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2-5 坤之需

本文

霜降閉戸、蟄蟲隠處。不見日月、與死為伍。

注釈

通晋。坤為霜、艮為戸、坤閉、故曰閉戸。坎伏、故曰蟄蟲、曰隠處。坎月離日、坎伏、故不見。坤為死。(坤為地から水天需へ)

晋(坤之晋)に通じる。坤は霜(陰のように冷たい)、艮(晋の互体)は戸(説卦伝)、坤は閉ざす(連想的な解釈)なので「戸を閉ざす」。坎は伏せる(説卦伝では隠伏)なので蟄蟲(冬ごもりした虫)、隠れて居る。坎は月・離は日(説卦伝)、坎は伏すなので見えない。坤は死(連想的な解釈)。

日本語訳

霜が降って戸を閉ざせば、冬の蟲たちは隠れている。日や月も見えない日には、死と伍(伴)になる。

解説

これは坤之晋に通じるとあるので、そっちも合わせて読みたいのですが、「死とも伍(伴)になる」はたぶん悪い意味ではないです。

まず、火地晋はみずからを前に出し過ぎることを忌むような詩になっていたので、裏卦の水天需では、上には険阻なものがあるけど下には天の巡りのように健やかなものがある様子で、暗い冬のような坤の中でもこのように過ごすことです。

うまくいく、行かないよりももっと大きいもの、しんしんと降る雪の人間を越えた清らかさ、すべてを諦めるような気持ちになりつつも、その雪をみているときのぞわぞわとするのに静かな気持ちになる、という意味だったら美しいのですが(個人的な解釈ですが)。

余談

この陋屋で迎える冬の景色は、『荘子』大宗師篇の一節にどこまでも似ている。もしかすると、こういう出典をぼんやりと意識しながら作ったのかもしれないと思う。

子輿與子桑友、而霖雨十日、子輿曰「子桑殆病矣。」裹飯而往食之。至子桑之門、則若歌若哭、鼓琴曰「父邪。母邪。天乎。人乎。」有不任其声而趨挙其詩焉。
子輿入、曰「子之歌詩、何故若是?」
曰「吾思夫使我至此極者而弗得也。父母豈欲吾貧哉。天無私覆、地無私載、天地豈私貧我哉。求其為之者而不得也。然而至此極者、命也夫。」

子輿と子桑は友だちになり、そうして霖雨(ながあめ)が十日降り、子輿は「子桑は殆(おそらく)病いにでもなっているだろう」といって、飯を裹(包)んで食べさせに行った。子桑の門まで来ると、歌うような哭くような声が聞こえ、琴を鼓(弾)いて「父なのか、母なのか、天なのか、人なのか」と声を出すのも絶え絶えにして、趨(急)いでその詩を歌う声がした。
子輿は入り、「子(君)の歌詩(うた)は、どうしてそうなのかい?」と言えば
(子桑は)曰う「私は私をここまで落としていったものを考えていたけどわからなかった。父や母は私を貧しくするのを望むわけがないし、天が私(贔屓)して覆(被)さったり地が私(贔屓)して物を載せたりもないとすると、天や地も私を貧しくするわけがないのに、このようにしているものを考えても得られない。それなのにここまでになってしまったのは命なのか。ああ」(『荘子』大宗師篇)

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています