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 大学二年の終わり頃に、民国期の楚辞学者 姜亮夫の「詩騒連綿字考」という本を読んで、それ以来いろいろと遍歴して思っていることを。

 まず、この本には『詩経』と『楚辞』(騒は楚辞の代表作 離騒から)の連綿字(中国の擬音語・擬態語)について解説しているのですが、これを読んでいると全ての言葉は最初は擬態語だったように思えてくる。

 それには連綿字がどういうものか書かないとなのでそこからなのですが、まず、擬音語は音をそのまま漢字で写したものなので、漢字の意味と音は関係ないことになります。擬態語は質感を音に訳しているように作られているので音と意味は関係ないこともあるけど、それなりに関係してくるというのは何となく想像できます。

 そうなると、擬態語はあるものは質感をそれっぽい音を持つ漢字に当てただけ、あるものは質感に最も似合う字を当てている、という様なことが起こったりして、ある程度の時期からは意味と字の関係が落ち着いてくるけど、漢くらいまではけっこう不規則で奇怪な字であらわしていることも多かったりします。

 ちなみに、連綿字は重言(同じ字を重ねたもの)、双声(子音が同じもの)、畳韻(母音が同じもの)があって、重言は悠々・嫋々、双声は詭怪・恍惚、畳韻は渾沌・徘徊などを想像してもらえれば近いです。

 そして、これが「詩騒連綿字考」の魅力的なところなのですが、これらの連綿字はぬるぬるとお互いにつながり合っていて、微妙な意味の違いや表すものの違いで字が変わったり音が変わったりすると書いてあって、その例をあげてみます(「詩騒連綿字考」に載っていたものというより、なんとなくの記憶ですが)。

 まず、奇怪・機械・滑稽・詭譎・古怪・滑涽は同じまとまりに入っていて、奇怪は不思議なもの、中には何か仕組みがあるらしい感じの不思議さに使う印象、機械は複雑な木組みは外から見ると奇怪な動きをすること、滑稽は面白いけど不気味でもある、天真爛漫というより何を考えているか分からない、愚かなような傀儡人形のような面白さ、それから派生した滑介(こつかい)は

支離叔與滑介叔観於冥伯之丘、崑崙之虚、黄帝之所休。俄而柳生其左肘、其意蹶蹶然悪之。支離叔曰「子悪之乎?」滑介叔曰「亡。予何悪?生者、假借也。假之而生生者、塵垢也。死生為昼夜。且吾與子観化而化及我、我又何悪焉?」(『荘子』至楽篇より)

支離叔と滑介叔は冥伯の丘、崑崙の墟で出会い、そこは黄帝の休んだところだった。俄かにして滑介叔の左肘に柳が生えてきて、蹶蹶然(びくりとして)これを嫌っているようだったので、支離叔は「嫌なのか?」と聞けば、滑介叔は「いや、憎むものでもない。生は、假借のもので、借りたものの中に生れて出づるものは塵垢だから、死生は昼夜のようで、さらに私と君は化を観てその化が私に及んだとしても、憎むものでもないだろう」

とあって、滑介は人名化した滑稽で、支離叔(叔は名)と合わせていずれも姓として連綿字を用いている。蹶は驚起(跳ね驚く様子)で、この奇怪なやりとりは言辞は詭譎にして、その詭譎さが雲や波に混ざっていくと揚雄「甘泉賦」のように「於是大廈雲譎波詭、摧嗺而成観」のようになって、言辞の千態にして万状を窮め変幻は測り得ないように大きい廈(楼殿)は雲が眩まし波が欺くようにして連なり重なって、摧嗺(きらきら)として不思議な美しさをなしているようになり、それが古めかしさを帯びれば古怪、より乱れている感じになれば滑涽のようになり、そこまで来るとほとんど渾沌の系譜に近い感じになる。

 これは中国文学系の人には結構なじみがあって、あちこちで言われている話ですが、渾沌は崑崙山とも音が似ていて、渾沌は中に何か渦巻いている感じ、崑崙はころんとした丸いものが空峒になっている様子で、さらに葫蘆(ひょうたん)とも通じていて、このころんとした丸いものの中に宇宙が入っているという感覚は、古い時代には崑崙山などの神山として、後には洞天福地(この洞というのは鴻洞と書くと、天地の分かれる前の卵の中の宇宙になる)、『後漢書』費長房伝の壺中天の話などに形を変えていき、さらにそれが外に開かれて冷たい青い夕暮れになると蒼茫(今の中国語音でongは閉じていて、angは大きい)、蒼が消えて暗い夜になると茫漠(ぼやぼやとして暗い)になります。

 音を変えて、今度は先に少しだけ出てきた「摧嗺(さいさい)」を例にすると、その摧嗺は材木が崇(高く)積まれている様子とあって、その材木が細かく組み合わさっているのが摧嗺だとすると、大きく分けて繊細の系譜に入っていて、これが水になると淅瀝、淅瀝は葦などに阻まれた水が鳴っている様子なのですが、それが天になると霹靂、言葉になると支離(これは全く意味のない字、あるいは支えては離れる如く)、合わせると支離滅裂(滅裂は霹靂と似てぼろぼろにけている様子、先に出てきた支離叔と滑介叔は支離と滑稽)、さらにがらんと広くなると廓落(崑崙山の中は廓落として大きい闇が広がっている)、もっとぼんやりすると漠々(ここまで来ると戻ってしまう)のようになる。

 これだけでも十分不思議なことなのですが、「詩騒連綿字考」では『詩経』と『楚辞』の例をあげてこのことを云っていて、特に『楚辞』には魅力的な連綿字が多く、その楚辞について清・劉熙載『芸概』巻三「賦概」でこのように分類しています。

騒為賦之祖。……「九歌」両言以蔽之、曰「楽以迎之、哀以送之」。
九歌与九章不同、九歌純是性霊語、九章兼多学問語。
屈子「九歌」如「雲中君」之“猋挙”、「湘君」之“夷猶”、「山鬼」之“窈窕”、「国殤」之“雄毅”、其擅長得力処、已分明一々自道矣。
『楚辞』尚神理、漢賦尚事実。然漢賦之最上者、機括(栝)必従『楚辞』得来。
『楚辞』、賦之楽;漢賦、賦之礼。

騒(楚辞)は賦の祖。……「九歌(楚辞のうち神楽的なもの)」はふた言で云えば「楽みてこれを迎え、哀しんでこれを送る」になる。
「九歌」と「九章(屈原が放逐された悲しみを歌ったもの)」は違いがある。九歌は純粋な性霊の語、九章は学問の語を多く含んでいる。
屈原「九歌」は「雲中君」の“猋挙(たちまちに挙がる)”、「湘君」の“夷猶(ゆらゆらとする)”、「山鬼」の“窈窕(ぼんやりと仄暗く)”、「国殤」の“雄毅”など、その魅力となっているところが、一々よく伝わって来る語(形容詞)を含んでいる。
楚辞は神理を貴び、漢賦は事実を重んず。そうはいっても漢賦の最上の者は、その原案は必ず楚辞より得て来ている。
楚辞は賦の楽(音楽)、漢賦は賦の儀礼。

 楚辞のような長篇の抒情詩がさらに長篇化して、漢代の賦(漢賦)になって、その漢賦は王朝を讃えたり事物を描写したりするようにして、神理の楚辞から事実の漢賦になっているけど、事実だけを書くのではなく漢賦の最上の作は楚辞のようなものを内に秘めているところがあって、さらに楚辞の中でも「九歌(神楽)」は自然な気持ちだけの語で書かれていて、「九章」は自然な気持ちと学問の語が混ざりあっている、ということです。

 ちなみに楚辞は、戦国楚の湘水あたりで生まれた淫祠的な抒情性があって、そこに出てくる神々は「九歌」のような山川を戯れるように生きていて、その幻覚的でけばけばしい湿った幻覚性を歌った民歌に由来しています。

若有人兮山之阿、被薜荔兮帯女蘿。
既含睇兮又宜笑、子慕予兮善窈窕。
乗赤豹兮従文狸、辛夷車兮結桂旗。
被石蘭兮帯杜衡、折芳馨兮遺所思。
余處幽篁兮終不見天、路険難兮獨後来。
表獨立兮山之上、雲容容兮而在下。
杳冥冥兮羌昼晦、東風飄兮神霊雨。
留霊修兮憺忘帰、歲既晏兮孰華予。
采三秀兮于山間、石磊磊兮葛蔓蔓。
怨公子兮悵忘帰、君思我兮不得間。
山中人兮芳杜若、飲石泉兮蔭松柏、
君思我兮然疑作。
雷填填兮雨冥冥、猿啾啾兮狖夜鳴。
風颯颯兮木蕭蕭、思公子兮徒離憂。(九歌・山鬼)

山の阿(隈)には人がいるようで、薜荔を着て女蘿を帯とする。
既にじっとりと睇(みて)又宜く笑い、あなたは私の窈窕(仄暗さを)慕っているのでしょう。
赤豹に乗りて文(あや)の狸を従え、辛夷の車に桂の旗を結んでいる。
石蘭を被て杜衡を帯びて、芳馨を折って思うところに遺わす。
わたしは幽篁(深い藪に)居て終いに天を見ず、路は険難にして獨り後れて来る。
表(すっと)獨り山の上に立って、雲は容容として下に在り。
杳く冥冥としてああ昼でも晦く、東風は飄として神霊は雨をふらす。
霊修なるあなたを留めては憺(ぼんやりとして)帰るのを忘れ、歲は既に晏(おそく)だれか予(私を)華とせん。
三たび秀(咲く花)を山間に采り、石は磊磊として葛は蔓蔓たり。
公子(あなたを)怨みては悵(ぼうっとして)帰るのも忘れ、君はわたしを思って閑が得られない。
山中の人は杜若芳しく、石泉を飲みて松柏の蔭にいる。
君はわたしを思ってそれでも疑いの作(起る)。
雷は填填として雨は冥冥、猿は啾啾として狖(尾の長い猿は)夜に鳴く。
風は颯颯として木は蕭蕭、公子(あなたを)思って徒らに憂いに離(かかる)。

 窈窕・冥冥・磊磊・蔓蔓・填填・冥冥・颯颯・蕭蕭として、山中の薄暗い山に大きい石は磊磊(ごろごろとして)それに蔓草は蔓蔓と茂り、窈窕として晦く、しっとりと暗い雲に冥冥、あるいは雷填々として風が颯々と吹いては木々の葉を蕭々と散らしているような様子で、神々の戯れて自然の性霊を帯びているような淫祠の歌です。

君不行兮夷猶、蹇誰留兮中洲。
美要眇兮宜修、沛吾乗兮桂舟。
令沅湘兮無波、使江水兮安流。
望夫君兮未来、吹参差兮誰思。
駕飛龍兮北徵、邅吾道兮洞庭。
薜荔柏兮蕙綢、蓀橈兮蘭旌。
望涔陽兮極浦、横大江兮揚霊。
揚霊兮未極、女嬋媛兮為余太息。
横流涕兮潺湲、隠思君兮陫側。
桂櫂兮蘭枻、斲冰兮積雪。
採薜荔兮水中、搴芙蓉兮木末。
心不同兮媒労、恩不甚兮軽絶。
石瀬兮浅浅、飛龍兮翩翩。
交不忠兮怨長、期不信兮告余以不間。
鼂騁騖兮江臯皋、夕弭節兮北渚。
鳥次兮屋上、水周兮堂下。
捐余玦兮江中、遺余佩兮醴浦。
採芳洲兮杜若、将以遺兮下女。
時不可兮再得、聊逍遥兮容與。(九歌・湘君)

湘の君は行かずして夷猶(ゆらゆらとして)、ああ誰が中洲に留まっている。
美しく要眇として宜しく修めて、沛(波立てて)私は桂の舟に乗る。
沅水と湘水をして波無からしめ、江水をして安らかに流れさせれば、
かの湘君を望んで未だ来たらず、参差(洞簫を)吹いて誰を思う。
飛龍の籠を駕して北に徵(行き)、私の道を洞庭にほしいままにする。
薜荔の柏(簾)に蕙の綢(帳)、蓀の橈に蘭の旌。
涔水の陽(北)の極浦(遠い水辺)に望んで、大江を横ぎっては霊を揚げる。
霊を揚げて未だ極(終わらず)、女巫は嬋媛(ひらひらとして)わたしの為に太息(ためいき)をつく。
涕(涙)を横流させては潺湲(さらさらとして)、隠れて君を思いて陫側たり。
桂の櫂に蘭の枻、冰を斲(さきて)雪を積みあげる。
薜荔を水中に採って、芙蓉を木末に搴(ねじ取れば)
心は同じからずして媒巫は労し、恩は大きからずして軽く絶ゆ。
石瀬は浅浅として、飛龍は翩翩。
交は不忠(心からならずして)怨み長く、期は信ぜずしてわたしに閑のないのを告げる。
鼂は江の皋(岸)を騁騖(経めぐり)、夕べに北の渚に弭節(休む)。
鳥は屋の上に次(宿り)、水は堂下に周(めぐる)。
わたしの玦(たま)を江中に捐て、余(わたしの)佩を醴浦(澧水に)遺わす。
芳洲に杜若を採りて、まさに下女に遺らんとする。
時は再び得られずして、聊か逍遥として容與(ゆらゆらしたい)。

 夷猶・嬋媛・潺湲・陫側・浅浅(さらさら)・翩翩(びらびら)……など、夷猶はゆったりと迭豫としていること、嬋媛は柔らかい思いがさらさらと手からこぼれるように溢れること、陫側は悱惻のことで、心の中が詰まったようになること、逍遥は要眇として舟で漂うことです。これが「九章」になると

終長夜之曼曼兮、掩此哀而不去。
寤従容以周流兮、聊逍遥以自恃。
傷太息之愍憐兮、気於邑而不可止。
糺思心以為纕兮、編愁苦以為膺。
折若木以蔽光兮、随飄風之所仍。
存彷彿而不見兮、心踴躍其若湯。
撫佩衽以案志兮、超惘惘而遂行。
歲曶曶其若頹兮、時亦冉冉而将至。……(九章・悲回風)

長夜の曼曼たるを終え、掩此の哀しみに掩(止められて)去らず。
寤めては従容(うろうろとして)周流(歩きまわり)、聊か逍遥として自ら恃む。
傷ついては太息して愍憐(憐憫)し、気は於邑(あふれて出でずして)止められず。
思ふ心を糺しては纕(帯)にして、愁苦を編んでは膺(衣)とする。
若木を折って光を蔽ったかのようにして、飄(漂う)風に随って仍(ながされてゆく)。
存っては彷彿(ぼんやりとして)見えず、心は踴躍(躍り立っては)湯の如く
佩び物と衽(襟)を撫でては志(思いを)案(抑え)、超えたようで惘惘(ぼやぼやとして)遂に行く。
歲は曶曶(忽忽として)其れ頹れる如く、時は亦た冉冉(じたじたとして)将に至れり。

后皇嘉樹、橘徠服兮。受命不遷、生南國兮。
深固難徙、更壹志兮。緑葉素栄、紛其可喜兮。
曾枝剡棘、圓果摶兮。青黄雑糅、文章爛兮。
精色内白、類可任兮。紛縕宜脩、姱而不醜兮。
嗟爾幼志、有以異兮。獨立不遷、豈不可喜兮。
深固難徙、廓其無求兮。蘇世獨立、横而不流兮。
閉心自慎、不終失過兮。秉德無私、参天地兮。
願歲並謝、與長友兮。淑離不淫、梗其有理兮。
年歲雖少、可師長兮。行比伯夷、置以為像兮。(九章・橘頌)

后皇(地と天の)嘉樹の、橘は徠(来たりて)服兮(かない)、命を受けて遷わず、南國に生ぜり。
深く固くして徙し難く、更に志(心)を壹にする。緑葉素栄(白華)、紛として其れ喜ぶべく
曾(重なる)枝に剡(鋭い)棘の、圓果は摶(丸く)兮。青と黄の雑糅(相い交わりて)、文章は爛たり兮。
精色(きららかな色にして)内は白く、任ふものもあるに類(似て)兮、紛縕として宜く脩(飾りては)、姱(美しくして)醜くからず兮。
嗟(ああ)爾の幼志、以て異なる有り兮。獨立して遷らず、どこまでも喜ぶべきもので兮
深く固くして徙し難く、廓(からりとして)求めるものも無く兮。世を蘇(醒:さとりては)獨り立ち、横よりされて流されず兮。
閉心して自ら慎み、終いには不失過(あやまたず)兮。徳を秉(とりて)私無く、天地に参(並)せり兮。
歲は並び謝(衰う)を願い、長き友として與(ともにせよ)と、淑離(麗)にして淫ならず、梗(正しくして)其れ理ありて兮。
年歲は少(若きといえども)、師長とするべくして兮。行いは伯夷に比して、置きて以て像とする兮。

「橘頌」はほとんど連綿字なしで、姱姱・紛紛などを敢えて一字で堅い感じにしていて、「悲回風」は「気於邑而不可止(気は於邑して蒸せ返る)」「存彷彿而不見兮、心踴躍其若湯(存るようでぼんやりとして見えず、心は踴躍して其れ湯のようで)」のように九歌よりも抽象的なものを連綿字にしている印象がある。一方で九歌の連綿字はこれに比べると風景や神の様子などより感覚的(性霊の語)です。

 さらに漢賦は、楚辞から土着色をなくしてさらに長篇化・複雑化したものなのですが、大家としては、屈原・宋玉(戦国楚の楚辞)の靡嫚さに遊説家的な詭弁を載せた枚乗、漢賦の様式を作った司馬相如、ぎらぎらと尖っていて明るい揚雄、幽清な班固、色褪せて古めかしい幻想性と精神性を帯びている張衡などがいます。まずは揚雄「甘泉賦」です。

於是大廈雲譎波詭、嶊嶉而成観。仰撟首以高視兮、目冥眴而亡見。正瀏濫以弘惝兮、指東西之漫漫。徒徊徊以徨徨兮、魂眇眇而昏亂。據軨軒而周流兮、忽軮圠而亡垠。翠玉樹之青葱兮、璧馬犀之瞵㻞。金人仡仡其承鍾虡兮、嵌巌巌其龍鱗。揚光曜之燎燭兮、垂景炎之炘炘。配帝居之縣圃兮、象泰壹之威神。洪臺崛其獨出兮、㨖北極之嶟嶟。

そうして大きい廈(殿宇は)雲の譎(騙して)波の詭(欺き)、嶊嶉(さらさらとして)観を成す。仰ぎて首を撟(もたげて)高く視れば、目は冥眴(くらくらとして)見えるものもなく、正に瀏濫(さらざらとして)以て弘惝(ぼおんと広く)兮、東西の漫漫たるを指す。徒らに徊徊(ぐるぐるとして)以徨徨(うろうろとして)兮、魂は眇眇(ぼやぼやして)而昏く乱れる。軨軒(綺欄)に拠りて周流(うろめきまわれば)兮、忽ちに軮圠(ぎらぎらとして)亡垠(境もなく)。翠の玉樹の青葱として、璧(壁)の馬犀は瞵㻞(きらぎらとする)。金人は仡仡として其承鍾虡(鍾懸けを持ち)兮、嵌められて巌巌(がらがらたる)其の龍鱗に。光曜たる燎燭を揚げ、景炎(明るい火)の炘炘(きしきしたるを)垂らしている。帝の居(住む)縣圃(仙境の都)を配しては、泰一の威神を象る。洪臺(大きい台の)崛(がらんと突き出て)其れ獨り出でて、北天の極の嶟嶟(するする高いところに)㨖(至る)。

 描写的で実際の風景を飾るような連綿字で、意味にあわせて字を作ったりしていて、楚辞の自然な言葉に比べてより人工的です。詭譎の互文化して雲譎波詭(雲詭波譎でも意味は同じ)、瀏濫は大きい水がさらさらと広がっている様子、徊徊は徘徊、徨徨は彷徨を変形させていて、軮圠は坱軋とも書くけど、坱軋は山の中、軮圠はより人工的な装飾などが軋むほど集まっている様子、瞵㻞は目の眩むような玉の耀き、仡仡は屹立する人、嵌巌巌は本来音だけなのですが今にも落ちてきそうな大きい岩が嵌め込まれている様子でそれに龍鱗がついていること、炘炘は火が斫(切れているような)明るさです。

 揚雄の精剛にして奇偉な雰囲気に比して、より嫋々として多変を窮めている例として王褒「洞簫賦」があります。

亂曰:状若捷武、超騰踰曳、迅漂巧兮。又似流波、泡溲汎𣶏、趨巇道兮。哮呷呟喚、躋躓連絶、淈殄沌兮。攪搜㶅捎、逍遥踊躍、若壊頹兮。優游流離、躊躇稽詣、亦足耽兮。頹唐遂往、長辞遠逝、漂不還兮。頼蒙聖化、従容中道、楽不淫兮。條暢洞達、中節操兮。終詩卒曲、尚餘音兮。吟気遺響、聯綿漂撇、生微風兮。連延駱驛、變無窮兮。

亂(収めて)曰く:(洞簫の音の)状(姿)は捷き武のように、超騰(高く跳んでは)踰曳(ゆらりと移り)、迅くして漂巧(ひらりと軽く)兮。また流波に似て、泡溲汎𣶏(はらはらさわさわ)、狭い巇(澗の)道に趨く兮。哮呷呟喚(ばらばらとしてがらがらとして)、躋躓(躓き躋:のぼり)連絶(絶えては連:つづき)、淈として殄沌たり兮。攪搜㶅捎(ざわざわとしてざやざやとして)、逍遥(ゆらゆらとして)踊躍(跳んできて)、そうして若壊頹(毀れてゆくようで)兮。優游流離(ゆらゆらと流れていっては)、躊躇(うろうろと)稽詣(躊躇う如く)、亦た耽るに足り兮。頹唐(ぐったりとして)遂に往き、長く辞して遠く逝(去り)、漂(ふらふらとして)還って来ず兮。聖化を蒙ることに頼(依り)、従容(ゆったりとして)道に合(叶い)、楽しんで不淫(行きすぎず)兮。條暢(すっと響いて)洞達(抜けるようで)、節操にも当れり兮。詩を終えて曲の卒れば、尚お餘音のあって兮。吟気遺響の、聯綿として漂撇(漂い散って)、微かな風を生(出していて)兮。連延として駱驛として、變わることも窮まり無し兮。

 踰曳はゆるゆると跳び逾えては曳(引きずること)、漂巧は漂い流れて巧みに逸れていくこと、泡溲汎𣶏はもともと泡汎溲𣶏で、泡を泛かべて流れていっては巇道の早い瀬に呑まれること、哮呷呟喚は哮えては呷(す)い込み呟いては喚くを連綿字化したもの、淈殄沌は、淈(屈)して殄(深く沈んだ水が)沌(どろどろと溜まっている)様子、攪搜㶅捎も同じく攪㶅搜捎を崩して書いたもので手で水を撹(かき)混ぜていること、そのようにして簫の音は壊頹(くずれる)ようにして長く辞し遠く逝(去っていき)漂ってはゆらゆらとして聯綿として漂い撇(拂われて)連延絡繹と続いていく。

 この形容詞過剰の文体は、形容詞そのものが文字の印象で風景や動きも含んで見せていて、人工の妙を尽しているのですが、感性的な形容詞の中に知性的な複雑さを取り込んでいく漢賦とは別に、感性的な形容詞を知性的に整えている例を挙げてみると、雄渾は雄邁にして渾然とした気象を内に含んでいること、繊穠は繊細にして穠艶なものを帯びている様子、飄逸は飄然として逸(ぬけていく)ようなこと、曠達は曠闊にして生に達していることなど、連綿字だけだと渾然として一つの意味になり過ぎるのを、ほどほどに分けている様子になっていて、その形容詞で詩の作風を評したものに司空図「二十四詩品」があるのですが、その中の幾つかを。

  曠達
生者百歲、相去幾何。
歓楽苦短、憂愁實多。
何如尊酒、日往煙蘿。
花覆茅檐、疏雨相過。
倒酒既盡、杖藜行歌。
孰不有古、南山峨峨。

生きる者は百歲にして、相い去ること幾何(どれほど)なのか。
歓楽は短さに苦しみ、憂愁は実に多し。
一尊の酒をどうしても、日は煙蘿のなかに往く。
花は茅檐(のきば)に覆っていても、疏雨が過ぎてゆく。
酒を倒(注ぎて)飲み尽くし、藜の杖に歌いて歩けば、
古いままで、南山は峨峨たり。

  飄逸
落落欲往、矯矯不群。
緱山之鶴、華頂之雲。
高人画中、令色氤氲。
御風蓬葉、泛彼無垠。
如不可執、如将有聞。
識者已領、期之愈分。

落落(はらはらとして)往こうとし、矯矯として群れてなく、
緱山の鶴は、華頂の雲の上に居る。
高人は画の中のようで、令(美しい)景色は氤氲として、
風を御しては蓬葉は飛び、彼の無垠のうちを泛(漂って)
執えることはできないように、その行くことは聞えるようで、
識る者は已に領(知って)、これを期すに愈々分(合わず)。


雑談:奇古な文字のことを「奇字古文」ということがあって、漢賦に出てくる不思議な字や、綽約を淖約と書いたりする先秦の文章などのことです。この奇字古文の感覚は、漢くらいまでは残っていて、これを集め始めるとかなり楽しい。ちなみに奇字古文という表現も互文になっている。あと、ヘッダー画像は、長野・小布施町の温泉から撮った写真で、この感じは蒼茫。この建物を遠くからみると光怪。

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています