Uncategorized

23-8  剥之比・36-15  明夷之謙

本文(剥之比)

明夷兆初、為穆出郊。以讒復帰、名曰豎牛。剥亂叔孫、餒於虚邱。

注釈

坎隠伏、故曰明夷。初動、故曰兆初。坤為傷、坎上下兌口相背、故曰讒。艮為豎、坤為牛、為餒、艮為叔孫、為沙邱。『左伝』昭四年「叔孫穆子出亡、至庚宗、遇婦人、宿焉。生豎牛。及自斉帰、遂使為豎。後叔孫田於丘蕕遇疾、豎牛遂為亂、穆子餒死。」又五年云「初、叔孫穆子之生、荘叔筮之、遇明夷之謙」故曰明夷兆初。林全用此事、惟虚邱伝作丘蕕而李善『文選』「運命論」注引作蒲丘。拠此則虚丘応作蒲丘。(山地剥から水地比へ)

坎は隠伏(説卦伝)なので「明夷(地の下に日が隠伏)」という。初めて動くことを「兆初」といっている。

坤は傷(出典不明)、水地比の坎は上下からみると兌(の一部)が口として背き合っている様子なので、讒という。艮は豎(幼い子供、説卦伝の少男)、坤は牛(説卦伝)・餒(飢える、陰の極みから派生?)、艮は叔孫(伯仲叔…で長男・中男・少男)、沙邱(説卦伝の山)。

『春秋左氏伝』昭公四年に「叔孫穆子は出でて亡(逃げ)、庚宗に至ると、ある婦人に遇い、そこに宿を借りた。(その婦人は後に)豎牛を生んだ。叔孫穆子が斉から帰ると、ついには豎牛を豎(使いの童)にした。後に叔孫穆子が丘蕕に田猟に行って病になり、豎牛はついに乱を起こして、叔孫穆子は飢死させられた。」また、昭公五年には「初め、叔孫穆子の生まれたとき、(親の)荘叔は筮して、明夷の謙に之くに出会った」とあるので「明夷兆初」という。『易林』の詩は全てこの事を用いて書いてある。ただ「虚邱」は『春秋左氏伝』では「丘蕕」となっていて、李善の『文選』「運命論」注では「蒲丘」になっている。これに依れば「虚丘」は「蒲丘」とするのがいい。

日本語訳

明夷の初めに兆すのは、穆子の郊に出づるのこと。讒によって帰ってくるのは、豎牛という名で、叔孫を剥乱して、虚邱に餒えさせる。

解説

これは本音をいうと書きたくない記事なのですが、読み終わってしまったので仕方なく書きます。真面目に読まないでいいです。

まずは『春秋左氏伝』の昭公四年からです。引用するとこんな感じです。

初、穆子去叔孫氏、及庚宗、遇婦人、使私為食而宿焉、問其行、告之故、哭而送之。適斉娶於國氏、生孟丙仲壬。夢天壓己、弗勝、顧而見人、黒而上僂、深目而豭喙、號之曰「牛助余!」乃勝之。旦而皆召其徒、無之、且曰「志之。」及宣伯奔斉、饋之、宣伯曰「魯以先子之故、将存吾宗、必召女、召女何如?」対曰「願之久矣。」魯人召之、不告而帰。既立、所宿庚宗之婦人、献以雉、問其姓、対曰「余子長矣。能奉雉而従我矣。」召而見之、則所夢也。未問其名、號之曰牛。曰「唯」、皆召其徒、使視之、遂使為豎、有寵、長使為政。……田於丘蕕、遂遇疾焉。豎牛欲亂其室而有之。強與孟盟、不可、叔孫為孟鍾曰「爾未際、饗大夫以落之。」既具、使豎牛請、日入弗謁、出命之日、及賓至、聞鍾聲、牛曰「孟有北婦人之客。」怒将往、牛止之、賓出、使拘而殺諸外、牛又強與仲盟、不可、仲與公御萊書、観於公、公與之環。使牛入示之、入不示、出命佩之。牛謂叔孫「見仲而何。」叔孫曰「何為?」曰「不見、既自見矣。公與之環而佩之矣。」遂逐之、奔斉。疾急、命召仲、牛許而不召。杜洩見、告之飢渴、授之戈、対曰「求之而至、又何去焉。」豎牛曰「夫子疾病、不欲見人。」使置饋于個而退。牛弗進、則置虚命徹、十二月癸丑、叔孫不食、乙卯、卒。牛立昭子而相之、公使杜洩葬叔孫、豎牛賂叔仲昭子與南遺、使悪杜洩於季孫而去之。

初め、叔孫穆子は(魯の叔孫氏のもめ事を避けて)叔孫氏を去り、庚宗というところに及んで、ある婦人と出会い、ひそかに食を分けてもらい、さらに宿を借りた。どこに行くのかを問われてその故を告げると、泣きながら見送られた。

斉に行って公家の人を娶り、孟丙と仲壬を生んだ。あるとき、夢で天がみずからを潰すように下りてきて、支えきれなくなったときに周りをみると人がいた。その姿は黒くて背は僂(かがまり)、目は深くくぼんで口は豚のようにひしゃげていたので、叫んで「牛、助けてくれ」といえば、天が下りてくるのを押し返した。次の朝、周りの者たちを集めてみてもこのような姿の者はなく、そういうわけで「これを書き残しておこう。」といった。

同じ叔孫氏の宣伯が斉に逃げてきたときは、これに食べ物を送っており、宣伯は「(私たちの故郷の)魯では昔のつながりによって、私の家を残すのに必ずや汝を召し出すだろうけど、もしそうなったらどうする?」と聞いた。叔孫穆子は「それを願うこと久しい。」と答えて、魯の人が召し戻したときは、宣伯には告げずに帰っている。

既に叔孫氏の長に立てられてのち、宿を借りたことのある庚宗の婦人が雉を献じてきて、その姓を問えば、「私の子も大きくなって、雉を献じるため私と共に来たのですよ。」という。これを召して見てみれば、昔の夢にみた者だったので、その名を問う前に「牛」と名づけた。牛と名づけられた者は「はい」と答えた。叔孫穆子は周りのものを召してはこの子を見させ、そうしてこれを豎(使いの童)として重んじ、長じてのちは政事にも関わらせた。

……(あるとき、叔孫穆子は)丘蕕にて田猟して、病に罹ってしまう。豎牛(牛のような姿の子)は叔孫氏の家を乱して取ってみたいと思っていたので、孟丙と盟を結ぼうと強いたが、上手くいかなかった。叔孫穆子は孟丙のために鐘を鋳って「まだその時ではないだろうけど、大夫たちをもてなすことがあれば、この鐘を使え。」と言っていたので、(孟丙はその時が来たと思って)豎牛に(叔孫穆子のところへその日取りを伺いに)行かせた。豎牛は、穆子の家に入っても会わずに、出てきては日取りを告げた。賓たちが来るに及んで、鐘の音が聞こえると、豎牛は穆子に「孟丙は(あなたの代わりに勝手に)客を集めていますね。」という。牧師は怒って往こうとするが、豎牛は止めたので、賓たちが帰ったのち、孟丙を執らえて家の外で殺させた。

豎牛はまた仲壬とも盟を結ぼうと強いたが、それも出来なかった。仲壬と魯公の御者だった萊書、が魯公に会ったとき、公はこれに玉環を与えていた。(仲壬は一応は豎牛に頼んで)穆子に見せに行かせたのだが、豎牛は入っても見せずに、出てきて「仲壬がつけていい」と伝えた。豎牛は叔孫穆子に「仲壬を魯公に会わせてみて、どうでしたか。」と聞くので、穆子は「どういうことだ?」と聞くので、豎牛は「会わせてないのなら、自ら会いに行ったのでしょう。公は仲壬に玉環を与えていて、それを着けていましたから。」という。そうして仲壬は逐われて、斉に逃げた。

病が重くなり、仲壬を召し出すように豎牛に云ったが、「はい」と云うだけで呼んでくることはなかった。杜洩という者が穆子のところにきたので、これに飢渴することを告げ、戈を与えて(豎牛を除かせようとすると)、杜洩は「豎牛を探していたときに向こうから来たようですから、もう探しに行かなくてもいいでしょう。」という。豎牛は外から「穆子様は病が重いようで、人に会うのも辛いでしょう。」といって、膳を置かせて退がってしまう。豎牛はさらに食べ物を入れさせず、空の膳を置いては膳を下げさせ、十二月の癸丑の日には、叔孫穆子は何も食べられず、乙卯の日に卒した。豎牛は昭子(叔孫氏の一人)という者を立ててそれを支える形になり、魯公は杜洩に叔孫穆子を葬らせて、豎牛は叔仲昭子と南遺を取り込み、さらに杜洩が穆子を除いたと季孫氏に話してはこれを除かせた。

……長いですが、簡単にいうと、叔孫穆子が昔 斉に逃れたときにできた子が豎牛で、豎牛は穆子が魯に戻ったのちは使いの童として抱えられていたが、穆子が病になるに及んで周りのものたちを讒していき、さらには穆子も除いたという話です。『易林』の詩では「以讒復帰、名曰豎牛。剥亂叔孫、餒於虚邱」の元になっています。昭公五年もみていきます。

初、穆子之生也、荘叔以周易筮之、遇明夷之謙。以示卜楚丘、曰「是将行、而帰為子祀。以讒人入、其名曰牛、卒以餒死。明夷、日也、日之数十、故有十時、亦當十位、自王已下、其二為公、其三為卿、日上其中、食日為二、旦日為三。明夷之謙、明而未融、其當旦乎、故曰為子祀。日之謙當鳥、故曰「明夷于飛。」明之未融、故曰「垂其翼。」象日之動、故曰「君子于行。」當三在旦、故曰「三日不食。」離、火也、艮、山也。離為火、火焚山、山敗。於人為言、敗言為讒、故曰「有攸往、主人有言。」言必讒也。純離為牛、世亂讒勝、勝将適離、故曰「其名曰牛。」謙不足、飛不翔、垂不峻、翼不広、故曰「其為子後乎。」吾子亜卿也、抑少不終。」

初め、叔孫穆子の生まれたとき、(親の)荘叔は周易でこれを占ってみて、明夷の謙に之く卦が出た。これを卜楚丘(占い師の楚丘)に示すと、楚丘はいった。

「これは出て行くことがあって、さらに帰ってきてはあなたの祀りを嗣ぐ子になるでしょう。また讒人を入れることもあり、その名を牛といい、ついには餒えて死ぬことになる。

明夷というのは、日のことを云っている卦で、日は十種がある。それゆえ一日には十の時があり、人には十の位があって、王より下には、二つ目が公、三つ目が卿となっており、日が天の中にあって、食日は二つ目、旦日は三つ目になる。明夷の謙になるときは、明にして不融(高らかならず)、それは旦(朝)にあたっている、それゆえ「あなたの家の祀りを嗣ぐ」という(さほど良くも悪くもないの意)。

日の謙(小さくなった姿)は鳥、それゆえ「明夷は飛んでいく」という。明らかだけど未融(高からず)、それゆえ「その翼を垂れる」という。日の動く様子を象る故に、「君子は旅に行く」という。三つめの日は旦(朝)にあたるので、「三日(朝)のときには食べていない」という。

離(地火明夷)は火、艮(地山謙)は山のことで、離が火になって、火は山を焚けば、山は敗れる。人について言えば、(艮は『周易』説卦伝に「言を艮に成す」とあるので)敗れている言葉は讒という。それゆえ「往くところが有れば、主人は言有り」という。言は必ずや讒のことなり。純離(離為火)を牛とするので、世が乱れれば讒が勝ち、讒が勝てば離(山を焚く火)になっていくので、「その名を牛という」としている。謙なので足りず、飛んでも伸びやかでない、羽を垂らすので高からず、翼はあまり広くない、それゆえ「あなたの跡を嗣ぐ」とする。その子は亜卿(卿に次ぐ)ほどではあるけど、終わり方がよくないだろう。

……この易の解釈がかなり癖があるというか。明夷から謙になるときは、初爻だけが変わるので、明夷の爻辞も合わせてみていきます(『周易正義』と『左伝』の解釈が全然違うので、二通りの訳を載せます)。

初九:明夷于飛、垂其翼。君子于行、三日不食。有攸往、主人有言。

『周易正義』:明夷のときは于飛、垂其翼(隠れて逃げる)。君子の于行(逃げること甚だ急なので)、三日も食べる暇はない。有攸往(その逃げていく様子は)、主人(もてなした人は)有言(怪しんで色々云うけれど)。

『左伝』:明夷于飛(穆子は一度は叔孫氏の家乱を避けて出ていくけれど)、垂其翼(さらに出た先では身を隠すけど、(あなたの家を継ぐことはできる))。君子于行(その出ていくことは日の巡るようだったが)、三日不食(三日:朝になっても食されず)。有攸往(出ていった先で)、主人有言(主人の讒言に遇うだろう)。

『周易正義』では、明夷の暴君から遠いところにいる初爻は逃げるようにして明夷なところを離れ、その逃げることは甚だ急なので食べる暇もなく、見たものは不思議がるほどという意味です。一方の『左伝』では、「とにかく遠くに逃げることになり、身を隠している。明夷は明が満ちては夷(やぶれる)ようにあちこち巡る日のこと、日の巡るように旅をして、あるときは三日(朝)になっても食べられず。艮と離がつながるのは火が山を焼くようで、出ていった先で言(艮)を害するように主人は讒するだろう」と解しています。ちなみに離が牛というのは離・彖伝の「是以畜牝牛吉也(それゆえ牝牛を飼うのは吉)」からきているらしいです(独特のもやもやした解釈……)。

『易林』の詩でいう「明夷兆初、為穆出郊」が昭公五年の明夷之謙だと思うのですが、読み方としては「(斉から戻って以来、やや落ち着いていた)明夷の初めが兆してくるのは、穆子が郊に出て田猟したときのこと。讒によって叔孫氏に帰ってくるのは、豎牛。叔孫氏を追い落としては乱し、虚邱に餒えさせる。」のようになって、讒言で落としていくのが剥(剥乱という形で、わざわざ剥を云う)、そのあとに人々がつき随って「建萬國、親諸侯(萬国を建て、諸侯に親しむ)」ようになる様子が比です。

明夷が詩に入っているのが余計に難しく感じますが、たぶん明夷は叔孫穆子がどのような生き方になるか(謙はその派生解釈)、剥は豎牛の讒言、比は豎牛が周りを収める様子です。

本文(明夷之謙)

狼虎所宅、不可以居、為我患憂。

注釈

艮為虎狼、為宅、坎坤皆為憂患、故不可居。

艮は虎狼・宅(いずれも説卦伝の派生)、坎・坤はどちらも憂患(坎は説卦伝、坤は迭象)なので「居られない」。(地火明夷から地山謙へ)

日本語訳

狼虎の宅は、居るべきではない。私の憂患となっている。

解説

ついでなので、読んでしまいます。爻辞はさきに上げた通りなのですが、大切なところだけ載せておくと

初九:明夷于飛、垂其翼。君子于行、三日不食。有攸往、主人有言。

『周易正義』:明夷のときは于飛、垂其翼(隠れて逃げる)。君子の于行(逃げること甚だ急なので)、三日も食べる暇はない。有攸往(その逃げていく様子は)、主人(もてなした人は)有言(怪しんで色々云うけれど)。

のようになって、「狼虎の宅」は明夷なところ、「居るべきでない」は飛んで逃げること三日も何も食べないほど、あれほど焦ってどこに行くのかと不思議に思われるけど……を別の方面から書いています。謙は高いものを削って身を隠す様子です。

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています