霊山のいろいろ

10-60  履之節・37-32  家人之恒

今回は二つまとめて読んでもいいと思ったので、合わせていきます。

本文(履之節)

安上宜官、一日九遷。升擢超等、牧養常山、君臣得安。

注釈

互艮為官、為安、陽在上、故曰安上。伏離為日、坎数一、故曰一日。震為遷、為升、数九、故曰九遷。艮為山、為臣。震為君。(天沢履から水沢節へ)

節の互体の艮は官(迭象の臣などから派生?)、安(動けない?)、艮では陽爻が上にあるので、「上を安んずる」という。説の裏卦の離は日(説卦伝)、坎の数は一(九宮図)なので「一日」という。震(節の互体)は遷る・升る(驚くから派生)、震は納甲で庚になり、庚は『礼記』月令の成数で九なので、「九たび遷る」。艮は山、臣(迭象)。震は君(迭象)。

日本語訳

上(君)を安じて宜しく官たるべく、一日にして九遷す。升擢せられて等を越え、恒山に牧養すれば、君も臣も安きを得る。

本文(家人之恒)

安上宜官、一日九遷。逾群越等、牧養常山。

注釈

通益。艮為山、為上、為官。乾為日、卦数一、故曰一日。震数九、故曰九遷。坤為群、為等、為牧養。震為遷、故曰逾越。艮為山、坤北故曰常山。常山、北嶽也。(風火家人から雷風恒へ)

家人から益になるときに通じる。艮(恒の裏卦の互体?)は山、上(迭象の天・貴などから派生?)、官(迭象の臣から派生?)。乾(恒の互体)は日(迭象)、数は一(乾兌離震…)なので、「一日」という。震は納甲で庚になり、『礼記』月令の成数で九なので、「九遷」という。坤(恒の裏卦の互体)は群・等(衆:多くの者たち?)、牧養(母から派生?)。震は遷る(驚く)なので、「逾越(越える)」。艮は山、坤は北(後天八卦)なので、「常山」という。常山は、北岳のこと。

日本語訳

上(君)を安じて宜しく官たりて、一日にして九遷す。群を逾え等を越えて、恒山に牧養する。

解説

この二篇は、ほとんど文字に違いがなくて、意味もほとんど同じだと思っているので、まとめて解説します。

まず、この二つの詩の出典となっているのは、おそらく『史記』巻81 李牧伝だと思うので、関係するところを引用します。ちなみに常山は恒山(河北省張家口市~山西省大同市あたりの恒山山脈)のことで、北を守る山として祀られてます。

李牧者、趙之北辺良将也。常居代雁門、備匈奴。以便宜置吏、市租皆輸入莫府、為士卒費。日撃数牛饗士、習射騎、謹烽火、多間諜、厚遇戦士。為約曰「匈奴即入盗、急入收保、有敢捕虜者斬。」匈奴毎入、烽火謹、輒入收保、不敢戦。如是数歳、亦不亡失。然匈奴以李牧為怯、雖趙辺兵亦以為吾将怯。趙王讓李牧、李牧如故。趙王怒、召之、使他人代将。
歳餘、匈奴毎来、出戦。出戦、数不利、失亡多、辺不得田畜。復請李牧。牧杜門不出、固称疾。趙王乃復彊起使将兵。牧曰「王必用臣、臣如前、乃敢奉令。」王許之。
李牧至、如故約。匈奴数歳無所得。終以為怯。辺士日得賞賜而不用、皆原一戦。於是乃具選車得千三百乗、選騎得萬三千匹、百金之士五萬人、彀者十萬人、悉勒習戦。大縱畜牧、人民満野。匈奴小入、詳北不勝、以数千人委之。単于聞之、大率衆来入。李牧多為奇陳、張左右翼撃之、大破殺匈奴十餘萬騎。滅襜襤、破東胡、降林胡、単于奔走。其後十餘歳、匈奴不敢近趙辺城。

李牧は、(戦国の)趙の北辺の良将で、ずっと代群の雁門(山西省忻州市あたりの山)に住んで、匈奴に備えていた。趙王から官吏を好きに置くことも許されていて、市の税はみな官衙に入れて、兵たちを養っていた。一日に数牛をさばいて兵に食べさせ、射騎を習わせ、烽火を見張らせ、間諜を多く送り、兵たちを重く扱っていたが、規を作って「匈奴が盗みに来たら、急いで入り城内に人や物を収めよ、無理をしてでも匈奴を捕えようとした者は斬る」と云う。匈奴の入るごとに、烽火は隙なく上がり、その度に城内に逃げ込み、まったく戦わなかった。このようなことが数年、まったく失うものもなかったが、匈奴は李牧を怯として、趙の辺兵もみずからの将を怯としたので、趙王は李牧を譲(責めたが)、李牧はそのままだったので、趙王は怒って呼び付け、他の者に将を代わらせた。

一年餘りして、匈奴が来るごとに出でて戦い、出でて戦うと、度々不利になって、失うものも多く、趙の北辺は田を作ったり獣を飼うこともできなくなって、また李牧を戻してほしいと王に請う。李牧は門を閉ざして出ず、固く病と称していたが、趙王は無理矢理にでも兵を率いさせようとするので、李牧は「王はどうしても私を用いたい、私は今まで通りやる、それなら命を受けてもいいです」というので、王は許した。

李牧は来ると、もとの規の通りにしたので、匈奴は数年なにも手に入らず、ついに李牧を怯としたが、辺境の兵たちは日々賞賜を得ても使うところがなく、みな一戦をしたいと願った。そうして李牧は、良い車千三百乗、良馬一万三千匹、褒賞は既に百金を越えている兵五万人、強弓を引く者十万人を率いて、一つにまとめて鍛え上げた。そして、広く牛や羊を放って飼い、民も野に満ちるようにしたので、匈奴が少し入って来ると、わざと北(敗けた)ふりをして、数千人を連れて行かせ、単于(匈奴の王)はこれを聞くと、大軍で入ってきた。李牧は奇陳(変わった陣形)を多く作っておき、左右に広げて囲むように撃ち、大いに匈奴十万余騎を破って、そのまま襜襤・東胡・林胡(いずれも北辺の遊牧民)も破り、単于は逃げていく。その後十数年、匈奴は趙の辺境の街には近づかなかった。

雁門は、恒山山脈の中にある勾注山という山の上の関所で、山の中を通って南北に走る道をふさぐように立っているのですが、そのあたりの街を守っていた李牧は、匈奴に攻め込まれると何があっても守るだけで、危ない北辺にあっても街は全く失うものはない、という感じの話です。

履は危ういものを履むで、水天一色の渺茫たる中にいて、その水中には蛟龍のうろうろと宛転して藪林には毒蛇ののろのろと這い回るような茂みが広がっていても、その豊かな植物と水に生かされているように、危うい中にいても生きていくこと、節は水辺の上に豊かな水があって、程よい形に納まっているみたいに、物事をやや抑えている(抑えすぎると辛くなるので、ほどよい緩さで)様子です。家人は火が風を吸い込んでは燃え、燃えては風を吸い込むように内に閉じるような姿で、恒は上に強い雷があって、下に柔かい風があって、春の嵐の穏やかに広がり吹き荒れる様です。

このようにみると、この詩にかかわる卦はどれも割と落ち着いた雰囲気が多いです。易林の詩で「安上宜官、一日九遷」は雁門を任された李牧は、街を守ったゆえ君を安んじ、いい官でもあり、一日にして九たび遷(上げられる)ほど重んじられることで、それは危うい北辺の街に居ながらも無事に過ごしたり(履)、街の内をうまく守って育てていくこと(家人)、それゆえ特に重んじられて(升擢超等・逾群越等)、逸る者を抑えて外に攻め込まずに数年無傷だったり(節)、街の中では人々がいつも落ち着いて暮らせたり(恒:雷のごとく強い令を出して穏やかな人々をまとめる)するので、「牧養常山」できるみたいな感じだと思います。

もっとも、履之節は危うい中にいるときはなるべく抑えるようにせよ、家人之恒は内を守ってその中でまとめ上げるみたいな雰囲気の違いがありそうですが、大体の印象が似ているので詩の解釈も近いものにしています。

余談

北岳恒山はいつでも深い水のように落ち着いた山として常山とも呼ばれて、その内部にはさまざまな軍事要塞のような地形が埋め込まれています。(ちなみに東岳泰山は天子封禅の山、西岳華山は飄忽たる神仙の山、南岳衡山は鬱律たる幻想の山、中岳嵩山は古い神たちの眠る山という雰囲気がある)

ネットで調べて最近知ったのですが、恒山周辺の山は長城と一つになって、巨大な塀のように北方からの道を閉ざしています。長城って、なんとなく塀のように続いていると思っていたのですが、実は山々の間を南北に走る道のところには幾つかの関所が置かれていて、後に外辺を守る外長城、その少し内側を守る内長城のそれぞれに外三関(雁門関・寧武関・偏頭関)、内三関(居庸関・紫荊関・倒馬関)があります。

その中でも雁門関は、天下随一の険しさとして知られ(天下の九塞という、名高い要害のうち第一でもある……)、山の上に何重にも城壁を重ねて、そこを通るのはほぼ無理というほどに頑丈で、門の上には「天険」「地利」に匾額を掲げられていたりと、険阻なところの多い恒山周辺でも特に険しい山のようです。

ちなみに、恒山山脈と一部繋がるようにして南北に走る太行山脈にも幾つか切れ目(陘)があって、それだけ守れば他のところは崖のような山になっていたりと、北辺の山は巉巖巍々として近寄り難い雰囲気を『易林』でもどことなく漂わせながら書いていると思います。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています