創作・エッセイ

沼の入り口

 何かにはまることを「沼にはまる」というけど、占いの湿原の中にも占星術や易など様々な沼があって、どの沼もおそろしく深いと思うのですが、その中で易沼の恐ろしさを垣間見せてくれる本を紹介してみます。

 まず、これは一応「初心者向け」という形で出されている本です(「ビギナーズ・クラシックス・シリーズ」は日本や中国の古典をわかり易く楽しめるように、抄訳を最初に置いて作られています)。ただ、一冊でこんなにも沼の入り口であり案内図も兼ねているような本はほとんどないと云えるほどで、一般向けの文庫でこれほどのものが出るのか……という感じです。

 著者(訳者)の三浦國雄先生は、中国思想(特に道教や術数など)の専門の方で、本職は学者です。いままで学者が訳した易の本というのは、「~の注釈に従って訳した」という形になることが多くて、その注釈について異説を入れる場合なども基本的には中国の解釈のみ(たとえば王弼の注釈と『周易正義』に拠るor蘇軾の解釈に拠るなど)なので、日本で江戸時代に実際に占いとして易を使っていた真勢中州などは名前すら出て来ないことが多いです。
(実際、中国文学を大学院でやっていた身としても、占いとしての易に触れないと知らなかったです)

 なのに、この本は江戸時代の日本の解釈だったり(これが、中国の解釈に基づいていたりするのではなく、実占の中で生まれたものだったりする)、あるいは易の基本として知られている先秦の例とは別に、六朝の頃のやや不純物の混ざった解釈まで載せていたりと、時代や地域もバラバラで、逆にこんなに多彩な解釈があるのか……という沼を見せられます。

 もっとも、最初の方には「親愛なる読者をいきなり深い森に迷い込ませたくはないので……(10頁)」とあって、基本的なことは解説してあるのですが、それを信じて入ってしまうと易の大きすぎて深すぎる沼が待っていて、一冊でこれほど深い沼に引きずり込んでいく本もめずらしいと思います。

 というわけで、どれほど多彩な世界をこの一冊が凝縮しているかなのですが、いわゆる基本的な解釈(?)を除いただけでも、特に気になったものをあげていきます。(この本ではすべての卦に占例が載っている……)

 まず、易の基本としてよく言われるのは、出てきた卦に変爻があればその卦の卦辞と変爻の爻辞で占うというもので、その方法に忠実(なことが多い)のが日本の明治時代の高島嘉右衛門です。

 たとえば、明治22年に元老院を占って、剥の上爻が変わるという卦が出たときは、

卦の意味:山が崩れて地になる様子。
爻辞:碩果不食、君子得輿、小人剥廬。
碩果(大きい木の実)が食べられずに残っている。君子は輿を得て、小人は廬を剥がされる。
 これによって、有名無実化していた元老院は大きい山(あるいは一つだけ残った大きい果実)が落ちていくようになくなる、となる。

のように解釈しています。これは基本に忠実なようできれいな占例だと思っていて、同じく高島嘉右衛門の例をもう一つみてみます。

 新潟の方の裁判官が、引き立てを得られずにいて、このまま続けるべきか否かを占ったときに、井の三爻を得た。その爻辞では

九三:井渫不食、為我心惻。可用汲、王明、並受其福。
井戸は渫(渫ってもらったが、その水は)不食(飲まれない)、そのため我(私の)心は惻(傷む)。可用汲(汲んで飲める水なので)、王が明らかなら、並びにその福を受ける。

となっていて、今のあなたは清らかな井戸の水が汲まれるのを待っている様子ですが、待っていても汲まれないので心が痛んでいる。しかし、汲めるようになった井戸の水なので、王が明らかなら、その福を受けて汲まれ用いられる日も来るでしょうと読んで、実際にその人は新潟の裁判所長になった。

という解釈をしていて、これもすっきりと分かる気がします。

 ですが、易の古典的な占例として取り上げられる『春秋左氏伝』の占例をみてみると、これがけっこう(或いはとても)癖のある解釈というか、2500年前の占い師たちの土着化しているor一人一流派的な感じが出ていて面白いのです。

まず、荘公二十二年に陳の厲公がみずからの子の一生を周の史官に占わせたところ、風地観の天地否になるという卦に出会った。周史は解して曰く

観の爻辞に「国の光を観る、王に賓となるに良い(観國之光、利用賓于王。)」とあります。

さて、坤は地(土)で、巽は風です。乾は天なので、風は地の上で天になります。(このように天まで行った風の近くにある土は、天地否の互体艮で)きっと山でしょう。山にあるものは、天の光に照らされまして、土の上にいるので「国の光を観て、王(天の光)に賓となるのに良い」というのです。

風は行いては地につくことになり、それは異国に行くということでしょう。あるいは巽は木という意味もありますから、木の種が飛ばされて(天を舞って)地に落ちて芽を出すのは異国とも見られます(それはもしかするとあの山の上でしょう)。……

のように、象を重ねて一つの絵のようにしています。爻辞と象意を組み合わせた解釈として、かなりきれいな例だと思っていて、それでいて古代的で素朴な風景が浮かびます(『左伝』原文ではもっと不思議な解釈がその後に出てくるけど、本質的な大きい方向は変わらないので気にしない……)。

 ですが、一方で『左伝』には卜楚丘という占い師がいて、この人がまた癖強めの解釈をしているので、その例を載せてみます。

(『左伝』昭公五年より)叔孫穆子が生まれたとき、親の荘叔は周易でこれを占ってみて、地火明夷の地山謙に之くが出た。これを卜楚丘に渡すと、卜楚丘はいう。

明夷というのは明(火)が痍(やぶれて)暮れていくことです。謙は謙譲ですから抑えられることです。

さて、一日は日がどこにあるかで十に分けられて、明が抑えられる(謙)というのは、まあ朝くらいの時間でして、そこそこには明るいけれど、そんなに明るくない。まあ、良くも悪くもないほどほどの人生という感じです。ですので、あなたの家を途絶えさせるほどの悪い目にはあいませんけど、離(きらきらと飾った鳥のように華やかなもの)が艮(抑えつける山々)になるので、明夷の爻辞にいう「明夷した鳥は于飛(飛んでいく)。そのとき翼は垂れている(あまり力がない)。君子は(明夷しているのを避けて謙するように)于行(旅をする)」というのです。

ですが、まぁあなたの家が途絶えるほどに悪いことは起こらないので大丈夫です。あと、火(離)が山(艮)に掛かっていくようでもあるので、山火事のようでもある。艮は説卦伝で言、それが燃やされているので、きっと爻辞にいう「どこかに往けば、内に残っている主人は言葉がある」というのは傷つけ傷ついた言葉、讒言でしょう。その言葉を敗る者は離で、離は卦辞に「牝牛」とありますから、牛と名がつくかもしれません。

ところで、明夷の爻辞「三日食べない」が残りました。これは三日(十の日であらわすと朝)のことですから、朝はまだ何も食べていない。そういう意味ですね。ちょっと終わり方がよくない一生かも知れませんが。

 ……これは注釈を読んでも分からない謎解釈です。まず、一日を十にわけるというのが、そもそもどういう理論なのかよくわからない(出典もないです)。さらに、卦で動物を考えるときにはふつう説卦伝を使って、離のときは離為火の卦辞を使うのはほとんどないのですが、ここでは卦辞に依っています(さきに、離を鳥としているのに矛盾する)。そして、全体的に渾然としているというか宛転して絡み合っている感じです(原文ではもっと順序がめちゃくちゃで読みづらい)。

 というわけで、これだけでも十分に多彩なのですが、これで終わらないのが恐ろしいところで、今度は六朝梁の占例をみていきます。

梁の湘東王(のちの元帝)蕭繹は卜筮を好んでいた(この人は文章や絵、占い、学問など何でも通じている人で、おそらく中国の歴代皇帝の中でもっとも多才な人です)。

あるとき姚文烈という亀卜に通じた者が「二十一日に雨が降るでしょう」といってきた。蕭繹も易で占ってみると、地山謙から雷山小過になる卦がでた。「地山謙の坤・艮はどちらも九宮図に入れてみると地。地は水を吸ってしまうので、雨は降らず晴れるだろう。」といって、その日の夜になってみると、星や月がりらりらと輝いていた。

 これは九宮図に後天八卦をあてはめる理論があって、それをすると艮は北東・坤は西南でどちらも五行の地になる(易の陰陽説と、燕斉の方士たちの五行説はもともと起源が異なるけど、無理やり融合させている面がある)ので、雨(水)を土は吸ってしまうため雨は降らないという解釈です。

 これだけでもかなり不思議な方法ですが(同書の夬の占例では、爻辞と九宮図を混ぜた解釈が紹介されている)、蕭繹はもう一つ変わった使い方をしています。

蕭繹はあるとき、易で箱の中身を当てる遊びをしていた。箱の中には金・玉・琥珀の指環が入っていて、占ってみると天風姤が天沢履にゆく卦がでた。

蕭繹は、まず天風姤の天は円いもの、説卦伝で天は金・玉、金と玉で円いものは指環だろう。あとは……(以下、断易の解釈が出てくる)。

 断易は周易から派生した占術なのですが、(あまり詳しくないけど)一部に周易的なものを組み合わせるのはかなり異例な気がします。説卦伝を使って、九宮図を使って、さらに断易も使う(周易と断易を組み合わせて、さらに卦の中の五行もみているので、断易化している周易みたいな、蕭繹独自の易占を作っている感があります)。

 あとは、黄小娥先生(昭和の中期に活躍した女性占い師で、一般向けの易の本も書いています)の占例は、やや世話に砕けた話が多くて、当時の俗語・流行語(?)のようなものが出てきたり、昭和チックな世界観も楽しいのです(墨色判断・M型・アイク・歌舞伎の『勧進帳』・公団アパート・デラックスアパート・メイファーズ・足駄をはいて首ったけ・から雷・エレジー・W過剰・チョーチョーナンナン・『白蛇伝』の白姫・興信所・中年増……、みなさん幾つわかりますか?ちなみに一個もわからなかった勢です笑)。

 ちなみに、黄小娥先生の解釈の特徴は、恋愛・結婚方面についての解釈がとりわけ独自性があって豊かなところだと思っていて、山地剥の押しかけ女房に政略結婚・山火賁の写真詐欺・雷風恒のマンネリ化・風天小畜のもやもやした倦怠期・天地否を良い意味でも悪い意味でもプラトニックラブなど、そういう読み方もあるのか……と驚かされます。

 というわけで占例なのですが、これはそのまま引用してみます。ちなみに黄先生は六十四卦だけで占って、変爻は使わないスタイルです。

ある温泉旅館のお嫁さんの健康を占って、この卦(沢山咸)を得たことがあります。見たところ痩せていますが、この卦では、どこが悪いともいえません。神経が疲れて体が弱っているのです。というのは、沢山咸は、感ずるということですから、心づかいが多すぎることを意味するのです。(中略)少しのんびりなさったほうがよろしいです。それよりも、あなたは、ご夫婦で親御さんと別居して、新生活にはいられた方がようですよ。これが、わたくしの判断でした。

 咸は感じるなので、感受性が豊かなこと、ちなみに新生活に入ったほうがいいというのは、沢:少女と山:少男の感情というのを婉曲にしている。

 ここまでみてきた中でも、それぞれにかなり個性的な解釈をしている感じはあるのですが、ここからはいよいよ真勢中州の解釈を取り上げます。

 まず、真勢中州らしさを感じられる例として、地沢臨から震為雷になったときをみていきます。

京都で宮仕えをしていた者が突然失踪して六日たっても音信がない。家人から頼まれた中州は占って「地沢臨の震為雷に之く」に遇った。その占断「臨の二爻の陽が、震の四爻の陽に転移しているから、家を出た翌日はまだ京都に留まり、三日目は東の江戸に向かったが(震は東)、震の互卦(震の二~四爻の艮を内卦、三~五爻の坎を外卦とする卦)に水山蹇(水辺で難儀の象)があるから、江州(近江)あたりで足止めを食い、そこで頭を冷やして帰京するだろう。」はたしてその通りになった。震は一時の激情による出奔をあらわしているが、その初~四爻の互卦が山雷頤、頤には家庭での食事の象がある。

 これは三浦先生の文章をほとんどそのまま引用しているのですが、とりあえず気になるのは「臨の二爻の陽が、震の四爻の陽に転移している」の部分です。これは真勢中州独自の理論で“生卦法”というのがあって、陰陽の爻の位置が変わることで別の卦が生まれていく様子で、物事の背景や流れをさぐるというものなのですが、この場合は二爻から四爻に「何かが動いている(運移している)様子」をあらわす運移生卦というものになります。

 地沢臨の二爻は陽、四爻は陰で、震為雷の二爻は陰、四爻は陽なので、臨から震になると陽が内卦から外卦に出ていったことになります。中州はこれを出奔した様子に見立てます。

 互体は介在物です。ここでは水山蹇(水辺で険しさに行き悩む)が道中に横たわっているということです。水があるのは近江(琵琶湖)らしいです。二日目は京にとどまり、三日目に東に向かったというのは、二爻が初日、三爻が二日目(まだ内卦:京にいる)、四爻が三日目(外卦:震なので東に向かう)と読んでいるらしいです。

 これが真勢中州の解釈なのですが、これ以外にも真勢中州ふうの解釈例を幾つか載せているので、それもみていきます。

 まず、著者の三浦先生がかつて易を習っていたことがある村田佳穂翁の占例。

あるとき、大恩人が胃の摘出手術したと聞いて卦を立て、山沢損の初爻が変じて山水蒙になった。爻辞「事を已めて」は世務(大恩人は会社社長)を止める、「遄(すみやかに)往く」はあわただしく冥界に行く、「酌みて之を損す」は健康の損壊、と読んで暗然となられた。翁はこの占断を卦の象からも確認されるのであるが、地天泰(健康体)→山沢損(胃の摘出)→山水蒙(墓下に白骨)、説明は省略する。恩人はほどなくして胃ガンで他界されたという。

 これは爻辞の部分はふつうの解釈ですが、「地天泰(健康体)→山沢損(胃の摘出)」のところに真勢中州流の生卦法が入っています。真勢中州は三陰三陽の爻でできている卦は、みな地天泰or天地否からそれぞれ一つの陰爻or陽爻が動いて派生したと考えて(加藤大岳先生曰く:易の本文に「剛上りて柔下る」とあるのは、まぁそう読めなくもない)、「交代生卦」と読んでいます。このときは地天泰の上爻の陰が、山沢損の三爻の陰になるように降りてきて、代わりに陽が上爻にいった(彖伝:下を損し上に益す)としていて、泰は健康体、損は損壊と読んでいます。

 ちなみに山沢損は真勢中州の解釈だと「山の気は上に止まり、沢の気は下に降って、草木はなく魚もいないほど淀み、生気を感じないほどに損なわれていく」となります。山水蒙は、山(土盛り)の下に坎(説卦伝で、堅くて芯の多い木)がある、というわけで墓下の白骨だと思います。

 もう一つ、真勢中州の弟子だった谷川龍山の占例。

ある衰運の商家に持参金五十両の養子縁組の話が持ち込まれたが、事態がなかなか進まない。龍山占っていう、「出た卦は水天需の不変爻。需は待てばよい結果が得られる占。話がなかなかまとまらないのは、水天需の互卦に(上互離、下互沢の)火沢睽が潜んでいるから。焦って強引に話を進めると、水天需は天水訟(もめごと)に変化する(内外卦を反転させる易位生卦法)から、じっくり待つこと。待てば水地比(親しむ)に転じよう(内卦の陰陽を逆転させる内卦反覆生卦法)。商家ではこの占断に従って静観していたところ、めでたく養子縁組が成就した。

 これは生卦法が二つでてきます。まず、易位生卦法なのですが、易では内卦を自分、外卦を相手とみるので、水天需の内卦乾(積極性)が相手に迫り過ぎて、外卦(相手)の方まで近づきすぎてしまうと天水訟でもめることになる、という意味です(もっとも、易位生卦は相手から迫られ過ぎて相手がこちらに入り過ぎると……という形や、相手とこちらが深くかかわり過ぎて入れかわるほどになる等もあり得る)。

 さらに反覆生卦法については、外卦を相手、内卦を自分とみなしたときに、相手が対応を変えるときには外卦の陰陽を反覆させ、こちらが対応を変えるときには内卦の陰陽を反覆させ……という使い方で、もしこうなったら……、もしああなったら……などという状況を予想するように使うらしいです。なので、ここでは内卦の乾(積極性)を反覆して坤(待ちの姿勢)にすれば、水地比になって話がまとまると読んでいます。

 さらに、かなり複雑な真勢中州の占例を最後に載せておきます。

大坂の人が紀州に送金したが、書状は着いたもののお金が届かない。中州はこれを筮して「雷沢帰妹の雷水解に之く」に遇った。その占断「雷沢帰妹は地天泰の三爻の陽が、四爻に上がってできた卦で、帰妹は現在、泰はその過去をあらわす。泰の内卦から外卦に行って帰妹を成したということは、金を持ちだした象になる。誰がくすねたかというと、金を届けにあい継いで走った二人に飛脚のうち、最初に走った飛脚。いずれ金はもどって来るだろうが、なにがしかの損失は免れがたい……。」中州は卦象を操作してその理由を説明するのであるが、残念ながら紙数がないので、のちに判明した結果だけ紹介しておく。最初に金を受け取って運んだ飛脚は、その金で相場に手を出して使い込んでしまい、余儀なく出奔したものの役人に捕えられ、家財を売り払って弁償に務めたが、それだけでは償いきれず、結局不足分は元の持ち主の損失になったということである。

 最初読んだ時「……これは何なのだろうか」と思ったのですが、要するにいままで出した技法で、自分なりに解釈してみよ、ということですね(初心者向けの文庫ですることではないです笑)。

 まず、「雷沢帰妹は地天泰の三爻の陽が、四爻に上がってできた卦で、帰妹は現在、泰はその過去をあらわす」というのは、交代生卦(三陰三陽の卦は泰or否から派生)と運移生卦(内卦と外卦の間で何かが移動している)の混ざったような感じです(この辺りは技法の名できれいに分かれるわけではないらしい)。

 泰はうまく行く、それが過去なので「うまく行く予定だった」です。帰妹は、中州の解釈では「風山漸はゆっくりすすむこと、その陰陽がすべて変わった雷沢帰妹は急いでいること」です。

 また、地天泰のこちら側は陽三つ、向こう側は陰三つなので、空白になっている相手方とお金のあるこちら側という組み合わせだったのが、そのお金が帰妹になってどこかに無くなった(陽が出ていった)、その出ていったときは速やかに急いでいたので、持ち出されたです。

 地天泰の三爻がひとつ上に行くと雷沢帰妹(持ち出して急ぐ)になるので、飛脚を二人経ているとすると、三爻の陽が一つ上に行くと外卦に出る(お金を持ち出す)ため、雷沢帰妹が一人目になる。雷水解の頃になると、陽の数が全体的にひとつ減っているので、こちらのお金は少し減ってしまう、もしくは雷水解は春の震気が凍った水を出て、放縦に解き晴らす様子(中州説)とされるので、大きくいうと弛むこと(あとで分かったことですが、相場に手を出して散財)です。

 もっとも、雷水解の賓卦(上下逆にして、テーブルをはさんで座っている相手側からみる)水山蹇としてみると、にっちもさっちも行かない様子なので、相手はそのまま逃げられるわけではなく、艱難に陥っている。なので、お金はそのまま持ち逃げはできないが、それでも少しは減ってしまう(だと思います……)。

 真勢中州式の生卦法は無秩序な思いつきのようにみえるけど、実際は生卦法を使うのが大事なのではなく、「出てきた卦がどのような状態をあらわしているか、その周りにはどのような状況が隠れているか」を調べるようにして使っているらしいです。

(いままでの初心者向けの文庫では、まず出て来ない技法です……。これを文庫一冊にちりばめた様々な手掛かりで解釈させていて「全六十四卦は一卦ごとの「読み切り」になっていますから、それはそれで面白い短編、またはショート・ショートのような味わいもあります。最初の乾卦などは、深い淵に潜んでいた龍がやがて地上に姿をあらわし、ついにはロケットのように天空に上昇していくことで完結する「物語」です。面白いことに作者は、その上九の「亢龍」について、「まずい、おれは昇りすぎてしまった」というその真理まで描いているのです。また、漸卦では、全六爻にわたって「鴻漸」という語が使われ、「鴻:かり」が水際から雲路へと飛翔してゆく様を逐次描いています。……しかし、すべての卦がこれらの卦のように、ある一つのテーマやモチーフで一貫しておれば難儀はしないのですが、『易経』の作者はとても曲者です。彼は読者の思惑にフェイントをかけることに喜びを見出していているようなところがあって、予定調和や整合性を求める几帳面な読者は、迷路に誘い込まれて途方に暮れること請け合いです。たとえば、小畜と大畜ですが、どちらも卦爻辞には「畜」の辞も蓄積にかかわるような表現も出てこないばかりか、爻辞にストーリー性を見出すことができません。作者の側に、そのような卦もまじえて全体をデザインしておかないと有り難みが薄れるという戦略があったからではないでしょうか(19〜20頁)」みたいなことをしている)

 というわけで、真勢中州のもっとも複雑で技巧的な解釈も紹介されているのですが、すべてがこんなに難しいわけではなくて、基本的な技法だけで読んでいる例もあって、たとえばこんな感じです。

後漢の順帝のとき、妃になる少女が後宮に入ったので、その未来を占って坤為地から水地比になった(坤為地の五爻に変爻があった)。それゆえ、この少女は貴人となることを予言した。そして皇后にまでなっている。

 この場合、比の爻辞「顕比(顕らかに親しむ)の吉というのは、位が正しくて中にあるため(顕比之吉、位正中也)」というのから、顕らかなところで親しむのは後宮の貴人と読んだのかもしれないが、坤の爻辞「黄色い裳は、元(大いに)吉(黄裳元吉)」というのから、黄色は土(五行説)、裳は下なので地、昊天后土というので皇帝と皇后のように大いに吉と読んだかもしれないし、坤の五爻(君)から取ったのかもしれない。

 これは真勢中州・谷川龍山などの技巧的な解釈に埋れがちだけど、個人的にはかなり好きな占例で、多方面からそれらしい意味を探して、その中心にあるものをみていく読み方はかなり魅力手的です。もっとも、本卦(ここでは坤)の爻辞を読むのはふつうですが、之卦(ここでは比)の爻辞を使っている例はあまりないので、地味だけどかなりめずらしいものを含んでいて、変爻を之卦でも重く読んでいる感じがあります(易は基本的に本卦の卦辞・爻辞・象、之卦の卦辞・象で読みます)

 ……というのは占術的な解釈だったのですが、それ以外にも易は不思議な文体が詩的でもあったり、あるいは神秘的な雰囲気の哲学のような趣きもあって、そういう方面で易を取り入れている例も載せられています。

 ヘルマン・ヘッセの小説『ガラス玉演戯』では、主人公が竹林にすむ隠者(『易』と『荘子』を好む)に入門するときに、入門が許されるかを易で占うシーンがあるのですが、この組み合わせはゲーテ『西東詩集』、ショーペンハウアーのペシミズムなど19世紀のドイツで行われた直観的・神秘的な東洋というイメージを感じさせるし、ユングが患者の精神的なものを易によってさぐるという例も載っています。

たとえば、強い母親コンプレックスを持っていた若い男性の場合。彼は結婚したかった。そして、見たところ似合いの女の子と近づきになった。ところが、コンプレックスの影響を受けて、再び圧倒的な母親の支配の中に自分を見出すのではないかと恐れ、不安を感じた。私は彼と易をこころみた。彼の得た卦(姤)について易経に曰く、「その娘は権力がある。そのような娘と結婚するべきではない」と。

 占星術をやっていると「……なるほど(意味深)」となる例で、心理占星術はユングの理論を元にしているけど、この方向性をもっと深めていれば心理易学もあったかもしれないです(そういう解釈もみてみたい)。

 あとは、ちょっと怪しいニューエイジ的な世界でも易の理論が使われていて、今が時代の変わり目だ、という感覚で世界の流れを易で読む(この場合、地雷復のように戻っていくことを易で喩える)という面も紹介されていて、西洋で易がどのような印象で読まれていたかもなんとなく感じられます。

 また、易を文学化している例では、『穆天子伝』・蘇軾・大巓和尚の三つがあげられています。まずは『穆天子伝』からいきます。

『穆天子伝』は、周の穆王の征伐や西王母に会いに行った話をまとめたものなのですが、あるとき穆王は苹澤(浮草の多い水辺)で狩りをすることを占った。「訟の言葉は「藪澤の蒼蒼たる其の中」です。正にして公であれば、戎事(征伐して)従わせ、祭祀は憙(神を喜ばせ)、畋獵(狩りは)獲(獲物を得る)でしょう。」

 この「藪澤蒼蒼其中」は今の易にはない言葉だけど、三浦先生は天と水の中にいる様子を風景にして占っているかも知れないと読んでいます。訟は天と水が違う方に流れていくように違(たがうこと)なので、そのように違い合う藪澤の中にいても正にして公で無私ならば、狩りは獲物が得られるでしょう、というわけです。
(ただ、この「藪澤蒼蒼其中」という六文字の、古代のまだ手付かずのどこまでも広がっている藪まじりの水辺の重々しい蒼さが漂っていて、その藪の中にはもしかすると害をなす鬼やよくわからないものも居るから無私でなくてはいけない……という意味はとても文学的な雰囲気を帯びていると思う)

 つぎは北宋の名文家 蘇軾の占例です。話としてはこういう感じです。

蘇軾が六十三歳で海南島に流罪になっていたとき、弟の蘇轍から長らく手紙が来なかったので気になって占うと、風水渙の三爻変にあった。蘇軾は以下のようにつなげて読んでみた。

風水渙の初爻:用拯馬壮、吉。
風水渙の初爻が変わると、風沢中孚になって、その二爻:鳴鶴在陰、其子和之。我有好爵、吾與爾靡之。
風沢中孚の二爻が変わると、風雷益になって、その三爻:益之用凶事、无咎。有孚中行、告公用圭。
風雷益の三爻が変わると、風火家人になって、その卦辞:利女貞。象伝:風自火出、家人。君子以言有物、而行有恒。

 これはふつうの易占法とは少し異なっていて、蘇軾は、この卦を記録して残しただけで、どのような解釈をしたのかは記していない。

 ……これを解釈するわけですが、まず、気になるのは蘇軾は『東坡易伝』という易の注釈を作っているので、もしかすると蘇軾独自の解釈で読んでみたほうがいいのかも知れないです。というわけで、『東坡易伝』の解釈に従って、それぞれの辞を読んでいきます。

風水渙:世之方治也、如大川安流而就下。及其亂也、潰溢四出而不可止。水非楽為此、蓋必有逆其性者、泛溢而不已。逆之者必哀、其性必復。水将自擇其所安而帰焉。古之善治者、未嘗與民争。而聴其自擇、然後従而導之。「渙」之為言、天下流離渙散而不安其居、此宜経営四方之不暇。

世の治まっているときは、それは大川の安らかに流れて下るようにして、その乱れているときは、潰溢して四方に出て止まらないようなものだが、水は楽しんでそうしている訳ではなく、きっとその性に逆らっているのであり、泛溢(溢れ出て)やまないのだ。逆らっている者は必ず哀しみ、その性は必ず戻りたがる。水は自らその安んずるところを選んで帰っていく。古の善く治める者は、民を争わせず、それでいてその選びたがるところをよく聞いて、その後にこれに従って導いた。「渙」というのは、天下の流離して渙散(飛び散って)その居に安んじていないことで、この時は四方を経営して不暇(いとまない)ほどなのがよい。

初爻:用拯馬壮、吉。
九二在険中、得初六而安、故曰「用拯馬壮、吉。」……「渙」之初六、有馬不以自乗、而以拯九二之険。

風水渙の二爻は険(坎)の中にあり、初爻の陰に支えられて安らかなので、「馬の壮に拯(すくわれるを)以て、吉なり」という。……「渙」の初爻は、馬を持っていても自ら乗らず、二爻の険を拯(すくう)。

風沢中孚:羽蟲之孚也、必柔内而剛外。……剛得中則正、而一柔在内、則静而久、此羽蟲之所以孚天之道也。君子法之、行之以「説」、輔之以「巽」、而民化矣。

蟲(鳥)の孚(孵る前)、必ず柔かいものは内にあって剛(堅いもの)は外にある。……剛は中にあって正しく、一つの柔も内にあって、静かにして久しく、これが羽蟲(鳥)が天の道を孵すことで、君子はこれに法(倣い)、行うに喜びを以て、輔けるに巽(柔らか)なるを以てして、民も化される。

二爻:鳴鶴在陰、其子和之。我有好爵、吾與爾靡之。
「中孚」者必正而一、静而久、而初九・六四,六三・上九有応而相求、九五無応而求人者也。皆非所謂正而一、静而久者也。惟九二以剛履柔、伏於二陰之下、端欲無求而物自応焉、故曰「鳴鶴在陰、其子和之。」鶴鳴而子和者、天也、未有能使之者也。「我有好爵、吾與爾靡之」有爵者、求我之辭也、彼求我、而我不求之之謂也。

「中孚」というのは必ず正にして一、静にして久しいもので、それでも初九と六四、六三と上九は応じる者あって求め合い、九五は応じる者なくして人を求める者(五は奇数なので、みずから動く)。どれも正にして一、静にして久しいという者ではないが、ただ九二だけ陽爻なのに二(偶数)に居て、二つの陰の下に伏し、欲を正して求めるもの無く、それでいて物は自ら応じてくる(中孚にかなう)ので、「鳴く鶴は陰にあり、其の子たちも和す」という。鶴の鳴いて子が和するのは、天がそうさせていて、人がそうさせるわけではなく、「私は良い爵(酒器)があり、私と君で靡(飲みましょう)」という爵(酒器)が有るというのは、相手が私を求める辞で、彼が私を求めるのであり、私が求めるのではないことをいう。

風雷益の三爻:益之、用凶事、無咎。有孚中行、告公用圭。
「益」之六三、則「損」之六四也。「或益之」者、人益我也。「益之」者、我益人也。六四之於初九、「損其疾」以益之、六三之於上九、「用凶事」以益之、其實一也。君子之遇凶也、悪衣糲食、致觳以自貶。上九雖吾応、然使其自損以益我、彼所不楽也。故六三致觳以自貶、然後……彼以我為得其益而不以自厚也、則信我而来矣、故曰「有孚中行」。……禮之用圭也、卒事則反之、故圭非所以為賄、所以致信也。上九之益六三、以信而已、非有以予之。而六三亦享其信而無所取也、則上九楽益之矣。

益(下を益して上を削る)の六三は、損(上を益して下を削る)の六四にあたる(風雷益を上下逆にすると山沢損なので)。「或る人これを益す(益の六二・損の九五)」は、人が私を益すること、「これを益す(益の六三)」は、私が人を益すること。損の六四が初九に対して「其の疾を損す」というのはこれを益していること(病を減らすので、益することになる)。

益の六三が上九によって、「凶事に用いて」以てこれを益されるというのは、その実は同じこと。君子は凶に遇えば、悪衣にして糲食(粗食して)、觳(びくびくして)自ら貶める。益の上九は私(六三)と応じてはいるけれど、だからといって自ら損して私を益(助ける)のは、上九(あちら)としては楽しくないことだろう。なので六三は觳(びくびくして)自ら貶め、そうして後に向こうも私に益させてくれて、自ら厚(財を守る)だけではなくなり、そうなると私を信じて来てくれるので、ゆえに「孚(信)ありて中行(道に従う)」。……礼で圭(玉)を用いるのは、事が終ればそれを返しているので、圭を賄(贈り物)にするのではなく、信を示すために使っていて、上九が六三を益するのも、信を示しているだけで、これを与えているわけではない。それでいて、六三もまたその信を享(受け取って)、物は取らないので上九も楽しんでこれを益する。

風火家人:利女貞。……象曰:風自火出、家人。君子以言有物、而行有恒。
謂二也。……火之所以盛者、風也、火盛而風出焉。家之所以正者、我也、家正而我與焉。

「利女貞」とは二爻(内卦の主)をいう。……火の盛んに燃えるのは風によってであり、火は盛んにして風はさらに出る。家の正しきは私によっていて、家が正しくして私もそこに依りつくのである。

九二:無攸遂、在中饋、貞吉。
有中饋、無遂事、婦人之正也。
中饋(食事の用意)があって、これといって何かをするわけではないが、婦人の正である。

 これらの注釈と通じて、一つの流れを読んでみると、蘇轍は困っている人にみずからの馬を借して助けたら、そこまで返礼を期待して助けたわけではないけれど、相手からいい酒器があるので、少しご馳走させてくださいと言われて、それについていったらその人はお金はないけれどもいい人だったので、もっと助けてあげたいと思うようになって、それでも蘇轍の助けを受けても欲張らないのでもっと助けて……ということになって、そうしているうちにその人の家のことも落ち着いてきて、さらにその人に中饋(ご飯を出されて)何か大きいことをしているわけではないけど、楽しく過ごしているということです。

 この雰囲気は蘇軾の文章によくある人々との闊達で明るく感情豊かな交流のようで、蘇軾の『易』もこんな趣きを帯びていたのかと思うと、とても魅力的で楽しいです。ちなみにこれを『周易正義』(唐の初めに作られた解釈)の説で読むと、なんていうか貴族的ヴィクトリアニズム溢れる解釈になって、蘇軾の明朗で曠達な雰囲気はまるでなくなります。

「渙」者、散釋之名。小人遭難、離散奔迸而逃避也。大德之人、能於此時建功立德、散難釋険、故謂之為渙。……初六處散之初、乖散未甚、可用馬以自拯抜、而得壮吉也、故曰「用拯馬壮、吉」。

「渙」は、散らしていくことの名。小人は難に遭うと、離散して奔迸(逃げ走り)逃避する。大德の人は、この時に能く功を建て德を立てて、難を散じ険を釋いていて、これを渙という。……初爻は散ずることの初にあり、乖散は未だ甚しくないので、馬によって自ら拯抜(抜け出す)べくして、壮吉を得る。それ故「馬に拯われるをもって壮なり、吉」という。

信發於中、謂之中孚。人主内有誠信、則雖微隠之物、信皆及矣。微隠獲吉、顕者可知。既有誠信、光被萬物。……九二體剛、處於卦内、又在三四重陰之下、而履不失中、是不徇於外、自任其真者也。處於幽昧、而行不失信、則聲聞於外、為同類之所応焉。如鶴之鳴於幽遠、則為其子所和、故曰「鳴鶴在陰、其子和之」也。「我有好爵、吾與爾靡之」者、靡、散也、又無偏応、是不私権利、惟德是與。若我有好爵、吾原與爾賢者分散而共之、故曰「我有好爵、吾與爾靡之。」

信は内より発していて、これを中孚という。人主が内より誠信あれば、たとえ微隠(隠れている小さい)物といっても、皆な信は及んでいて、微隠(隠れている小さいもの)も吉を獲るなら、顕らかな者はもちろん知るべきことで、既に誠信ありて、光は萬物に被る。……九二は陽爻で、卦の中に居て、また三・四爻の陰の下に居て、それでいて中を失わず、外にあれこれ不徇(唱えず)、自らその真に任せている者で、幽昧に居て、行は信を失わず、その名は外に聞こえて、同類のものはそれに応じる。これは鶴は幽遠なところで鳴いていて、その子たちが和するようで、故に「鳴鶴は陰に在りて、其の子はこれに和す」という。「我に好爵ありて、吾と爾は之を靡す」とは、靡は散(飲んで使う)なので、また偏って(人を選び)応じることもなく、権利を私せず、ただ德のみ共にすることで、もし私が好爵(良い酒器)をもっていたら、私はもとより君と分け散じて共に飲み、なので「私に好爵(良い酒器)があれば、私と君はともに靡(飲む)」という。

「益」者、増足之名、損上益下、故謂之益。……六三以陰居陽、不能謙退、是求益者也、故曰「益之」。益不外来、已自為之、物所不與。若以救凶原之、則情在可恕。然此六三、以陰居陽、處下卦之上、壮之甚也。用此以救衰危、則物之所恃、所以「用凶事」而得免咎、故曰「益之、用凶事、無咎」。若能求益不為私己、志在救難、為壮不至亢極、能適於時、是有信實而得中行、故曰「有孚中行」也。用此「有孚中行」之德、執圭以告於公、公必任之以救衰危之事、故曰「告公用圭」。

「益」は、増やして足すことで、上を損して下を益するので、これを益という。……六三は陰爻だけど陽(奇数)のところに居て、謙して退くことができないので、これは益することを求める者で、それ故「これを益す」という。その益することが外から来たものに依らず、自らこれをするだけだと、物事はついて来ないけれど、もし凶を救うためにこれを求めるなら、その情は恕(許す)べきではある。そうはいってもこの六三は、陰爻にして奇数に居て、内卦の上にいるので、壮の甚しいものではある。これによって衰危した物を救うとすれば、物はこれを頼ることになり、「凶事に用いて」咎を免れるを得て、それ故「これを益すに、凶事に用いれば、咎なし」という。もし益するを求めて己のためにしなければ、志は難を救うにあり、壮にして亢極(驕り亢ぶる)に至らず、時に適っているので、これは信あって中行(道に適う行い)なので、「孚有りて中行なり」という。この「孚有りて中行」の德で、圭(玉)を持って公に告げれば、公は必ず衰危を救うことを任ずるので、「公に告げるに圭を以てす」という。

「利女貞」者、既修家内之道、不能知家外他人之事。統而論之、非君子丈夫之正、故但言「利女貞」。火出之初、因風方熾。火既炎盛、還復生風。内外相成、有似家人之義。故曰「風自火出、家人」也。……六二履中居位、以陰応陽、盡婦人之義也。婦人之道、巽順為常、無所必遂。其所職主、在於家中饋食供祭而已、得婦人之正吉、故曰「無攸遂、在中饋、貞吉」也。

「女の貞(正しきに)利あり」とは、既に家内の道を修め、家外他人の事を知らず、大きくいうと、君子丈夫の正ではないので、「女の貞しきに利あり」という。火が出た初めのときは、風によって火は熾んになり、火が既に盛んになると、また風が出てくる。内外の相い成し合っているのは、家人の義に似ている。なので「風は火によりて出づる、家人なり」という。……六二は内卦の中に居て、陰爻でありつつ五爻の陽に応じていて、婦人の義を尽している。婦人の道は、順うことを常にして、必ず何かを遂げようというのはなく、その職の主なものは、家の中で食べ物を用意したり祭に供えたりということのみで、これは婦人の正吉を得ていて、なので「遂げるものは無いけど、中饋は有って、貞吉」という。

 なので、『周易正義』で読むと、蘇轍は難に遇ったけれどみずからその馬に乗って逃げて、それでいて目立たずに生きていてもその名は伝わって訪ねてきた人たちと遊宴して、その中で困っている人のために公に頼んでやや汚い方法で救うようにしたり、その人の家に呼ばれて饗(もてなされて)楽しんでいることになります。六朝貴族です。

 さらに、沢地萃の占例では、松尾芭蕉に関するものが載っています。これはそのままの引用です。

芭蕉の高弟・宝井其角が芭蕉四十歳のとき、師の運勢を大巓和尚に占ってもらったところ、この萃(萃は集まる、悴:憂う、瘁:病むなどの説がある)に遇った。其角が芭蕉追善のために編んだ『枯尾花』にいう、「円覚寺大巓和尚を申すが、易にくわしけるによりて、うかがい侍るに、或時、翁(芭蕉)が本卦のようをみんとて、年月時日を古暦に合わせて筮考せられけるに、萃という卦にあたるなり。是は、一もとの薄の風に吹かれ、雨にしおれて、うき事の数々しげく成りぬれども、命つれなく、かろうじて世にあるさまに譬えたり。さればあつまるとよみて、その身は潜かならんとすれども、かなたこなたより事つどいて、心ざしをやすんずる事なしとかや。信に聖典(易)の瑞(しるし)を感じける。」其角は、いま完結した師匠の生涯を振り返って、その運命を薄に喩えた十年前の大巓の占は当たっていたと述懐しているのである。

 これは、有名な芭蕉辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の枯野、あるいは晩年に江戸に来たときに詠んだ「ともかくもならでや雪の枯尾花(どうということにもならず、雪の中での枯れ尾花)」のことを予見していた、あるいはその憔悴している中でもさまざまな思いの萃って枯野をかけ廻るような一生だったという俳諧への想いを読んでいたのかもしれないというのかもです。
(薄の萎れている様子(悴・瘁)と、雨や風が萃(あつまって)いる様子をほとんど文学化して読んでいる感じがあって、江戸初期の荒涼とした冬の雰囲気が残っている易です)

 というわけで、色々な易の解釈を一冊にごった煮にしたような本なのですが、易はいつでも色々な解釈ができて、その人ならではの易になっていた話を『漢書』巻八十八 儒林伝から幾つか。

費直字長翁、東萊人也。治易為郎、至単父令。長於卦筮、亡章句、徒以彖象繋辞十篇文言解説上下経。

費直、字は長翁といって、東莱(山東省烟台市)の人だった。『易』を治めて郎となって、単父県(山東省渮沢市)の令となった。占筮に長じていて、章句(注釈は)用いず、ただ彖伝・象伝・繋辞伝など十篇の文で『易経』を読んでいた。

高相、沛人也。治易與費公同時、其学亦亡章句、専説陰陽災異、自言出於丁将軍。

高相は、沛(安徽省淮北市)の人で、『易』を治めたのは費直と同じ時で、その易学はまた章句(注釈)を用いず、専ら陰陽災異のことを説いて、自らは丁将軍(丁寛)から派生した占法だと言っていた。

丁寬字子襄、梁人也。初、梁項生従田何受易、時寬為項生従者、読易精敏、材過項生、遂事何。学成、何謝寬。寬東帰、何謂門人曰「易以東矣。」……景帝時、寬為梁孝王将軍距呉楚、號丁将軍、作易説三萬言、訓故挙大誼而已、今小章句是也。

丁寬は字を子襄といって、梁(河南省商丘市)の人だった。初め、梁項生という人が田何について易を学んでいて、丁寬は梁項生の従者だったが、『易』を読むこと精敏にして、才は梁項生に過ぎていたので、とうとう田何について易を受けた。学が成って、田何は丁寬に帰らせた。丁寬が東に帰っていくと、田何は門人に「易は東に行った」といった。……景帝の時、丁寬は梁孝王の将軍となって呉楚七国の乱を距(ふせいで)、丁将軍と呼ばれた。『易説』三万字を作って、訓故(注釈)は大意をあげるだけで、今の『小章句』というのは丁寛が作ったもの。

 易の本文だけで占ったり、災異の説を混ぜていたり、~の系譜と云っていながら、その注釈を使わなかったりという感じで、どこまでも渾沌としていて、渾沌を無理やり秩序化しようとしてますます渾沌としている感が沼っぽいというか、かわいい見た目で中身はエグい本です(この鈞窯ふうの壺も好みだったりする)。

 ちなみに、アイキャッチ画像は去年7月ごろに行った尾瀬の沼。尾瀬の沼って、龍宮現象といって、沼と沼が下で繋がっていたり、それぞれ微妙に植生が違ったりするのが不思議です。

参考文献
三浦國雄『易経』
加藤大岳『真勢易秘訣』
黄小娥『黄小娥の易入門』

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を大学院で学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)です。 西洋占星術のブログも書いています