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4-50  蒙之鼎

本文

三人為旅、俱帰北海。入門上堂、拜謁王母。勞賜我酒、歓楽無疆。

注釈

通屯。震為人、後天数三、震為商旅、故曰三人為旅。坤為海水、位北、故曰北海。震為帰、故帰北海。艮為門堂、震為入、為上。艮為拝、震為謁、為王、坤母、故曰王母。坎為労、為酒、坤為我。象全用旁通。(山水蒙から火風鼎へ)

蒙から屯になるとき(異俗に馴染めない)に通じる。震(鼎の裏卦の屯?)は人(出典不明)、後天八卦の東は九宮図では三、震は商旅(迭象)なので、三人で旅をする。坤は海水(迭象)、方位は北(先天八卦)なので北海。震は帰る(出典不明)なので北海に帰る。

艮は門堂(説卦伝)、震は入る・上る(出典不明)。艮は拝す(迭象の臣から)、震は謁す(出典不明)、王(迭象)、坤は母(説卦伝)なので、王母(西王母?)。坎は労する(坎廩として苦しむ?)、酒(深く溺れる)、坤は我(陰の私)。象意は全て旁(広く)通じたものを用いている。

日本語訳

三人で旅をして、俱に北海に帰る。門に入り堂に上り、王母に拝謁する。労して私に酒を賜り、歓楽は疆(窮まら)ない。

解説

注釈にあまりにも出典不明が多いです。蒙は山の下に険しいものがあって手探りの様子、鼎は木の上に火をかけて鼎で煮ているように煉成することなので、とりあえず何かが物になることを描いた詩かもしれないです。

蒙のように深い山々が北の海にあるとすれば(『山海経』のように)その山に入る旅をして山中の宮閣に出会い、入ってみると西王母(西ではないけど)がいる。そこで酒を振舞われて来た事を喜ばれ(労賜)、その楽しみは窮まらないほど(という愉しい山中異界譚です)。

鼎は練って作るなので、よく分からないときから奥へ奥へ入っていくと表の山から裏の山に入るように、その入ることいよいよ深くなって、いよいよ入り難く、見るものはいよいよ奇で、不思議な霊妙境は多くは険しい中にあるという詩だと思うのですが、それを鼎に喩えると、煉丹の窯で煙がもやもやと溢れ出ていたときから、炉火の青く澄むようなときになることかもしれないです。(北海はその険しい山と海の比喩、王母はそんな山中の神です)

あと、微妙に気になってくるのが「三人為旅」なのですが、王安石「遊褒禅山記」と雰囲気が似ているので、一節を引用します。

褒禅山亦謂之華山、……所謂華山洞者、以其乃華山之陽名之也。距洞百餘步、有碑僕道、其文漫滅、独其為文猶可識曰“花山”。
其下平曠、有泉側出、而記遊者甚衆、所謂前洞也。由山以上五六里、有穴窈然、入之甚寒、問其深、則其好遊者不能窮也、謂之後洞。余与四人擁火以入、入之愈深、其進愈難、而其見愈奇。有怠而欲出者、曰「不出、火且盡。」遂与之俱出。蓋余所至、比好遊者尚不能十一、然視其左右、来而記之者已少。蓋其又深、則其至又加少矣。方是時、予之力尚足以入、火尚足以明也。既其出、則或咎其欲出者、而余亦悔其随之而不得極夫遊之楽也。
於是余有嘆焉。古人之観於天地・山川・草木・蟲魚・鳥獣、往往有得、以其求思之深而無不在也。夫夷以近、則遊者衆、険以遠、則至者少。而世之奇偉・瑰怪・非常之観、常在於険遠、而人之所罕至焉、故非有志者不能至也。有志矣、不随以止也、然力不足者、亦不能至也。有志与力、而又不随以怠、至於幽暗昏惑而無物以相之、亦不能至也。

褒禅山は別名華山ともいい、いわゆる華山の洞とは、華山の陽(南側)の洞である。その洞を距てて百步あまりのところに、石碑の僕(倒れた)道があり、其の文は摩滅していて、ただ“花山”の字が見分けられるだけである。

其の下は平らに曠(開)けており、泉も側(横)から出ていて、そのことを記して遊んだ者は甚だ多く、これがいわゆる前洞にあたる。山に沿って上ること五六里にして、窈然(ぼんやり)と暗い穴があり、これに入るととても寒く、その深さを問えば、好んで遊ぶ者とてその奥を窮められないほど深く、これを後洞という。私は四人と火を持って入ると、入ること愈々深くして、その進むこと愈々難しく、そしてその見るものは愈々奇であったが、怠(疲れて)出たくなった者が、「そろそろ出ないと、火がなくなる」と云ったので、とうとうそれに従って出たのだが、おそらくは私の入ったところなど、好んで洞に遊ぶ者に比べれば十分の一にも満たないであろうが、その左右をみれば、入って記した者は既に少ないものばかりで、思うにそのさらに深いところは、入ったことのある者はもっと少ないのだろう。この時は、私の力はまだ入っていくことはできて、火も十分足りていたのに、既に出てしまっては、その出ようとした者を咎めても、私もまたそれに随ってしまい、洞に遊ぶ楽しみを尽くせなかったのを悔いたのではあるが。

このとき私は嘆じて思う。古人の天地・山川・草木・蟲魚・鳥獣などを観て、往往にして得るものがあったのは、その求める思いの深さに由らないものはない。そもそも夷(平ら)にして近いものは、遊ぶ者も多いのだが、険しくて遠いものは、至った者は少く、それでいて世の奇偉・瑰怪・非常の観は、常に険しく遠い中にあり、人の至るものは稀であり、それ故志のある者でなければ至れないのだが、志があって、周りに随って止めなくても、力が足りない者には、至ることはできず、志と力があって、また周りに流されてやめてしまうことはなくても、幽暗(くらい)中に至って昏惑(道に迷い)助けになる物もないせいで、至れないこともある。

三人で北の海まで旅してきたけど、その山の険しさに帰っていく者も多くいて、そんな中私だけがもっとも深い本質、山の奥底にある大きな瓊宮にたどり着き、王母から歓待も受けてその楽しみは無窮である、という詩なのではないかなと思います(王安石や蘇軾の文章って、論理的で切れ味鋭いのに、どことなく情趣にもあふれていて好きだったりする)

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています