高、下垂之不測之淵、雖甚愚之人猶知哀其将絶也。馬方駭鼓而驚之、係方絶又重鎮之;係絶於天不可復結、墜入深淵難以復出。其出不出、間不容髮。能聴忠臣之言、百挙必脱。必若所欲為、危於累卵、難於上天;變所欲為、易於反掌、安於泰山。今欲極天命之上寿、弊無窮之極楽、究萬乗之勢、不出反掌之易、居泰山之安、而欲乗累卵之危、走上天之難、此愚臣之所大惑也。

人性有畏其影而悪其跡、卻背而走、跡逾多、影逾疾、不如就陰而止、影滅跡絶。欲人勿聞、莫若勿言;欲人勿知、莫若勿為。欲湯之滄、一人炊之、百人揚之、無益也、不如絶薪止火而已。不絶之於彼、而救之於此、譬由抱薪而救火也。養由基、楚之善射者也、去楊葉百歩、百發百中。楊葉之大、加百中焉、可謂善射矣。然其所止、百歩之内耳、比於臣乗、未知操弓持矢也。

福生有基、禍生有胎;納其基、絶其胎、禍何自来?太山之霤穿石、殫極之𥾚断幹。水非石之鑽、索非木之鋸、漸靡使之然也。夫銖銖而称之、至石必差;寸寸而度之、至丈必過。石称丈量、径而寡失。夫十圍之木、始生而蘖、足可搔而絶、手可擢而抓、據其未生、先其未形。磨礱砥礪、不見其損、有時而盡;種樹畜養、不見其益、有時而大;積德累行、不知其善、有時而用;棄義背理、不知其悪、有時而亡。臣願大王熟計而身行之、此百世不易之道也。

私の聞くところでは、全きを得ている者は昌え、全きを失った者は亡ぶとあり、舜は錐を立てるほどの地も無くて天下を有しており、禹は十戸の聚落もなく、諸侯の間に王となっております。湯武の土は百里を過ぎないほどですが、上には三光(日月星)の明を絶やさず、下には百姓の心を傷つけなかったのは、王術が有ったためでしょう。故に父子の道は天の性にして、忠臣は重い誅罰をも避けずして直諫するのは、すなわち事において手抜かりの無いのは、功は萬世に流れるからで、わたくし枚乗も願わくは心腹を披いて、愚忠を行いたいというので、大王も些か意念して惻怛(憐れむ)心を私の言に加えていただくことを願います。

さて、その一縷の任によって、千鈞の重さを釣って、上にはそれを無極の高みに懸け、下はそれを測り得ないほどの淵に臨ませれば、たとえ甚だ愚かな人でも、きっと其の絲の絶えそうなことを恐れるのを知るでしょう。馬のまさに驚かんとして、さらに鼓を打ってこれを驚かすようなものを思えば、繋いでいる紐はまさに絶えようとして、さらにあの絲に重みを加えれば、結んでいるものは天のうちに絶えて、また結ぶこともできないでしょう。深い淵に落ちてしまえば、また出すことも難しいでしょう。其の出られるか出られないかの間は髮一つも入れないほど近いもので、忠臣の言を聴いてくだされば、百たびの事があっても必ず脱します。一方、その必ずや為さんとするところのままですと、危うさは重なった卵のようで、天に上るよりもそれは難しいことです。為そうとすることを変えるのは、掌を反すよりも容易く、泰山よりも安らかです。今、天の与えた命の長きを極めようとして、さらに無窮の楽しみを尽し、萬乗の勢を究たいと思いつつ、掌を反すごとき容易さも出でず、泰山の安きにも居ずして、却って累卵の危うさに乗って、天に上る難さに走りたがるのは、これこそ愚臣の大いに戸惑うところです。

ある人の性として、その影を畏れ、その足跡を憎むものがおりました。背を向けて走れば、足跡は愈々多く、影は愈々速くついてきます。そのようなことは日陰に入って止まれば、影も消えて足跡も絶えるというのに、――人に聞かれたくないなら何も言わないのが良く、人に知られたくないなら何もしないのが良くて、お湯の冷めることを望みながら、一人は火を焚き、百人で掻き回していたら、それは無理というもので、薪を絶ち火を止めるに及びません。あれを絶たずして、これを救おうというのは、薪を抱えて火を救け(それでいて湯が冷めるのを望むようなもの)。養由基は楚の射に通じた者でして、その楊葉を離れること百步にして、百發にして百中ということで、楊葉の大きさでも、百中すれば善く射るものとされています。しかし、その射るのは百步の内に留まるもので、わたくし枚乗に比べれば、まだ弓の繰り方 矢の持ち方も知らぬというものです。福の生れるには基が有り、禍の生まれるには胎が有り、その基を納れて、その胎を絶てば、禍は何処よりやって来るでしょうか。

泰山の滴る水は石を穿ち、底まで行き来する井戸の縄は井梁をも擦り切りますが、水は石の纘(きり)ではなく、縄は木の鋸でもなく、漸靡(次第次第に擦切っていくことが)そうしているのです。一銖ごとに数えていけば、一石に至って必ず差があり、一寸ごとに測っていけば、一丈に至って必ずずれがあります。一石一丈で測って数えていれば、すぐにできて過ちも少なく、あの十抱えの大木も、始めて生えてきたときは蘖(ひこばえ)でして、足で搔いて絶ち、手で掴み抜いてしまうこともできるのは、その未だ生え切らず、その未だ形をつくらぬ内に先んじているからです。磨いたり砥いだりというのは、その擦れていくのが見えないですが、時が経つといつの間にか無くなっていて、木を植えて畜を育てるのは、その大きくなるのが見えないようで、しばらくすると大きくなっており、德を積み行いを重ねるのも、その善を知らずして、しばらくして効もあるもので、義を棄て理に背くのは、その悪を知らずして、時を経て亡んでいくものです。私は王の熟計せられてみずから行われることを願っておりまして、これこそ百代不変の道理というものでございます。

 これは全篇を通して比喩過剰の文体で、枚乗が仕えていた呉王劉濞が、他の諸侯たちと結んで漢に背こうとしていること(いわゆる“呉楚七国の乱”。その頃の漢は、中央の漢の皇帝とは別に、皇族を各地の諸侯王として送り込んでいて、呉王もその一人だった)を止めるために書かれた書状です。

 もっとも、枚乗はそのまま叛乱を止めるようなことを書くと憎まれるのを知っていて、遠回しに比喩だけで危うさを伝えるような書き方をしています。……ということまでは色々なところに書いてあるのですが、この記事ではその比喩が独特な作り方をされている、ということについてです。

 まず、この比喩の出典として『文選』で李善の注にあげられているものを幾つかみてみると、元の出典の文脈を無視しているものがけっこう出てくる気がします。

枚乗:舜無立錐之地、以有天下(舜は錐を立てるほどの地も無くて天下を有していた)

出典:明主之道忠法、其法忠心、故臨之而法、去之而思。……舜無置錐之地於後世而德結。能立道於往古、而垂德於萬世者之謂明主。
(明主の道は法に倣っていて、その法は人の心に倣っている。故に世に臨むときには法に倣い、みずからの思いを去るようにするのがいい。……舜は錐を置くほどの土地もなくても後世にはその德が残っており、古の世に道を立てたものは、德をいつまでも流して“明主”と呼ばれるようになる。『韓非子』安危より)

枚乗:禹無十戶之聚、以王諸侯(禹は十戸の集落もなく、諸侯の間に王となった)

出典:舜無咫尺之地、以有天下;禹無百人之聚、以王諸侯;湯武之士不過三千、車不過三百乗、卒不過三萬、立為天子、誠得其道也。是故明主外料其敵之彊弱、内度其士卒賢不肖、不待両軍相當而勝敗存亡之機固已形於胸中矣、豈揜於衆人之言而以冥冥決事哉。
(舜は数尺の地もなくても天下を有しておりましたし、禹は百人の集落もなくても、諸侯の間に王となっておりましたし、湯王武王の臣は三千を過ぎず、車も三百を超えず、兵も三万を超えなかったのに、立てられて天子になっているのは、やはりその道を得ているからです。なので明主は、外では敵の強弱を計り、内では臣や兵の賢愚を調べて、両軍がぶつかることを待たずして勝敗存亡のことは既に胸のうちで決まっていて、衆人の言に蔽われてぼんやりとしたまま事を決めることはないのです。『史記』巻六十九  蘇秦伝より)

 この二つは、枚乗では叛乱を起こさずに諸侯としての位に落ち着くこと(それが舜・禹などの在り方に通じるとしている)、出典ではそれぞれ『韓非子』では法の基を作った人としての舜、蘇秦(策略に通じた遊説家)の中では禹も王となる策略を知っている人として出てきます。この『韓非子』と蘇秦からみた舜・禹の印象もかなり違いますが、さらに枚乗も引用元の文脈をかなり離れている感じがあります(枚乗は別に『韓非子』や蘇秦に近いことを云いたくて引用したわけではなく、比喩を借りたいだけにみえます)。

枚乗:必若所欲為、危於累卵(その為そうとしていることは、積み上げられた卵よりも危うく)

出典:晋霊公造九層臺、費用千億、謂左右曰「敢有諫者斬。」孫息乃諫曰「臣能累十三博棊、加九鶏子其上。」公曰「吾少学、未嘗見也、子為寡人作之。」孫息即以棊子置其下、加九鶏子其上。左右慴懼。霊公扶伏、気息不続。公曰「危哉、危哉。」孫息曰「臣謂是不危也……」
(晋の霊公は九層の台を作ろうとして、費用は千億を超えていたが、左右のものには「それでも諫めようとすれば斬る」と云っていた。孫息はそんなとき「わたしは将棋盤と双六盤を十三も積み上げて、さらにその上に卵を九つ載せられるのです」と云い出した。霊公は「私は学が足りず、そのようなものは見たことがない。私のためにそれを作ってくれ」と云った。孫息は双六盤や将棋盤をその下に置いて、さらに卵を上に積んでいった。左右のものたちは懼れていて、霊公も伏せながら、いつ崩れるのかと息をひそめて怖がっていた。霊公は「危ない、危ないだろ」と云っていたが、孫息は「私にとっては、これはまだ危なくないものなのです――」と云って……。『説苑』佚文より)

 これはたぶん文脈が同じで、どちらも積み重ねられた卵のようにとても危ないことです(九層の楼台も叛乱も、積み重ねた卵のように危ういこと)。

枚乗:人性有畏其影而悪其跡、卻背而走、跡逾多、影逾疾、不如就陰而止、影滅跡絶(ある人の性として、その影を畏れ、その足跡を憎むものがおりました。背を向けて走れば、足跡は愈々多く、影は愈々速くついてきます。そのようなことは日陰に入って止まれば、影も消えて足跡も絶えるというのに及びません)

出典:人有畏影悪跡而去之走者、挙足愈数而跡愈多、走愈疾而影不離身、自以為尚遅、疾走不休、絶力而死。不知処陰以休影、処静以息跡、愚亦甚矣。子審仁義之間、察同異之際、観動静之變、適受與之度、理好悪之情、和喜怒之節、而幾於不免矣。
(ある人で、みずからの影を畏れて足跡を憎んで逃げているものが居たが、足をあげること愈々多くして足跡も愈々多くついてきて、走ること愈々速くして影はいつまでもその身を離れず、みずから逃げるのが遅いからだと思い込んで、走りつづけて休まず、ついには力が尽きて死んでしまった。暗い中に入れば影はなくなり、静かにしていれば足跡もやむことに気づかず、愚かさも甚しいもので、お前は仁義の間を審らかにして、同異の際を調べ上げて、動静の変ずるときを窺って、与えられるか受け取るかのことを付け狙い、好悪の情を無理やりまとめようとして、喜怒の程よさを作ろうとしているが、ほとんど救いようがないほどに搦め取られている。『荘子』漁夫篇より)

『荘子』のほうでは、みずから仔細なことを気にして気持ちをすり減らしつつ休む間もないことを足跡から逃げ影から離れようとする様子に喩えていて、枚乗は叛乱を企てながらそれを隠し通そうとする不安と隠滅に駆られる様子の比喩というふうに、不安の中身がかなり違っています。ここでも枚乗は、別に『荘子』的なことを云いたいわけではないです。

枚乗:一人炊之、百人揚之、無益也、不如絶薪止火而已(湯の冷めることを望みながら、一人は火を焚き、百人で掻き回していたら、それは無理というもので、薪を絶ち火を止めるには及ばない)

出典:今世上卜筮禱祠、故疾病愈来。譬之若射者、射而不中、反修于招、何益於中?夫以湯止沸、沸愈不止、去其火則止矣。故巫醫毒薬、逐除治之、故古之人賤之也、為其末也。
(今の世で卜筮やら祈祷を崇めているので、疾病は愈々激しくなる。譬えていうならもし射をするときに、射ても当たらなければ、招(的)の方をあれこれ直しているようなもので、何の益が当たることにあろうか?そもそも湯が沸いているのを止めようとして、沸かしていては愈々止まず、火から外せば止まるようなもので、故に巫医の毒薬のようなものは、逐い遣ってしまえば病も治り、故に古人はこれを重んじなかったのは、そんなものは末の枝のようなものだったからで……。『呂氏春秋』季春紀・尽数より)

 これは叛乱を企てている呉王に、このまま生きていたいなら叛乱は辞めて禍の元を絶ったほうがいいという譬えとして枚乗は出していますが、もとの『呂氏春秋』では怪しげな巫医に頼ってあれこれ余計な薬を飲んだり祈祷占筮で不安を煽られたり慰めたりするよりも、変なものを食べ過ぎたり、じめじめとしていたりぼやぼやと霧がちだったりというところに居すぎないことを云っていたり……という話の中で、末節的な怪しい療法に拘って齷齪している様子としてお湯の喩えが出てきます。

枚乗:養由基、楚之善射者也、去楊葉百步、百發百中。楊葉之大、加百中焉、可謂善射矣。然其所止、百歩之内耳、比於臣乗、未知操弓持矢也。(養由基は楚の射に通じた者でして、その楊葉を離れること百步にして、百發にして百中するのです。しかし、その射ることは百步の内に留まっていて、わたくし枚乗に比べれば、まだ弓の繰り方 矢の持ち方も知らぬものです)

出典:蘇厲謂周君曰「敗韓・魏、殺犀武、攻趙、取藺・離石・祁者、皆白起。是攻用兵、又有天命也。今攻梁、梁必破、破則周危、君不若止之。謂白起曰『楚有養由基者、善射。去柳葉者百歩而射之、百發百中。左右皆曰「善。」有一人過曰「善射、可教射也矣。」養由基曰「人皆善、子乃曰可教射、子何不代我射之也?」客曰「我不能教子支左屈右。夫射柳葉者、百發百中、而不以善息、少焉気力倦、弓撥矢鉤、一發不中、前功盡矣。」今公破韓・魏、殺犀武、而北攻趙、取藺・離石・祁者、公也。公之功甚多。今公又以秦兵出塞、過両周、踐韓而以攻梁、一攻而不得、前功尽滅、公不若称病不出也。』」
(蘇厲は西周の君にいう「韓・魏を敗り、犀武(魏の将)を殺し、趙を攻めては、藺・離石・祁を取ったのは、みな白起(秦の将)だった。これが攻め込んで兵を用いたのは、みな天命でありましたが、今  梁を攻めれば、梁は必ず破られ、梁が破れれば周も危うく、周君は白起を止めるべきでしょう。こんなときは白起に『楚には昔  養由基という射に通じたものがいましたが、柳の葉を去ること百歩でもそれを射て、百発にして百中だったといいます。左右のものは皆な「上手い」と云っておりましたが、ある一人のひとが通りかかって「上手いですが、射について教えることがあります」と云ったので、養由基は「人は皆な上手いというのに、あなたは教えることがあると云うけど、それなら何で私に代わって矢を射らないのか?」と返した。通りかかった人は「私は別に左手の張り方、右手の曲げ方について教えるのではなく、その柳葉を離れて射ること百発百中ではありますが、ほどよいところで辞めておかないと、やや気力が疲れてきたところで、弓が変に跳ねて矢が曲がり、一回当たらないときがあると、それまでの上手さも揺らいでしまうということです」と云ったそうですが、今  あなたは韓魏を破り、犀武を殺して、さらに北では趙を攻めて、藺・離石・祁も取りました。もはやその功はとても多いですが、さらにあなたは秦の兵を率いて塞を出でて、二つの周(周は戦国末期に西周と東周にさらに分かれていて、ここで蘇厲が話しているのは西周公)を通り過ぎて、韓に踏み入って梁を攻めるのでしょうが、一たび攻めて得られないものがあれば、いままでの功もすべて尽きてしまうのですから、あなたは病とでも言っておいて行かないほうがいいでしょう』とでも薦めておくのがいいでしょう」『戦国策』西周策より)

 ここでは養由基は射の名手として出てきますが、枚乗の上書では上手いと云われる養由基でもまだまだ私(枚乗)に比べれば正鵠を射ることは及ばないという形で、もとの出典では百回の功も気力が漸く倦れたときに一回でも外せばそれまでのことを台無しにするかもしれない……という文脈になっています。

枚乗:夫十圍之木、始生而蘖、足可搔而絶、手可擢而抓(あの十抱えの大木も、始めて生えてきたときは蘖でして、足で搔いて絶ち、手で掴み抜いてしまうことができる)

出典:橡樟初生、可抓而絶(橡樟のような大きな木も、初めて生えたばかりのときは掻きだして絶ってしまえるもの。『荘子』佚文より)

 これは『荘子』の佚文なので元の文脈は不明です。というわけで、かなり長かったけど、枚乗はかなり様々な出典を引用しながら、この不思議で詭恠な文章を書いているらしいのですが、そのとき引用元の文脈はほとんど気にせず比喩だけを借りるように取り入れています。

 ちなみに、この枚乗の上書はそれなりに色々な人に読まれたらしく、後漢の頃によく似た表現を含む作品が出ていたりして、比喩もかなり真似されています。これは『後漢書』巻三十七  丁鴻伝に出てくる上書で、その頃は皇帝の外戚の竇氏がかなり威権を独擅していて、それについての批難状です。

臣聞日者陽精、守実不虧、君之象也;月者陰精、盈毀有常、臣之表也。故日食者、臣乗君、陰陵陽;月満不虧、下驕盈也。昔周室衰季、皇甫之属專権於外、党類強盛、侵奪主埶、則日月薄食、故『詩』曰「十月之交、朔月辛卯、日有食之、亦孔之醜。」春秋日食三十六、弑君三十二。變不空生、各以類応。夫威柄不以放下、利器不可假人。覧観往古、近察漢興、傾危之禍、靡不由之。是以三桓専魯、田氏擅斉、六卿分晋、諸呂握権、統嗣幾移;哀平之末、廟不血食。故雖有周公之親、而無其德、不得行其埶也。

今大将軍雖欲敕身自約、不敢僭差、然而天下遠近皆惶怖承旨、刺史二千石初除謁辞、求通待報、雖奉符璽、受臺敕、不敢便去、久者至数十日。背王室、向私門、此乃上威損、下権盛也。人道悖於下、效験見於天、雖有隠謀、神照其情、垂象見戒、以告人君。間者月満先節、過望不虧、此臣驕溢背君、専功独行也。陛下未深覚悟、故天重見戒、誠宜畏懼、以防其禍。『詩』云「敬天之怒、不敢戯豫。」若敕政責躬、杜漸防萌、則凶妖銷滅、害除福湊矣。

夫壊崖破巌之水、源自涓涓;干雲蔽日之木、起於葱青。禁微則易、救末者難、人莫不忽於微細、以致其大。恩不忍誨、義不忍割、去事之後、未然之明鏡也。臣愚以為左官外附之臣、依託権門、傾覆諂諛、以求容媚者、宜行一切之誅。間者大将軍再出、威振州郡、莫不賦斂吏人、遣使貢献。大将軍雖云不受、而物不還主、部署之吏無所畏憚、縦行非法、不伏罪辜、故海内貪猾、競為姦吏、小民吁嗟、怨気満腹。臣聞天不可以不剛、不剛則三光不明;王不可以不彊、不彊則宰牧従横。宜因大變、改政匡失、以塞天意。

わたしが聞いているのは、日は陽の精にして、実を守れば虧けず、これは君の象です。月は陰の精にして、盈ちたり缺けたりが定まっていて、臣の表れです。故に日食があるときは、臣が君を乗り越すほどになっていて、陰が陽を抑えている姿です。月の満ちて虧けないのは、下のものが驕って盈ちている姿なので、昔  周室が衰えたとき、皇甫の属(周幽王の外戚)は王室から離れて專権して、党類を組んで強盛を極め、主執を侵奪していて、それゆえ日月は食しあって、故に『詩』小雅・十月之交でも「十月の交(日月の交わるとき)、その日は辛卯の日だったけれど、日は食されることがあって、それはとても醜(不気味なこと)」とあります。春秋の世には日食が三十六あって、君を弑すること三十二回、怪しいことは何もなければ起こらず、各々  類によって応じています。その威柄は下のものに任せてはならず、利器は人に渡してはならずと云いますが、古き世を覧観して、近く漢の興るときをみてみれば、傾危の禍があるときは、皆そのようなことが始まりになっています。故に三桓氏(魯の諸侯の分家)が魯を奪い、田氏(斉の大族)が斉を取っていく、あるいは六つの卿(名家)が晋を分けたり、漢の呂后の一族が権を握って後嗣がほとんど移りそうになったり、さらには哀帝平帝の末になると、廟には犠も供えられないほどになっていて、故に周公ほど近しいものであっても、その德がないならば、権を得させてはならないと云うのです。

今、大将軍(外戚竇氏の中でも竇憲のこと)はたとえ自ら倹約質朴な暮らしを望んで、あえて僭上するつもりがなくても、天下の遠近に居るものは皆惶怖(おそれながら)その旨を受けて、刺史二千石の大官も初めて任じられると挨拶に訪れ、伝手を求めて報せを待ち、たとえ朝廷からの符璽を受け取って、台敕(帝の令)を貰っても、それでも竇氏の邸第を去らずに、居座ってさらに高い官職を望んでいること数十日になることもあり、王室に背いて、私門に向かい、これは上の威を損い、下の権があまりにも盛んです。人道が下で乖くときは、效験は天に現われ、たとえ謀を隠していても、神はその情を照らし、象を送って戒を垂れるのは、君に告げるためでしょう。さきには月が常よりも早く満ち、望の日を過ぎても虧けず、これも臣(陰)の驕って君を越えていること、功を専らにして独り行っていることを示すのです。陛下は未だ深く覚悟することがないゆえに、天は重ねて戒を送っており、これは宜しく懼れるべきことで、そうして禍を防ぐべきです。『詩』大雅・板にも「天の怒りを敬いて、あえてだらだらと先延ばさず」とあって、もしみずから政事にて責めることがあって、漸(小さいうち)に杜じて萌(兆し)を防げば、凶妖も銷滅して、害は除かれ福は湊(聚まる)でしょう。

あの崖を崩し巌を破るような水も、その源は涓涓(さらさら)としたもので、雲に插さり日を蔽うような木も、その起りは葱青(柔らかい碧)の芽なのですから、小さいものを禁じるのは容易く、末に至って救うのは難しく、さらに人は些細なことを忽せにしないからこそ、大きいこともできるのです。恩はわざわざ教えるものでもなく、義は割いても離れないもので、事が済んでのちは、未然の明鏡として知られることになるでしょう。私は恐れ多くも外から付き従う臣は、権門に依り付いて、傾覆(へばりついて)諂諛(おもね)って、容れられることを求めて媚びているものは、一切すべて誅してしまうほうがいいと思います。さきに大将軍が再び出たときも、その威はあちこちの州や郡を振るわせ、税を取る小吏までも貢ぎ物を贈らないものはなく、大将軍は受けないと云っても、その物は元の主に返されることはなく、部署の吏たちは忌憚もなく、法を超えたことも好きなだけして罪に罹ることもなく、故に海内は貪猾して、競って奸吏が蔓延り、小民は吁嗟(苦しんで)、怨気も満ちています。私は天は剛でなくてはならず、剛でなければ三光(日月星辰)も明ならず、王は強くなければならず、強くなければ宰牧(官吏たち)が思うままになっていくと聞いています。宜しく大變が起こったことをみて、政を改め過りを匡(正)し、天意を満たすべきでしょう。

 これは特に「若敕政責躬、杜漸防萌、則凶妖銷滅、害除福湊矣。夫壊崖破巌之水、源自涓涓;干雲蔽日之木、起於葱青。禁微則易、救末者難、人莫不忽於微細、以致其大。(もしみずから政事で責めることがあって、小さいうちに閉じて萌しを防げば、凶妖も銷滅して、害は除かれ福は聚まるでしょう。あの崖を崩し巌を破るような水も、その源はさらさらとしたもので、雲に插さり日を蔽うような木も、その起りは柔らかい芽なのですから、小さいものを禁じるのは容易く、末に至って救うのは難しく、さらに人は些細なことを忽せにしないからこそ、大きいこともできるのです)」というところが、枚乗の

福生有基、禍生有胎;納其基、絶其胎、禍何自来?……夫十圍之木、始生而蘖、足可搔而絶、手可擢而抓、據其未生、先其未形。磨礱砥礪、不見其損、有時而盡;種樹畜養、不見其益、有時而大;積德累行、不知其善、有時而用;棄義背理、不知其悪、有時而亡。

福の生れるには基が有り、禍の生まれるには胎が有り、その基を納れて、その胎を絶てば、禍は何処よりやって来るでしょうか。……あの十抱えの大木も、始めて生えてきたときは蘖(ひこばえ)でして、足で搔いて絶ち、手で掴み抜いてしまうこともできるのは、その未だ生え切らず、その未だ形をつくらぬ内に先んじているからです。磨いたり砥いだりというのは、その擦れていくのが見えないですが、時が経つといつの間にか無くなっていて、木を植えて畜を育てるのは、その大きくなるのが見えないようで、しばらくすると大きくなっており、德を積み行いを重ねるのも、その善を知らずして、しばらくして効もあるもので、義を棄て理に背くのは、その悪を知らずして、時を経て亡んでいくものです。

とかなり似ている印象があって、凶の芽を絶つという比喩、さらに大きい木も初めは小さな芽から育ったもの……というところが通じてます。もっとも、丁鴻のほうは本旨もかなり見せるような書き方になっていて、枚乗の比喩の印象でぼんやりと人を驚かし騙すような感じはなくなって、けっこう平実な雰囲気になっています。

 ちなみに、この丁鴻の上書で「杜漸防萌(漸なるものを杜ざして萌しを防ぐ)」という句は、少し形を変えて「防微杜漸(微かなものを防いで漸なるを杜ざす)」という表現で、今の中国語の慣用句として残っています。

 そして、興味深いのが、同じく「小さいうちに禍の芽を絶っておく」という慣用表現で「斬草除根(草を斬り根を除く)」「削株掘根(株を削り根を掘る)」というのもあるのですが、これの出典はそれぞれこんな感じです。

為國家者、見悪如農夫之務去草焉、芟夷蘊崇之、絶其本根、勿使能殖。
国を治めるときは、悪をみれば農夫が努めて草を抜き去るように、芟夷(苅り払って)蘊崇(積み捨てておく)ように、その本根を絶って、殖えさせないようにするものです。(『左伝』隠公六年より)

削株掘根、無與禍鄰、禍乃不存。
株を削り根を掘って、禍と隣り合わないようにすれば、禍はなくなるでしょう。(『戦国策』秦策一より)

 どうでもいいけど、『戦国策』のほうは「禍」の字が出てくるあたりから、たぶん枚乗が原案にした(「福生有基、禍生有胎;納其基、絶其胎、禍何自来?」)のはこれかもしれないです。「斬草除根(草を斬り根を除く)」「削株掘根(株を削り根を掘る)」「杜漸防萌(漸なるものを杜ざして萌しを防ぐ)」という三つの慣用表現が繋がっていく途中に枚乗「上書諫呉王」があったとすれば、老荘の作などは達意立意のための比喩だったので文章のための表現ではなく、奇謀陰計の語なども魅力的なものはあっても文として味わうものではない中で、枚乗は唐突で比喩に巻くような云い回しを多用しつつ、先秦諸子や辨士の表現を一つの文章として複雑な構成の中にまとめていて、それでいて詭言で人を呑むようにして騙すという先秦的で不思議で怪誕な姿の文章になっています(この詭弁的修辞技巧と怪誕な美しさが重なっているのが枚乗の魅力なのですが)。

 というわけで、光怪としたものが突然襲ってくるような慌汩汩(こうこつこつ)とした感じが心を蕩々惑々とさせて逐っても及ばず、慮(かんがえ)ても見えず、儻然として四虚のうちに惧れさせたりぼんやりさせるような音としてみせるのが、“秀韻と雄節”の「雄節(雷聞するような音)」かもしれないですが。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています