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23-14  剥之大有・27-41  頤之損

本文(剥之大有)

庭燎夜明、追古傷今。陽弱不制、陰雄生戻。

注釈

通比。艮為庭、為燎、為明、坎為夜、比祗九五一陽故曰陽弱、曰陰雄。陳樸園云「宣王中年怠政、而庭燎詩作、後脱簪珥諫曰“妾不才使君王晏朝、請待罪永巷、宣王悟”、林曰「追古傷今」指其事也。義與毛異。(山地剥から火天大有へ)

剥から比になるときに通じる。艮は庭(出典不明)・燎(迭象の火)・明(迭象の光明)、坎(大有の裏卦?)は夜(説卦伝の月?)、水地比の五爻は一つだけの陽なので「陽弱」「陰雄」という。陳喬樅(字:樸園)は「宣王は中年にして政を怠ったので、「庭燎」の詩が作られ、(姜后は)後に簪と珥(耳玉)を脱いて諫めて「私の不才が君に朝遅(晏)く起きさせている、永巷にて罪を待っていたいのです」といって、宣王は悟った」という。『易林』に「昔のことを追って今を傷める」というのはこの事を指す。「庭燎」詩の意味は毛詩(詩経の学派の一つ)とは異なる。

本文(頤之損)

庭燎夜明、追古傷今。陽弱不制、陰雄坐戻。

注釈

詳剥之大有。
剥から大有になるときに詳しくあります。(坐はおそらく生の誤り。山雷頤から山沢損へ)

日本語訳

庭燎(にわび)は夜に明るく、古を追って今を傷む。陽は弱くして制せず、陰は雄(熾んにして)戻(不祥)を生む。

解説

比は大有の裏卦なので、剥から比になるときとは逆の意味になるらしいです(剥の中でも周りを収めているような比、剥の中で妄想に耽るような大有という違いかも)。迭象を使った解釈や裏卦はまあ置いておきます。

陳喬樅は清代の人で、詩経のさまざまな学派のことを研究していたのですが、その本は身近に見られる環境にいないので、かわりに王先謙『詩三家義集疏』に引用されているもので済ませます……。どうやらこれによると斉詩の説らしいので、陳喬樅『斉詩遺説考(斉詩という一派についての遺説)』から引用したのかもです。

『易林』頤之損「庭燎夜明、追古傷今。陽弱不制、陰雄生戻。」此斉説。陳喬樅云「『列女伝』「宣王嘗早臥晏起、后夫人不出房。姜后脱簪珥、待罪於永巷、使其傅母通言於王曰‘妾不才、妾之淫心見矣、至使君王失禮而晏朝、以見君王楽色而忘德也。夫苟楽色、必好奢窮欲、亂之所興也。原亂之興、従婢子起。敢請婢子之罪。」王曰「寡人不德、実自生過、非夫人之罪也。」遂復姜后而勤於政事。早朝晏退、卒成中興之名。” 宣王中年怠政、而庭燎詩作、後脱簪珥諫、當在此際。」(『詩三家義集疏』巻八 小雅・庭燎より)

『易林』の頤から損になるときに「庭燎夜明、追古傷今。陽弱不制、陰雄生戻。」とあるのは斉詩の説に依っている。

陳喬樅は『列女伝』賢明・周宣姜后に「宣王はかつて早く寝て遅く起きてきて、后や夫人は閨から出さないことがあった。姜后(宣王の正妃)は簪や耳飾りを外して、宮中の小径で罪を待ち、乳母役の女官に王まで言伝させて「私の不才ゆえに、私のだらけた気持ちが見えて、王にまで礼を失わせて朝も遅くまで寝させ、逸楽に耽って德政を忘れさせているのですが、逸楽に耽っていては、必ず奢侈を好み欲を窮め、乱れの起るもとになって、乱れのもとを尋ねるに、それは私から起こっているのです。それゆえ私の罪を咎められれば……」というので、宣王は「私こそ不德にして、みずから過を生んでいた。あなたの罪ではない。」といって、そうして姜后を正妃の位に戻して政事に勤めるようになり、朝は早く起きて遅くに退き、ついには中興の名を成した。」とあるので、宣王は中年にして政を怠ったので、「庭燎」の詩が作られ、(姜后は)後に簪と珥(耳飾り)を脱いて諫めて……というのは、このときのことだと云っている。(詩経の別の一派 毛詩では、早くより起きて政事に勤めた宣王を讃える詩としている)

その「庭燎」の詩は、斉詩の説に依るとこんな感じです。

  庭燎
夜如何其、夜未央、庭燎之光。
君子至止、鸞聲將將。

夜如何其、夜未艾、庭燎晣晣。
君子至止、鸞聲噦噦。

夜如何其、夜郷晨、庭燎有輝。
君子至止、言観其旂。

夜はどれほど、夜はまだ明けず、庭燎のあかり。
人々はやってきて、車の鈴がしゃんしゃんと鳴る。

夜はどれほど、夜はまだ尽きず、庭燎はちらちら。
人々はきて、車の鈴はさらさらと鳴る。

夜はどれほど、まもなく明ける、庭燎に明かりがさしている。
人々はきて、その旂(旗)が見える。

この詩を、人々がもう起きているのに、まだ寝ている宣王を譏ったものだと解しているらしいです。この解釈では「追古傷今」の「昔のことに耽る」がないような気がするのですが……。

個人的には、庭燎は祭灯として解釈したい(祭祀で灯す明かりという意味もあります)と思っていて、雰囲気としてむしろ近いのはこれではないかと……。

其明年、斉人少翁以鬼神方見上。上有所幸王夫人、夫人卒、少翁以方蓋夜致王夫人及灶鬼之貌云、天子自帷中望見焉。於是乃拝少翁為文成将軍、賞賜甚多、以客禮禮之。文成言曰「上即欲與神通、宮室被服非象神、神物不至。」乃作画雲気車、及各以勝日駕車辟悪鬼。又作甘泉宮、中為台室、畫天・地・太一諸鬼神、而置祭具以致天神。居歲餘、其方益衰、神不至。乃為帛書以飯牛、詳不知、言曰此牛腹中有奇。殺視得書、書言甚怪。(『史記』封禅書)

その明年、斉の人で少翁というのが鬼神の方術によって上(漢の武帝)に通された。武帝は愛していた王夫人という妃がいたが、王夫人が亡くなると、少翁は方術でさて、「夜に王夫人と竈神の姿を見せましょうといい、武帝は帷の中からそれを見たのだった。そうして少翁は文成将軍の位を賜り、褒賞は甚だ多く、客の礼で重んじられていた。文成将軍は「帝が神とつながりたいとお思いでしたら、宮室の飾り物や幃に障子などが神の姿を象っていないと、神霊は至らないのです。」と云ったので、そこで雲気の車を描き作り、五行の相克が起る日にはその車に乗って悪鬼を避け、さらに甘泉宮を作り、その中には楼台を作って、天や地、さらには太一などの諸々の鬼神を描き、そして祭具を置いて天の神を呼んでいた。そのようにして一歲餘りして、その方術の効き目はいよいよ衰えて、神も来なかった。それゆえ少翁は絹に字を書いて牛に飲ませ、詳しくは知らないふりをして、「この牛の腹の中に不思議なものがある」といって、殺して見ると何か書かれたものがあり、書の言葉は甚だ不気味なものだった。

それは置いておいて、頤から損だと頤の二爻のみが変わることになるので、頤の爻辞も載せておきます。

六二:顛頤、拂経于丘。頤、征凶。
顛(逆さまに)頤(養う)、経(道理)を丘(踏むところ)に拂(違える)。頤(養っていれば)、凶に征く。

頤は上のものが何を重んじてみずから養っているかをみて、下のものもそれに習う卦です。本来は上のものを見るべきなのだが、二爻は五爻と応じてないので、却って近くにある初爻を養うことになり、道理を外れてしまう。そのまま養っていれば、いずれ凶になるという意味らしいです(かなり読みづらいですが)。それが損になると考えると、損は下のものを削って上のものを増す様子なので、わずかに頤の二爻が養っていたものが、損になると上にあるものから大きく削られる様子だと思います(衰世の宴は、不安な宮廷と合わせて行われるので)

剥は晩秋の夕暮れのような時間、それなのに大有(たくさん持っている)と思い込みたいとき、少翁の方術に頼りたくなるような気持ちが、夜に庭燎(ひ)を焚いて祭祀をする様子だと思っているのですが、これはあまり根拠はない説。

余談

「庭燎」という作品は、日本にも実はあるのですが、平安初期の神楽歌(あるいは『古今集』巻二十 神遊びの歌)から引用してみます。

  庭燎(にわび)
深山には霰降るらし
外山なる正木の葛
色著きにけり

遠くの深い山には霰が降っているらしい、外にある山の柾の蔦も寒くて赤く色づいている、という歌です。この寂寞として冬に入る前のような風景の中にぼんやり観相に耽っているような様子と、自然の柔らかな感応がある平安初期の作風をよく感じられて、個人的には『古今集』で最も好きな歌の一つだったりする。

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ぬぃ
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