Uncategorized

43-35  夬之晋

本文

執轡西朝、回還故處。麦秀傷心、叔父有憂。

注釈

通需。兌為西、艮手為執、為拘。轡所以拘拂馬、疑艮象也。坤為麦、為心。艮為叔、乾為父、坤憂。言箕子朝周、遇殷墟、作麦秀之歌。箕子為紂叔父。(沢天夬から火地晋へ)

夬から需になるときに通じる。兌は西(後天八卦)、艮(晋の互体)の手は執る・拘(引)く(説卦伝から派生)。轡は馬を拘拂(引く)もので、艮の象意だと思われる。坤は麦(地に生えている)、心(迭象)。艮は叔(少男)、乾は父、坤は憂(迭象)。箕子が周に朝したときに、殷の故墟に遇って、「麦秀の歌」を作ったことをいう。箕子は殷王紂の叔父。

日本語訳

轡を執って西に朝すれば、古い居処に回還(帰って)きたのだが。麦の穂がさらさらと光るばかりで心を傷つけ、叔父は憂う面もある。

解説

夬は上に残っていた陰の気が、溢れた水に押し流されていくこと、晋は多くの臣(地)のなかで上に一人 火のように高く耀くことで、その二つの間には殷が滅んで周が興ったような流れがあります。

箕子は殷の紂王の叔父にあたり、紂王の暴戻を諫めて聞き入れられず、それでも殺されずに生き残りつつ争わないために狂人を佯(装)って過ごしていたが、殷が周に滅ぼされると周武王から重んじられ、それでも殷にすんなりと入ることも無かった人です。

具体的な話は『史記』巻38にあってかなり長いので後に書きますが、今まで心を苦しめてきたものが消えてすっきりするけど、悲しいものも残るという意味だと思います。

箕子者、紂親戚也。紂始為象箸、箕子嘆曰「彼為象箸、必為玉桮。為桮、則必思遠方珍怪之物而御之矣。輿馬宮室之漸自此始、不可振也。」紂為淫泆、箕子諫、不聴。人或曰「可以去矣。」箕子曰「為人臣諫不聴而去、是彰君之悪而自說於民、吾不忍為也。」乃被髪詳狂而為奴。遂隠而鼓琴以自悲、故伝之曰箕子操。
武王既克殷、訪問箕子。武王曰「於乎。維天陰定下民、相和其居、我不知其常倫所序。」
箕子対曰「在昔……。」於是武王乃封箕子於朝鮮而不臣也。
其後箕子朝周、過故殷虚、感宮室毀壊、生禾黍、箕子傷之、欲哭則不可、欲泣為其近婦人、乃作麦秀之詩以謌詠之。其詩曰「麦秀漸漸兮、禾黍油油。彼狡僮兮、不與我好兮。」所謂狡童者、紂也。殷民聞之、皆為流涕。(『史記』巻38 宋微子世家)

箕子は、殷王紂の叔父で、紂が始めに象牙の箸を作ると、箕子は嘆いて「あれが象牙の箸を作ると、必ず玉の桮(盃)を作るだろうし、盃を作れば、必ず遠方の珍怪(めずらしい)物を欲しがり手に入れる。輿や馬、宮室の少しずつ飾られるのはここから始まって、殷は立ち行かなくなる」といっていた。

その後、紂が淫泆(過ぎた楽しみに耽る)と、箕子は諫めて聴き入れられず、ある人は「逃げた方がいいのでは」といっても、箕子は「紂の臣が諫めても聴き入れられず去るのは、紂を悪く言って民に媚びているようで、それも好きにはなれないが、殺されるつもりもない」として、髪を振り乱して狂人のふりをして奴婢に落とされ、遂には隠れ住んで琴を鳴らして一人で悲しみ、この曲は「箕子操」と呼ばれる。

その後、武王はすでに殷を滅ぼして、箕子を訪ねて、武王はいう「ああ、天は何もせずとも民を治めてその家にうまく居させているが、私はその方法を知らないので教えてほしい。」
箕子は「昔……(色々いう)。」それを聞いて武王は、箕子に朝鮮を与えて住ませ自らの臣にはしなかった。

その後、箕子が周のほうに来たことがあり、昔の殷の都を過ぎたとき、宮室はすべて毀壊(こわ)され、麦や黍が育っているのをみて、箕子は悲しんで、哭こうとしても上手く哭けなくて、涙を流すのも同情を求めているようで、「麦の穂」の詩を作って歌うだけにした。その詩は
「麦の秀(穂)の漸漸(ざやざやと光り)兮、禾黍(きび)の油(の金色の中)。あの狡僮(悪い王子は)兮、私を嫌っていたが。(悪い王子とは、紂のこと。殷のことを知っている民は、聞いては皆な涙を流していたが)」

夬から晋になるときは「麦秀漸漸兮、禾黍油油。彼狡僮兮、不與我好兮。」のように、麦はきれいな季節になって、今は今でいいけど、どうにもどうして人間は救いようのないふうに生まれてきたり、あんなことをしていたのか分からないという気持ち悪さは今でも消えないままで、それでも古いものを捨てていくのだが、あの者に同情はしないけど、そういうふうに生きていたことへの暗い怖さや気持ち悪さは消えない(という意味だと思う)。

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています