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22-48  賁之井

本文

二人為旅、俱帰北海。入門上堂、拜謁王母。勞賜我酒、女功悦喜。

注釈

通噬嗑。震為人、正覆艮、故曰二人。坎為北、為海、震為帰、故俱帰北海。艮為門、為堂、巽入。震為王、巽為母、艮為拝、故曰拝謁王母。坎為酒、兌為女、為悦喜。(山火賁から水風井へ)

賁から噬嗑になるときに通じる。震(賁の互体)は人(出典不明)、ちょうど上下逆にすると艮になるので、二人(長男と少男?)。

坎は北(後天八卦)、海(水から派生)、震は帰る(出典不明)なので、俱に北海に帰る。艮は門(説卦伝)、堂(門から派生)、巽は入る(説卦伝)。震は王(迭象の君)、巽は母(迭象)、艮は拝す(迭象の臣から派生)なので、王母に拝謁する。坎は酒(水に溺れるような)、兌は女・喜び(説卦伝)。

日本語訳

二人で旅をして、俱に北の海に帰る。門に入って堂に上がれば、王母に拝謁する。労しては私に酒を賜り、女功(きれいな布を織っては)して悦喜す。

解説

不思議な詩です。これによく似たものが、蒙之鼎乾之復にもあるので、その解釈と一部通じる面があるかもです。

とりあえず「二人為旅」と「三人為旅」の違いはちょっとよく分からないので置いておきます。もっとも、『易林』においては賁之蒙小過之蠱のように小さいことに捉われ過ぎて本質を見失ったり、益之復萃之比のように大きな勢いが漭々汹々と広がっていく様子など、同じ詩を使うときは、それぞれの背景は違うけどその間にある変化の様子は似ていることを表しているらしいので、今回もそういう例だと思います。

蒙から鼎になるときは、もやもやと煙の立ち込める錬丹窯でよく分からないながらも丹薬を練っているうちに、ついに炉の炎が澄み切ってきれいに煮えるときが来るように、険しい山中に入っていくと、もともと一緒に旅をしていた人たちは諦めて帰って行っても、一人だけ王母の仙宮に辿り着き、そこで私に酒を賜うという解釈をしています(あくまで私説)

もともと二人(三人)と書いてあるのは、もしかすると皆が始めは行きたがるけど、最後に辿り着けたのは私だけだったから「労賜我酒(よく来たと褒めて、私に酒を賜う)」なのかもしれないです(わざわざ「我」と入れてあるのが気になる)。

それに近いことが賁之井にもあるとすれば、賁は飾る、山々の下で薄い陽射しを浴びて煌めいているカエデやブナの林が燃えるような色になったり、きらびやかな楼宇に映える様子で、井は井戸から水を汲むように、また井戸はどんなときでも変わらずに水を湛えているように落ち着いていることです。

その後にある「女功悦喜」は、女功は布を織ったり、刺繡をしたりのことで、王母のもとに居てそれを楽しむとすれば、山中の紅葉に飾られた井戸で水を汲んで室中に茶を飲むように華やかさからふっと落ち着いたものに帰ることだと思ってます。みんな外の美しさに遊ぶことは知っているけど、窓の障子を隔てて薄い紅色をみるような美しさはあまり知っている人がいなくて、でもそんな中には「華厳の大光明の中に閑寂の真諦を悟る(北原白秋「芸術の圓光」)」ような深さがあって、静かにきれいな布を織って、金の糸で刺繍を重ねていくように、もっと深い喜びが感じられるようになる、みたいな(「二人為旅」は蒙から鼎ほどには難しくないからかもです)

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています